(承前)日本語の原稿から、その真意を伝えるために、そのドイツ語訳制作に大変骨をおった。それは、本当の意味での翻訳なのだが、文学的な意味でのそれでは無い。嘗ては才能も無いのに同時通訳めいた業務上の通訳をした経験もあるが、今回関わった伝える内容はそれから最も隔たったものであった。その難しさは、内容が分ければ分かるほど難しさが理解出来るもので、とてもではないが同時通訳の専門家志望者にやらせれるようなものではなかった。つまり、日常言語で語れば語るほど真意から離れて行く質のものである。新聞の批評を読み進もう。
「空間は、客人を迎えるために特に準備されている。清めのための空間は、日常的な空間ではないのである。通常は、小さな潜りだけが壁に開けられている空間である。その空間は、初めは仕切られた領域として特徴つけられているものであった。茶室では、非武装の空間として侍も刀を外したのであった。敷物である畳みの黒い縁によって分けられた空間なのである。茶道具のための領域、客人が踏み込む領域、座る領域と決められている。その茶道具は、袱紗という特別な布で清められる。」
ここまで読めば分かるように、既に「清める意味」や「清めの概念」を如何に神道を越えて理解を深めることが出来るか、これも一つの課題であった。もちろん神道に関して一冊も専門書を読めばその影響するところは学のある者には明らかなのであるが、殆どの日本人にすらその日常生活への影響や生活感への密接な関係は十分に意識されていない概念なのである。
事後芸術家に書いた手紙の中で、「こうした伝統的であり保守的な考え方は、客観的な視点を土台とすること無しに、其の侭伝え得ない」と述べたが、まさにその通りであって、こうした殆ど心情的な感覚はかなり精緻な民族学的な解説が必要になるのである。実際に、茶室における非日常の空間を、何処にイメージするかで既にその意を汲むことが如何に困難かが分かるだろう。カトリック教会の祭壇ならまだしも、プロテスタント教会自体が全く非日常の空間で無いことを考えただけでも理解して頂けるに違いない。聖書を足踏みする感覚と対極にある。そこに「清め」と来れば、それを実感するためには大変な努力が必要となる。
それも多神教的な信条告白を含めて、宗教的では無い空間に、「神々が舞い降りる」とすると、混乱そのものでしかない。そうした漢心でもある陰陽の微妙なバランスを取りながら、想像を膨らまして貰うしかないのだが、その「神々」を「神格」と一般化しただけで遥かに心的な理解が得られ易くなったであろう。その語学的な差異が、記号論的な差異でもあるのだろう。(続く)
参照:
アメリカかぶれ (雨をかわす踊り)
「空間は、客人を迎えるために特に準備されている。清めのための空間は、日常的な空間ではないのである。通常は、小さな潜りだけが壁に開けられている空間である。その空間は、初めは仕切られた領域として特徴つけられているものであった。茶室では、非武装の空間として侍も刀を外したのであった。敷物である畳みの黒い縁によって分けられた空間なのである。茶道具のための領域、客人が踏み込む領域、座る領域と決められている。その茶道具は、袱紗という特別な布で清められる。」
ここまで読めば分かるように、既に「清める意味」や「清めの概念」を如何に神道を越えて理解を深めることが出来るか、これも一つの課題であった。もちろん神道に関して一冊も専門書を読めばその影響するところは学のある者には明らかなのであるが、殆どの日本人にすらその日常生活への影響や生活感への密接な関係は十分に意識されていない概念なのである。
事後芸術家に書いた手紙の中で、「こうした伝統的であり保守的な考え方は、客観的な視点を土台とすること無しに、其の侭伝え得ない」と述べたが、まさにその通りであって、こうした殆ど心情的な感覚はかなり精緻な民族学的な解説が必要になるのである。実際に、茶室における非日常の空間を、何処にイメージするかで既にその意を汲むことが如何に困難かが分かるだろう。カトリック教会の祭壇ならまだしも、プロテスタント教会自体が全く非日常の空間で無いことを考えただけでも理解して頂けるに違いない。聖書を足踏みする感覚と対極にある。そこに「清め」と来れば、それを実感するためには大変な努力が必要となる。
それも多神教的な信条告白を含めて、宗教的では無い空間に、「神々が舞い降りる」とすると、混乱そのものでしかない。そうした漢心でもある陰陽の微妙なバランスを取りながら、想像を膨らまして貰うしかないのだが、その「神々」を「神格」と一般化しただけで遥かに心的な理解が得られ易くなったであろう。その語学的な差異が、記号論的な差異でもあるのだろう。(続く)
参照:
アメリカかぶれ (雨をかわす踊り)