Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

対話を喚起する報道の趣味

2010-05-16 | マスメディア批評
承前)ジャーナリズムの世界というのは、知的な作業であると同時に、絶えず批判的な視点をもって物事を表現することに違いない。その視点が必ずしも客観を装わなくとも、読者の立ち位置を読者に認識させることが出来れば十分なのであろう。インディペンデントなどと叫んでも、スーパーマンも決して中立でありえないのと同じで、それは経済的にヒモツキではないという背景を語っているだけでしかない。やはりそこには趣味の良さが要求される。

「客人を迎える者は、茶会の儀式が始る前にその手を清める。水を意味する薬指をすり合わせて、日本語で空手水と呼ばれるやりかたで水を得るのである。

茶会においてバランスが大変尊重される。清められた状態で清浄化された精神は調和を創造する。茶人は、茶碗の最も美しい面を客人に向けて置き、客人は四分の一回転それを時計周りにして、茶を飲み干す。

ビュルシュタットで紹介された遠州流の茶は、武士道によって形作られている。遠州流は、外面的な美を追求するだけでなく、なによりも内面的な美を追求する。それを綺麗寂という。

嘗ては、茶会は只の精神的な交流ではなかった。侍は、それをインディアンのパイプのように使ったと、ファン・デン・ベルク会長は説明した。」

ヴォルフガンク・ヴェーネと称する髭を生やした五十過ぎのジャーナリストによって綴られたこの記事は、最初に紹介した市長の政治状況を最後に間接的に結びつけてジャーナリスト的に上手に纏めている。当方が準備した訳文を十二分に利用した文であるが、その分十分にその内容を広く多くの人に読ませるだけの効果を挙げており、大変賢明なやりかたである。

少なくとも、同時通訳になんらかの意味を見出したり、予め質問することで自分の判らないことまでを適当に語る愚行を避けている。読者の中に、実際に職人的な緊張と緩和の芸術的緩急の弧を体験した者が存在と重ね合わさることで、こうした記事がなによりもの文化的な紹介となるのである。そこからはじめてやっと対話が始ることを断わって措きたい。(終わり)
コメント
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