Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

適切な国の責務とは?

2007-06-02 | 歴史・時事
(承前)「市民の自由への希求は、ハムバッハー祭りの時代と比べて、今日しばしばさらに先鋭化する次ぎなる課題を導くのです。市民の安全を護る国の義務と市民の自由への憲法上の配慮が相反することになるのです」とフォン・ヴァイツゼッカー元大統領は演説を続ける。

私達は皆、民主主義が破壊される幾つかの兆候を、国境の解放、グローバリズム、テロリズムの恐怖に見ています。市民の自由が自らの保護のためにではなく不適切に制限されるとき、「自由市民の保護は公正であれ」と言う大変大きな責務を担っております。その適切に関しては、盛んな議論があるのです。これが大切なのです。

これは、私達の自由を理解する良い兆候で、ハムバッハでの重要な演説を読むように理解をするのです。ハムバッハーの遺産である 適 切 な 処 置 を伴なう自由の目標は、私達にとっても変わらぬ生きた課題なのであります。

しかし、1832年のさらなる合言葉は「自由と統一」であって、諸外国に励まされて、自らの国に求めた自由とは、ドイツにとっては些か違うものであったのですと続ける。

一体ハムバッハーの主張とは、何だったのだろう?先ず統一か、そして統一されたなかでの自由だったのか?それともです、自由は道具として先にあり、それを以って統一を可能とするのか?この当時の疑問を追えば追うほど、ハムバッハーの主張を現在にも活かしていかなければいけないことが益々はっきりとしてくるのです。

それを見るには、1806年ヴィーンにおいて神聖ローマ帝国の王冠を皇帝が降ろしてから、過去二百年のドイツの歴史をざっと見る必要があるでしょう。ナポレオンがロシアのツァーの力を使って古い世界を征服して、ヴィーン会議にフランス王を向えた時、ドイツはどうだったのでしょう。オーストリアとプロイセンがかなりの絶対君主へと進むのです。「統一」と「自由」は?そしてドイツ連邦は、中欧で殆ど意味を失っていました。それは、中欧の共通の願いとして、求心力を持つのではなく、ある程度の秩序を意味していたのです。

そして産業革命が徐々に始まり、自由主義へと流れは移って行きます。統一と国への願いは高まる。ここから元大統領は、スラヴ運動やヤーンの活動を挙げて所謂民族主義的な傾向を客観視すると共に、「民主的共和制」の勃興にハムバッハー祭を組み入れる。つまり、「日々の市民の、各々が自由に共生するために、どうすれば良いかの判断が国」であると言明する。これが、後にフランス人ルナンが言う« La Nation est un plébiscite de tous les jours »である。

そこで相成った旗印が三色旗であるとするが、金色が神聖帝国を表わすとする説からすると若干異なる意見でもある。シラー百年が盛り上がり、フランクフルト国民議会は、成果の出なかった1948年革命同様に、希望を持って開かれたが、ここでも成果は出なかった。ベルリンの王家は、国民から王位を授かるよりも選定候からのそれを欲しがった。

そしてビスマルク時代が来るとするが、既に演説のはじめに詩人クライストのロマン思考やシラーが処したように、革命的なナショナリズム的な民族主義的運動としてそれらをここまでの史実として一括しているのである。

そのビスマルクにとっては、ナショナリズムの声は、推進するものにはならなかった。大ドイツ主義に対してヴィーンを抜いた小ドイツ主義を採って、血と鉄のみならず、プロシアの主導の下ヴェルサイユ宮殿にて、小ドイツが発足する。やっと、重要な近隣の諸国に遅れて、ドイツがやってくるのである。

これで、「ドイツとは」との開かれた問いに回答しているでしょうか?バランスと中庸を採ったビスマルク以上に、東西の狭間となるドイツ帝国の置かれている地政学的位置付けを熟知している者はいなかったのでした。それは、欧州の中心にある枠を越えることなく存在すべきなのであります。(続く



参照:
推定無罪の立証責任 [ 雑感 ] / 2007-04-21
秘密の無い安全神話 [ 雑感 ] / 2007-02-11
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
煙に捲かれる地方行政 [ 生活 ] / 2006-12-12
イドメネオ検閲の生贄 [ 音 ] / 2006-09-29
自尊心満ちる軽やかさ [ ワールドカップ06 ] / 2006-07-12
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