Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

青い鳥が、飛び交うところ

2007-06-22 | 
ご近所に住む日本学の学生さんに、マンハイムで初めてお会いした。席上日本語で話しかけられて驚いたのだが、その自然な会話能力から僅か三ヶ月間福岡に住んだだけとは信じられなかったのである。

なるほどボンでも学んでいるので、良く勉強をしているには違いない。それにしても、以前ここでも登場した何人かの高校生の交換留学とは異なり、学術的な関心をも見据えながらの語学力なので、その才能を余計に思う。

反対に学問的に興味ある課題が見つからなければ、その語学的才能も宝の持ち腐れとなる。語学のみで生計をたてる者などは限られているからで、これは日本語だけではないが、その専門だけではキャリアーとはならない。つまり、なんらかの専門的な興味か課題を見つけ出さなければいけないのである。

さて、この頭脳も精神も活き活きとした女性が、なんらかの形で日本語の知識と能力を活かすのは、はたして「ちるちるみちるの青い鳥」の空なのだろうか?

こうした回りくどい書き方をするのも、先日、ベルリン在住の作家の多和田葉子さんの朗読会に参加して話を伺ったことで、感じたことがあるからだ。

そこでは、主催者により紹介に使われたシベリア鉄道を通っての入欧とハンブルクでの研修のプロフィールから、また「丸い月」の詩での始まり、「バウムクーヘン」のエッセイ、「日本の住居」のエッセイ、中国語の表記、「人身事故」の詩、「間と無」に繋がるエッセイ、「言語の警察」のエッセイで締めくくり、質疑応答となる運びの中で、浮かび上がる空間・時間がふわふわとした感覚を持った。

要するに当方の野暮な質問に ― FAZのインタヴューでの回答の朧な印象から ―、文化間の差異を、どのような固定した視点においても観察出来ないとする、境界領域の開いた文化感を示唆していたのである。

これは、表層的には嘗ては政治的に領域が閉じていたソヴィエト旅行の障壁が、今や米国に存在するとする地理的空間的な領域であり、時間的な経過がそこに恐らく主観的に関わってきているからでもある。

なかなかどうして、失礼を承知で評せば、新鮮な精神と表情を維持するこの女流芥川賞作家が、当夜示したその感覚こそが、まさに文化と言う領域のなかに存在していて、多文化や多極化の一言では到底収斂しない領域を理解させるのである。

つまり、上の不思議な感覚と言うのは、主観が空間的にも時間的に移動することで初めて得られる客観の一つでもあり得るのかもしれない。そして、その領域が閉じた境界によって定義がなされているときには、決して客観的な不思議感覚は生まれないということでもあるのだろう。

これが、以前に「根無し草的なさすらい人」と批判した、閉じた境界を右へ左へと写像を移動させる感覚とは大きく異なるのは明白なのである。

日本での研修にて、それを研究としたいとするご近所の彼女にとって、どのような形でその開かれた境界を探すことが出来るかの問題であるようだ。

多和田葉子のエッセイについては改めて記したい。



参照:
取違た偽物に身を任かす [ 女 ] / 2007-06-25
活字文化の東方見聞録 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
菩提樹の強い影に潜む [ 文学・思想 ] / 2007-06-16
コメント
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