Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ない、ありません!

2008-04-04 | 生活
「はい」、「いいえ」の話題の続編である。どうしても同じような状況になると耳を硬くして、最後の語尾の否定を聞き取ろうと緊張する。

今度は間違いなく肯定で尋ねられた、そして肯定で答えた。その理解した様子をみていて安心して緊張が緩んだのか、次の質問の答えが大きくずれてしまったようだ。

「生協の組合員書はお持ちですか¬?」

来た来たと内心思った。

「ない!」と元気良く否定した。

理解されたようである。それでも、あとになっておかしな返答だったとやっと気がついた。

もちろん、この「無い」にはNOやNEINやNONがなんとなく含まれているのだが、日本語で「無い」と叫ぶのは出来の悪い学童の受け応えだと今思っている。帽子を被って、障害を持ったおじさんとは思われなかっただろうか?

そういえば、なんとなく日本人化していて余り目立たない西欧人らしき者たちが、カメラをぶら下げてサンフランシスコと書いたキャップを被っている私を独特の表情で注目している視線を感じた。

今後は地元の宣伝を書いた帽子などを身に着けて旅行したいと思った。日本には、自宅のワイン街道よりも多彩な人がたくさんいるように感じている。少なくともワイン街道の自宅付近ではフランス人がバケットを焼いているお店は無い。やはりドイツは田舎なのだろうか?
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近代社会の主観と客観

2008-04-04 | 雑感
日本の新しい出入国管理の実際を見て、必ずしも微笑みの国とは言えないようである。それはなにも外国人に対するものだけでなくて、印鑑を使用するような事務処理は歴史的文化背景を曝していて腹立たしい。

先に記事にした受け応えの問題も単に日本語の文法の問題ではなくて、高度な文化的な問題であることに気がつく。主情的な感覚を尊ぶ文化においてはそこにとってつけたような論理が接木のように近代社会が出来上がっている様子がこうしたところに見て取れるのである。

この点に、日本の近代の問題が凝縮しているようである。

偶然にも「ドイツ観念論」と名づけた思考への批判コメントがあったが、まさにこうした主観と客観のあり方に近代があるのだろう。今でもVERNUNFT(理性)が大書きされるドイツ社会との相違であろう。

大といえばざるの大盛りを大ざると書いてあるので、「おおざる」と言うと「だいざる」と発音するのが正解であったようだ。

書店の店頭に学ぶつまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えないが、ただの旅行者の観察に過ぎないだろうか?
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