昨晩は、隣町へ食事に行った。夕方7時を過ぎても大変明るく、まだ目を通していない新聞を抱えてぽつぽつとワイン畑を歩く。久しぶりの晴天に、斜めから射す太陽が首筋に暖かい。
前方から小柄な女性がこちらへと向かって近づいてくる。挨拶した時の反応が中国人の様であった。東アジアの初老の女性としては比較的体格が良いので漢民族に違いない。町に在ったただ唯一の中華料理屋も知らぬ間に閉店して大分経つので、この町で何をしているのかと訝しげに思う。
葡萄の房は、一部が食べられるほど実るも、上部には未発達な房が放置されている。陽気のせいで隣町に着く頃には体も暖まって、僅かに草生した感じが残暑と言う気配もするが、汗を感じるほどでは全く無い。隣町の長い石畳の道路を町の反対側へと進むと、窓から老人が外を覗いていたりする。PARK UN LAAFと言う方言の駐車案内の看板を見ながら、目的のレストランを目指す。
予想を超える賑わいで、室外だけでなく室内も一杯である。顔見知りの給仕人に空いている席を訊ねると、あるとは思わないと言うので、相席を自ら探す。二人のご夫人がかけている、天井が開いた元ぶどう棚の下の大きなテーブルを見付け、相席を申し出る。
足の不充分な八十歳を遠に超える白髪の母親と娘さんである。母親の方が何かと興味がありそうで話していると、神戸のフロインドリープのご主人の従兄妹さんと判明する(古いと言う会社の英語の名前を聞いても分からなかったが、後でネットで確認出来る。)。神戸の独日混血の跡取りと結婚した様だ。
NHKの朝のTVドラマなどで有名なお店である。子供の頃に立ち寄った記憶が薄っすらとあるが詳しくは思い出せない。こうした例は他にもあって、戦時中に神戸に駐留していた父親と住んでいた娘さんもワイン街道に知っているが、詳しい事情は話したがらない。彼女には、ドイツ人のお隣さんが出てくる谷崎の「細雪」を薦めた。父親はUボート関係かとも思ったが、それこそ親衛隊関係だったのかもしれない。また神戸製鋼創立時に技術指導したエンジニアーの孫も知っている。明治以来の独日関係は深く、港町神戸にも特別な関係を築いている。
比較的新顔のブロンドの給仕人嬢に、先ずはリースリング・シューレを注文して、結局お勧めの豚の薄切り肉カルパッチョと焼きジャガの皿と注文する。それでは満足できずに林檎ソースで食べるライブクーヘンと言う、カトルフェルプッファーの一種であるジャガ芋を卸して焼いたものを量を減らして食後に注文する。料理に付いては十分に説明出来ない給仕嬢ではあるが、この気使いは嬉しい。ソースの甘さを確認してから、半辛口のワインに切り替える。
肌寒くなって来たので、同席のシュトッツガルトに住む娘さんは、母親に羽織るものを盛んに薦めるが、ワインを飲んで温まるからいいんだと言い張り、皿を全部は食べられないながら、言い残すことが無いとご満悦である。日本人の親戚連中がやって来た時、ワインを楽しんだが、あるところで急に飲めなくなることに気が付いたと言う。分解酵素の話である。娘さんの旦那さんは67歳で、今もクライミングを楽しんで元気だと言う。
暗くなりかけて、娘さんに腕を支えられながら杖を突いて出て行く。薄暗闇でギュンター・グラス関連の記事などを読みながら、隣の席の奥さん連れの年寄りのオヤジ達が絡みがちに給仕嬢の腕に触れているのが苦々しい。
18ユーロ幾らかの支払いにチップを弾んで20ユーロをカードで支払う。帰路の夜道を歩くと、今晩は珍しくライン平野から吹き上げる風が、数キロ離れた鉄道の音を運び、空をゆっくりと巡航するP3Cの緩やかな響きと投光機がかすかに意識に入る。夜間灯を付けて作業するトラクターも光を投げかける。
好ましく選んだワイン畑の中の往路と復路は、街道を挟んで反対側に其々平地と山裾に位置する。町に戻って入ってくると、往きに気が付いていた病気の親仁さんの家に白い恐らく呼び鈴のコードが上階の窓へと延びているのを確認する。下の階の窓が親仁さんが自宅療養している部屋なのだろう。
前方から小柄な女性がこちらへと向かって近づいてくる。挨拶した時の反応が中国人の様であった。東アジアの初老の女性としては比較的体格が良いので漢民族に違いない。町に在ったただ唯一の中華料理屋も知らぬ間に閉店して大分経つので、この町で何をしているのかと訝しげに思う。
葡萄の房は、一部が食べられるほど実るも、上部には未発達な房が放置されている。陽気のせいで隣町に着く頃には体も暖まって、僅かに草生した感じが残暑と言う気配もするが、汗を感じるほどでは全く無い。隣町の長い石畳の道路を町の反対側へと進むと、窓から老人が外を覗いていたりする。PARK UN LAAFと言う方言の駐車案内の看板を見ながら、目的のレストランを目指す。
予想を超える賑わいで、室外だけでなく室内も一杯である。顔見知りの給仕人に空いている席を訊ねると、あるとは思わないと言うので、相席を自ら探す。二人のご夫人がかけている、天井が開いた元ぶどう棚の下の大きなテーブルを見付け、相席を申し出る。
足の不充分な八十歳を遠に超える白髪の母親と娘さんである。母親の方が何かと興味がありそうで話していると、神戸のフロインドリープのご主人の従兄妹さんと判明する(古いと言う会社の英語の名前を聞いても分からなかったが、後でネットで確認出来る。)。神戸の独日混血の跡取りと結婚した様だ。
NHKの朝のTVドラマなどで有名なお店である。子供の頃に立ち寄った記憶が薄っすらとあるが詳しくは思い出せない。こうした例は他にもあって、戦時中に神戸に駐留していた父親と住んでいた娘さんもワイン街道に知っているが、詳しい事情は話したがらない。彼女には、ドイツ人のお隣さんが出てくる谷崎の「細雪」を薦めた。父親はUボート関係かとも思ったが、それこそ親衛隊関係だったのかもしれない。また神戸製鋼創立時に技術指導したエンジニアーの孫も知っている。明治以来の独日関係は深く、港町神戸にも特別な関係を築いている。
比較的新顔のブロンドの給仕人嬢に、先ずはリースリング・シューレを注文して、結局お勧めの豚の薄切り肉カルパッチョと焼きジャガの皿と注文する。それでは満足できずに林檎ソースで食べるライブクーヘンと言う、カトルフェルプッファーの一種であるジャガ芋を卸して焼いたものを量を減らして食後に注文する。料理に付いては十分に説明出来ない給仕嬢ではあるが、この気使いは嬉しい。ソースの甘さを確認してから、半辛口のワインに切り替える。
肌寒くなって来たので、同席のシュトッツガルトに住む娘さんは、母親に羽織るものを盛んに薦めるが、ワインを飲んで温まるからいいんだと言い張り、皿を全部は食べられないながら、言い残すことが無いとご満悦である。日本人の親戚連中がやって来た時、ワインを楽しんだが、あるところで急に飲めなくなることに気が付いたと言う。分解酵素の話である。娘さんの旦那さんは67歳で、今もクライミングを楽しんで元気だと言う。
暗くなりかけて、娘さんに腕を支えられながら杖を突いて出て行く。薄暗闇でギュンター・グラス関連の記事などを読みながら、隣の席の奥さん連れの年寄りのオヤジ達が絡みがちに給仕嬢の腕に触れているのが苦々しい。
18ユーロ幾らかの支払いにチップを弾んで20ユーロをカードで支払う。帰路の夜道を歩くと、今晩は珍しくライン平野から吹き上げる風が、数キロ離れた鉄道の音を運び、空をゆっくりと巡航するP3Cの緩やかな響きと投光機がかすかに意識に入る。夜間灯を付けて作業するトラクターも光を投げかける。
好ましく選んだワイン畑の中の往路と復路は、街道を挟んで反対側に其々平地と山裾に位置する。町に戻って入ってくると、往きに気が付いていた病気の親仁さんの家に白い恐らく呼び鈴のコードが上階の窓へと延びているのを確認する。下の階の窓が親仁さんが自宅療養している部屋なのだろう。