Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

法に於ける信教の自由

2007-06-23 | 歴史・時事
個人の信教の自由は保障されなければいけない。しかし、その表現は制限されるべきだろう。集会の自由も保障されなければいけないが、キリスト教世界における法のあり方は必ずしも普遍性を持たないのかもしれない。

マインツ大司教レーマンは言う、「国の中立性は、各々の宗教の社会における影響に対してそれら宗教に目を向ける場合、反映しない一方的寛容や公正を以って、取り替えられるべきものではない」。

要するに、キリスト教は欧州の歴史であるのみならず正当な文化であり現在へと引き継がれているとする意見は、宗教と国の関係としての欧州文化のアイデンティティーを強化している。これは、イスラム教には法的に そ の 資 格 の 無 い ことを示している。

ケルンにドイツ最大級のモスクが建てられることから議論は沸騰した。大抵の者は、町中にコーランが流れるようなことでなければ、態々目くじらを立てて議論するほどのこともなかろうと思うだろう。しかし、見識者の見方は異なり、モスクの二つの25メートルにも及ぶと言う真ん中の丸屋根を挟む鋭塔からして ― プロテスタントの天を突く意志にも負けず ―、そこに現世の征服の意味を読み取って、宗教の問題だけでは無いと説く。

トルコ政府が示すEU加入やそれに纏わる昨今の動きと、この問題をあまり遠くない政治問題として、ドイツ問題であるトルコ人労働者の二世三世の移民同化の失敗と見るのである。モスク建築の度に議論されるのであるが、その都度欧州のIDが再び試されることとなる。

偶々、イスラムが男女の差別をして、豚肉を好むドイツ人を不浄とするから問題なのではないだろう。二千人も集まる大会堂は、モスリムの集会場となり様々な意味を持つ。既に建設予定の地域から移住した家庭もあるようだ。

それならばトルコ人がゲットーの中で暮らせば良い訳では無い。チューリッヒにはユダヤ人街があり現在も異様な風景を映すが、ドイツではモスクに集まるムスリムが西洋の法に反すると言えるのだろうか?ローマンカソリックは、女性を蔑視していないか?

若者たちは一見多くの者と同じく、宗教に無関係のように見えるがそれは誤りである。だからこそ、フランスで起きたような暴動騒ぎを防ぐためにも、少数者の宗教的な共同体が必要だとする意見すらあるのだ。

ドイツの大司教が発言するように、宗教は国の基礎となる世俗の各生活共同体の核であり、その新旧宗派もしくはユダヤ教毎に住み別けられているのが国であり欧州であるのだ。そして、その信教の自由は、全ての宗教に対してではなく、キリスト教とユダヤ教を意味するのは正しいだろう。

憲法裁判所長パピーアは、キリスト教は文化的に継承されて歴史的な価値観とあり方において、重きが置かれる形態であるとして、「憲法裁判所がこれを扱うと、その宗教に関する国の中立性は厳しい政教分離を意味するのではなく、囚われることのない信仰の自由の推奨への調整を意味するのだ」と定義する。

「憲法が求めていない、厳格な政教分離は法的に州毎にも可能だ」とするが、それは紛争解決の方法でしか無いとする。しかし、個人的に現在の教会税のあり方に必ずしも賛意を示せないとすると、こうした法的な議論は意味があるが、今後のEUを考える場合、厳しい政教分離が最大公約数となると思われるがどうだろう。

こうした特殊性は、上で説明された通りキリスト教にのみ当てはまるのであり、他の宗教ではそれが必ずしも一神教でも無くとも、近代の法精神と矛盾することは想像に足りる。



参照:文化に見合った法秩序 [ 文化一般 ] / 2007-07-06
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