Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

78歳の夏、グラスの一石

2006-08-15 | 歴史・時事
昨年の総選挙前の取っておいた新聞記事に目を通した。ギュンター・グラス氏が都合五回の演説会をエスペーデーのために行っていて、その旅の途上同行して記事としている。

グラス氏は、SPDから脱党して十年以上経っている。1969年には百回と言う驚異的な選挙遊説運動をこなしている。

遅すぎた告白については、ヴァレサ元連帯代表をはじめ政治家や文化人からも批判が一通り出た。ヴァレサ氏の批判は最も厳しいものの一つでダンチッヒ名誉市民とノーベル賞の両方ともを返上しろと言うものである。

グラス氏は、「今や日本では誰からも相手にされない」と嘆く大江健三郎氏の場合程ではないかもしれないが、選挙期間中には町中では誰もこのノーベル文学賞作家に関心を示さなかったという。

その意味するところは一言では言えないが、戦後のイデオロギーのぶつかりあいの中で左右として分かれていた文化人たちの時代が遠の昔になってしまっているのだろう。だからこそ、今回の発言も注目を引くための新著の宣伝を兼ねたギャグだとまで言われる。

しかし、氏は何に関心を引きたかったかと言えば、その的は良心に苛まれた文化人ギュンター・グラス本人では決してないであろう。東西ドイツの統合にも異議を唱えた賢人であるからして、興味のある者はそこに関心の焦点を絞るべきだ。

歴史学者などは、「機会がありながら、言い損ねた理由に興味津々。」と言い、個人的な理由を示唆しながらも今回の行動は非常に政治的なものとしている。同時に「上昇志向キャリアー上の戦略との見解はどうしても避ける事が出来ない。」として大変卑近ながら現在にも通じるテーマとする。実際、針の穴を突付くような文学研究家は別として、新たな文学的興味を殆ど引き起こさない発言であった。

文学者が政治に関与する良き伝統とするグラス氏であるが、文学者が虚を実とするように、政治家は嘘をつくことで実を目指す。ただ、今回のことで戦後への大きな視線を得る機会を与えられたが、先の大戦の責任を問われる若しくは取れる世代は殆ど居なくなってきている事を改めて思い起こさせた。

そして考えた。グラス氏は、孫の世代が政治に全く違う関心を持っていることに気がついた。ヴィリー・ブラントを背景とする自身の政治的発言も、時間の遠近法の中で違うように見えてくることに。

作家の友人で既に献呈された新著を読んだエーリッヒ・ローストは、「今後とも友人であることは変わらないが、今頃の述懐が理解出来ない」としている。著書にその回答が見出されないのは予想されたことである。

独新聞各紙の反応に思想の様々な様相が見える。逐一記述しないが、この遅れた悔悟への不快感が各々の新聞が是としている信条や思想的傾向を明確に映し出す言論となっている。

活動家グラスをもともと政敵とする大衆紙から安物の保守系新聞では、皮肉った見解を示し、比較的表層的に処理しようとするに対し、左派系若しくはリベラル系の新聞は真剣に受け止めている。

ターゲス・ツァイトングがその文学的内容を見直さなければならないとしているのに対して、フランクフルター・ルントシャウの一節も面白い。「もし、グラスの矛盾を反面教師としていたならば、連邦共和国の歴史で最も根幹となり更に罪として逃れられないもの、また殆ど 罪 の 自 尊 心 (注:所謂自虐感の裏返し)やそれからの解放が、原理主義的に正統的なお墨付きを刻印されなかったであろう。」と、まさにイデオロギーに縛られて来たジャーナリストの自己反省ともしている。反対に痒いところに届かないかのようにポイントを突けず、その発言よりも賢く明晰な氏の文学の傾向を「遅れた悔悟」と同一の懐疑とする南ドイツ新聞は一体どうだろう。

まさに、このことが今回の発言の意義であり、先のワールドカップで解放されたパトリオリズムやポストモダーンな世界観の現在の社会に一石を投じたとして良いのではないだろうか?



参照:
知っていたに違いない [ 歴史・時事 ] / 2006-08-24
正当化の独逸的悔悟 [ 文学・思想 ] / 2006-08-13
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
歓喜の歌 終楽章 [ ワールドカップ'06 ] / 2006-07-01
コメント (15)
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