Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シラーの歓喜に寄せて

2005-12-18 | 文学・思想
シラーイヤーを記念して多くの出版があった。シラーに関しては、ウイリアム・テルを近々観にいければ良いと思うが叶うだろうか。ベートーヴェンの合唱付き交響曲はシラーの詩に作曲されている。その「喜びの歌」はEUの歌にもなっており、そのメロディーは世界的に有名である。

哲学者マルティン・ハイデッカーは、1936年フライブルクにおいて、老人講座を持っていた。フリードリッヒ・シラーの「情操教育に関する手紙」に関しての初心者講座であった。今回、その講座を聴講していたフライブルクの老医師のノートを基に、哲学者オード・マルカドがこの講座について纏めた研究書がシラー財団から出版された。

そこでハイデッカーは、シラーの「群盗」を講義していた事が判っている。この戯曲は、シラーの出世作で、1781年にマンハイムのナショナル・テアターで大成功した。キャラクターの全く違う兄弟を通して、特に盗賊の首領となるアウトサイダーの兄の理想主義を通して、舞台が進む。体制社会に住む陰謀に長けた利己的な弟との骨肉の争いを軸に、兄が盗賊組織の仲間の為に故郷の恋人を刺す物語である。

ハイデッカーは、1795年のシラーの手紙がフランス革命批判でありながら、ドイツに対する対処案は持っておらず、芸術へや同時代や政治に関してやヘルダリンへの思索から断絶の試みであったと言う。

哲学者へーゲルによる「芸術はもはや我々の実存の真実や目的に直裁に結ばれているのではない」と言う前提をもって、ハイデッカーはシラーを読んで行く。カント研究家でもあったシラーの「素材と形態」と言う美学は、ジャコバン派のような「徳の独裁」を経ること無く、君主を筆頭とする階級社会を基礎とする自然国家が理性的な国家によって置き換えられていくとする課題に読み変えられるようである。そしてシラーがそこに可能性を求めたのが、教養であって教育を受けた性格であったのだ。それらは、自らの主義主張への感情を抑制して、各々のそれを押さえつける事無く営われる社会を可能とする。

情操教育がこれを可能にするのは、芸術の受容はその芸術的な雰囲気というものが衝動と規則、愛着と義務、直感と思索の矛盾を知らないと考えるからである。これは、「疾風怒涛」の芸術運動を過ごした作家シラーらしい言葉でもあるが、具体的にはフンボルト大学やギムナジウムを指すらしい。

このようなシラーの理想主義に対して、ハイデッカーは、「シラーにおいては、美学は状態ではなくて、またもや現実逃避ではなくて現実成就を意味する。」と定義する。そして、技術文明における余暇のつまらない代償的な芸術の機能とこの有名詩人の予言への批判との間でシラーの「教育の方法」を認識して行く。そして、講座の最後になって初めて、予想通り、シラーの理性への固執が自由主義と虚無主義を導いたと結論付けたとされる。

ここで何も戯曲作品の「群盗」や「ドン・カルロ」、「ウイリアム・テル」を詳しく調べるまでもなく、シラーをゲーテよりも評価していたというベートーヴェンの1824年に初演された第九交響曲を調べると、このドイツ啓蒙主義の流れが具体的に解かるかもしれない。(考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19 へと続く)



参照:
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30
2005年シラー・イヤーに寄せて [ 文学・思想 ] / 2005-01-17
平均化とエリートの逆襲 [ 文学・思想 ] / 2005-11-06
吐き気を催させる教養と常識 [文化一般] / 2005-08-18
死んだマンと近代文明 [ 文学・思想 ] / 2005-08-14
トンカツの色の明暗 [文化一般] / 2005-07-11
エゴの覚醒と弁証の喧騒 [アウトドーア・環境]/2005-08-19
コメント (2)
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