Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

制限域の自由な境界線

2007-06-08 | 
ハイリゲンダムのG8サミットの主人公は、具体的CO2削減目標が出ない限り、反グローバリズムの議会外活動家に違いない。恐らく、警備費用を含む人件費などをいれるとそれらの平和的活動を保障する警備費が、檻内のG8会議費用を上回るに違いない。膨大な公共投資の対象となった自由民主主義運動である。

カールツルーヘの憲法裁判所は、「集会の自由の制限」への強制執行を伴う判断を下さなかったが、自由な集会の出来る環境整備を提供出来なかった警備当局を批判している。この判断を受けてATTACは、柵へ向けての行進のプログラムを断念した。これは、民主主義の根幹にあるだけに今後も議論される。

その一方、平和的な議会外政治行動を催すとしても、更にその参加者が増え、国民的な大祭典となるとき、どうしてもその群集の挙動は大関心事となる。

ノーベル文学賞作家のエリアス・カネッティは、その大衆を幾つかの種類に分けて扱っているが、先ずここで当てはまるのは祭りの群集ではないだろうか。そこで言われる祭りの群集は、特別な目標を持たないのである。だから、飲み食いをして、祝祭的なときを共に過ごすのである。男から女へ、女から男へと、禁断は解かれ無礼講に酔いしれるのである。

それに対して、禁止された大衆を定義する。境界を引かれて、ダムが築かれて、禁止されることによって、行動目標が統一されて先鋭化する群衆である。その典型的な例として、労働放棄のストライキが挙がる。労働は手で行うもので、普段は様々な役割を与えられ分担して生産に当たっているが、それを放棄することで同じ目標へと向かうのである。それは、労働者だけでなく、その労働によって公共サーヴィスを受けている者までが、放棄によって、その日常を客観視することが出来るようになる。

それでは、ハイリゲンダムの保安境界の柵の中での祝祭と、檻の外での境界線の攻防とどちらが、明確な目標を持てるかと言えば、後者となってしまう。しかし実際には、前者においては米英と大陸の境界がハッキリと存在して、後者においては暴力イデオロギーに縛られた無法者が混在することから、禁止された集会の意味が弱まる。

先日見学したロルッシュは、カロリンガー朝からのベネディクト修道会とローマンカソリックのマインツ大司教区が覇権を争うこととなる。その境界石がそこにあった。マインツの支配を示す輪と修道会の十字がそこに記されている。

本日から地元の二週間に渡るワイン祭りが始まった。フロンライヒナムの祝日に。



参照:
エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
活き活き、力強く、先鋭に [ 雑感 ] / 2007-06-06
顔のある人命と匿名 [ 歴史・時事 ] / 2007-02-01
遥かなるラ・マルセエーズ [ 暦 ] / 2005-11-14
偉大な統治者と大衆 [ 文化一般 ] / 2005-10-14
ヒロシマの生き残り [ 生活・暦 ] / 2005-08-06
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