1920年代の音楽芸術事情を知るエピソードがある。それはヒンデミットによってドナウエッシンゲンやバーデン・バーデンへと招かれた作曲家ヴェーベルンの例である。戦後の前衛のアイドルとなった新ヴィーン楽派のこのゲスト作曲家が表現主義作家トラクルの詩に作曲した六曲の歌曲作品19を、そこで初演している事を挙げれば良いだろう。その招聘のコレスポンデンスも面白いが、この同年輩の二人の作曲家の創作の差はそれ以上に興味深い。
それ以後もヴェーベルンの徹底は、倹約から合理へと構造的な経済の追求であった。彼が、終戦を迎えて間もないある日、夕暮れに戸外へと出てタバコを一服していると、闇売買屋に間違われて米軍MPに射殺された。この悲劇は、其の過程と無理なく通ずる気がするのだが、如何だろう?
実際、1920年代に繰り広げられて来た大いなる実験も終わりを告げようとしていた。その実験は、バウハウス運動に代表されるような科学技術・芸術表現の理論化・体系化であって制作の経済を意味するものが作曲分野で試みられたと言っても誤りではないだろう。自然の秩序に従う限りは、大きく回り道をする心配は必要ない。しかしそこには、作曲家ヒンデミットの有名な言葉「実用音楽」が何時も間違って解釈される原因がある。その経済の根本を考えてみるが良い。この経済化・効率化は、決して元来そのものがイデオロギーではなくて、その理論化・体系化は方法でしかなかったのである。つまり、この作曲家においては、その実験を通して何らかの目的に到達したと言えるものではなくて、そこで得られたものがより中庸な熟練となって行く過程を示している。
同様な現象が造形芸術においても見られるが、その言われるところの表現主義・新即物主義・新古典主義等のイデオロギーの錯綜は、この大戦間の欧州の文化風潮を特徴付けているかもしれない。つまり、何らかのイデオロギーに対するアンチテーゼが、ここでヒンデミットが言う 実 用 であって、そのようなカオス状態の中で唯一理性的に振舞える方策でもあったのだろう。それは懐疑による止揚でなくて、否定による弁証でもある。
さてヴィデオの演出は、鬼才ジャン・ピエール・ポネルの代表作になるのだろう。ルネッサンス風の天井や内側へと傾く家並みは、楽劇「マイスタージンガー」のニュルンベルクの中世の町並みの威圧感とは反対に、密集と同時に天に開かれている。その演出の細部も、寸止めの効果と決して手に汗を握らせない微妙な演技指導で、演出家の音楽に対する並々なる理解度を証明している。マッキンタイヤー扮するタイトルロールも鬣を立てて、客を人とも思わぬ職人ぶりから、常軌を逸した特性を良く示しており、殆んどそのキャラクターは笑いを誘うほどにユーモアに満ちている。そして、作曲家の歌のラインの設定と管弦楽の付け方が非常に素晴らしく、このような伝統は幾らかハンス・ヴェルナー・ヘンツェらに渡し継がれているようだ。指揮のヴァオルフガンク・サヴァリッシュもその知的なキャラクターが決まっていて素晴らしいが、楽想の細かな処理の仕方などは、恐らく今回パリで演奏されたケント・ナガノの指揮には及ばないかもしれない。
モルティエ博士の下で、このオペラは今回パリで上演された。情報を頂きながら公演を訪問とはならなかったが、その批評や感想を聞いたり読んだりすると、更に劇場のHPでの紹介を見るとなんとか思い描く事が出来る。それらを総合すると、その舞台設定を1920年代にしている事が多くを語っているようである。作曲家自身が生きて、過去から脈脈と伝えられた表現を、選択放棄された素材の効果を試し尽くした時代で、ベルリンでは永遠上昇音階などが使われたアルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェック」が初演されている。しかしこれをヒンデミットの職人気質と言うには余りにこの時代は作為的過ぎる。パリの路上でのシーンもパリの屋根の上と置き換わっているようで面白い。歌手の評価も良かったようだが、その成功の牽引車であった指揮のケント・ナガノがミュンヘンに就任してより尚一層板についた上演が期待出来るか。そのクールでありながら華のある音楽は、ヒンデミットの魅力を引き出してくれるだろう。(オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09より続く)
参照:
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12
ヴァイマールからの伝言 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-03
それ以後もヴェーベルンの徹底は、倹約から合理へと構造的な経済の追求であった。彼が、終戦を迎えて間もないある日、夕暮れに戸外へと出てタバコを一服していると、闇売買屋に間違われて米軍MPに射殺された。この悲劇は、其の過程と無理なく通ずる気がするのだが、如何だろう?
実際、1920年代に繰り広げられて来た大いなる実験も終わりを告げようとしていた。その実験は、バウハウス運動に代表されるような科学技術・芸術表現の理論化・体系化であって制作の経済を意味するものが作曲分野で試みられたと言っても誤りではないだろう。自然の秩序に従う限りは、大きく回り道をする心配は必要ない。しかしそこには、作曲家ヒンデミットの有名な言葉「実用音楽」が何時も間違って解釈される原因がある。その経済の根本を考えてみるが良い。この経済化・効率化は、決して元来そのものがイデオロギーではなくて、その理論化・体系化は方法でしかなかったのである。つまり、この作曲家においては、その実験を通して何らかの目的に到達したと言えるものではなくて、そこで得られたものがより中庸な熟練となって行く過程を示している。
同様な現象が造形芸術においても見られるが、その言われるところの表現主義・新即物主義・新古典主義等のイデオロギーの錯綜は、この大戦間の欧州の文化風潮を特徴付けているかもしれない。つまり、何らかのイデオロギーに対するアンチテーゼが、ここでヒンデミットが言う 実 用 であって、そのようなカオス状態の中で唯一理性的に振舞える方策でもあったのだろう。それは懐疑による止揚でなくて、否定による弁証でもある。
さてヴィデオの演出は、鬼才ジャン・ピエール・ポネルの代表作になるのだろう。ルネッサンス風の天井や内側へと傾く家並みは、楽劇「マイスタージンガー」のニュルンベルクの中世の町並みの威圧感とは反対に、密集と同時に天に開かれている。その演出の細部も、寸止めの効果と決して手に汗を握らせない微妙な演技指導で、演出家の音楽に対する並々なる理解度を証明している。マッキンタイヤー扮するタイトルロールも鬣を立てて、客を人とも思わぬ職人ぶりから、常軌を逸した特性を良く示しており、殆んどそのキャラクターは笑いを誘うほどにユーモアに満ちている。そして、作曲家の歌のラインの設定と管弦楽の付け方が非常に素晴らしく、このような伝統は幾らかハンス・ヴェルナー・ヘンツェらに渡し継がれているようだ。指揮のヴァオルフガンク・サヴァリッシュもその知的なキャラクターが決まっていて素晴らしいが、楽想の細かな処理の仕方などは、恐らく今回パリで演奏されたケント・ナガノの指揮には及ばないかもしれない。
モルティエ博士の下で、このオペラは今回パリで上演された。情報を頂きながら公演を訪問とはならなかったが、その批評や感想を聞いたり読んだりすると、更に劇場のHPでの紹介を見るとなんとか思い描く事が出来る。それらを総合すると、その舞台設定を1920年代にしている事が多くを語っているようである。作曲家自身が生きて、過去から脈脈と伝えられた表現を、選択放棄された素材の効果を試し尽くした時代で、ベルリンでは永遠上昇音階などが使われたアルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェック」が初演されている。しかしこれをヒンデミットの職人気質と言うには余りにこの時代は作為的過ぎる。パリの路上でのシーンもパリの屋根の上と置き換わっているようで面白い。歌手の評価も良かったようだが、その成功の牽引車であった指揮のケント・ナガノがミュンヘンに就任してより尚一層板についた上演が期待出来るか。そのクールでありながら華のある音楽は、ヒンデミットの魅力を引き出してくれるだろう。(オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09より続く)
参照:
音楽愛好家結社 [ 音 ] / 2005-12-12
ヴァイマールからの伝言 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-03