Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

豊かな闇に羽ばたく想像

2006-08-20 | 文化一般
2006年バイロイト祝祭劇場の「ニーベルンクの指輪」新演出の批評が続く。先日のドルスト演出公演の失敗をユルゲン・フリム演出のつまらないと言う評価の公演に重ねる。

準備不足の生半可な演出と上演結果を招いて、向こう六年間のヴァーグナー祝祭公演の低調を決定付けたのは、演出を請負いながら途中で放棄したフォン・トリアー氏に違いない。

そしてここに来て映画「ドッグヴィル」で秀逸な成果を見せた当代を代表する映画監督の幻のバイロイト新演出の下書きが注目されている。映画の配給会社のホームページ(Links)で挫折への道のりと前夜際に続く第一夜「ヴァルキューレ」と第二夜「ジークフリート」のト書きを読む事が出来る。

これを新聞で紹介しているユリア・シノポラ女史は、何とか初日にこぎつけたドルスト演出よりも、フォン・トリアーの「指輪」が実現していたならば、シュリンゲンジッフの「パルシファル」と同様に、その予想された芸術的な破綻はより多くの視界を開いたのではないかと無念がる。

この批判の根底には、ここ数年盛んであった「劇場オペラ演出の時代は終わった」とする見解がある。フォン・トリアー氏のプランを読むと、「豊かな闇」をモットーとして、イリュージョンの世界を創出しようとしたようだ。初演の自身の演出にも満足しなかった作曲家が目指したものは、現代で言えば「ライヴの映画」と音楽であったとする。

このコンセプトと完璧への欲求が、舞台と奈落と客席の空間別けの伝統と初演当時に求めたような「蝋燭の光の効果」への投資を困難にして、計画を挫折へと導いた。当然のことながら知的分析と明晰な感性を要求される音楽には保守的な指揮者では要を得なかったであろう。

劇場の聴衆の想像力の中に活き活きと存在する神話の神々は、「緑の丘」には結局戻ってこなかったが、そうした可能性を示唆しているに違いない。主役は、作曲家の構想の下、今や指揮者でも演出家でもなく、況してやドイツ語の歌えない歌手などでは決してなくて、プロジェクトを使いこなす映画監督で、そして何よりも聴衆の想像力なのである。もともと初演の舞台は暗くて、作曲家にも初演の歌手の顔の見分けなどは出来なかったとするのが面白い。
コメント (7)
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