(承前)芸術を理解すると言うことは、その営みの背景にあるものを理解することに他なら無い。そのためには如何に他者の創造の中に自分の想像力を羽ばたかして駆使出来るかという課題でもある。こうした想像力は学んで得られるものでは無いであろう。そして如何に天与に恵まれていたとしても絶えず自らを取り囲む環境に開かれた心を持っていない限り、一寸したその場の変化を関知出来ないであろう。要するに鈍感であってはいけないのである。さもなければ、文化勲章を首にかけて潤沢な軍資金で偽物を掴まされるのが関の山である。
実はワインの品評にも良く似た状況はある。このサイトのモットーであるようにワインなどは元来趣向品であり、美味いか不味いの主観的判断に全てが任されるものなのである。それには偽りは無い。それでも、農産物も商品である限りは、それ相応の価値が付けられて対価として市場で取引される。その価値を正しく値踏みすることは、玄人とか素人とかの違いでなくて、やはりそれが分かるかどうかの違いなのである。
農業の営みの背後にあるものは必ずしも農民の汗だけでは無いのである。ここからの考え方が、避けて通れ無い資本主義グローバリズムの考え方であって、質という基準を設けるだけで、それは集約型の延べ労働力の評価だけでは済まなくなってくる。農業は、その土地の気候や土壌やそして長年培われた食生活までを文化として含有しているからこそ、その生産品の質を評価する場合、一筋縄ではいかない対象なのである。
例えば自然科学の助けを借りて、比較的簡単にその土壌の組成を説明できたとしても、そうした地質学的な知識や考察を最終的な味覚に結びつけるどころか、それがどのように出来上がったワインの化学的な組成に関連付けられるかの自然科学における体系すら知らない。それは多岐に渡っており一対一の対応をしていない限りそうした現象を可逆に直線的に結びつける作業は不可能となるが、そうした作業を洞察力と呼ばれる直感と想像力によって為してしまうのがそれこそ趣味の世界なのである。(続く)
参照:
無愛想なリースリング モーゼルだより
実はワインの品評にも良く似た状況はある。このサイトのモットーであるようにワインなどは元来趣向品であり、美味いか不味いの主観的判断に全てが任されるものなのである。それには偽りは無い。それでも、農産物も商品である限りは、それ相応の価値が付けられて対価として市場で取引される。その価値を正しく値踏みすることは、玄人とか素人とかの違いでなくて、やはりそれが分かるかどうかの違いなのである。
農業の営みの背後にあるものは必ずしも農民の汗だけでは無いのである。ここからの考え方が、避けて通れ無い資本主義グローバリズムの考え方であって、質という基準を設けるだけで、それは集約型の延べ労働力の評価だけでは済まなくなってくる。農業は、その土地の気候や土壌やそして長年培われた食生活までを文化として含有しているからこそ、その生産品の質を評価する場合、一筋縄ではいかない対象なのである。
例えば自然科学の助けを借りて、比較的簡単にその土壌の組成を説明できたとしても、そうした地質学的な知識や考察を最終的な味覚に結びつけるどころか、それがどのように出来上がったワインの化学的な組成に関連付けられるかの自然科学における体系すら知らない。それは多岐に渡っており一対一の対応をしていない限りそうした現象を可逆に直線的に結びつける作業は不可能となるが、そうした作業を洞察力と呼ばれる直感と想像力によって為してしまうのがそれこそ趣味の世界なのである。(続く)
参照:
無愛想なリースリング モーゼルだより