終日雨だった。この際積んであるまだ真新しい「ケプラーの月旅行」を読もうかと思ったが、なにやら音楽のことなどが気になって、LPなどを立て続けに流した。
思いがけずヘンデルのオラトリオ「メサイア」の推薦CDを、自ら合唱で歌われたBLOG「風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句」の風信子さんより尋ねられた。
最近の演奏実践のトレンドについてコメントを書き込んだからである。実は、自身これといった推薦盤を手元においている訳ではなく、これまた安売りで購入したライヴ録音のトン・コープマン指揮のCDなど以外には、やや昔風の演奏でマッケラス指揮のLPを隠し持っているのである。晩年大変評価が上がり、ブレンデルとのモーツァルトなど、まさしく先日扱ったネヴィル・マリナーとは違って、ドイツ語圏でもそのヤナーチェックのオペラ作品の演奏実践を超えて芸術的に受け入れられた音楽家の60年代の録音である。
要するに、一時は持て囃された軽薄軽佻なテムポやリズムをもったBGM的な音楽に比較すれば、重厚鈍重な印象さえ与える演奏形式が実はなかなか丁寧な表現で聞かせることに気がつくと、一概にそうした芸術が必ずしも保守的で古色蒼然としたものとは限らないことも分かるのである。しかし、古典派のモーツァルトとバロックのヘンデルの差は大きく、ヘンデルにおいての現代楽器奏法での表現の可能性は限られている。
また、同じところをライヴCD盤で聞くと、なるほど合唱の十六人の歌は言葉もニュアンスも優れているのだが、コープマン指揮のしらけ振りは徹底していて、第六曲合唱のアイロニー振りも悪くは無いが、やはり先ず聞き比べをしたい十二曲の"For unto us a Child is born"においても徹底してしらけ通すのである。全然ワンダフルじゃないのだ。
そこで、この第12曲から比較してみよう。先ずはガーディナー盤である。この楽団がパーセルなどで初期に成功したテムポ感を思い起こすが、少々雑な感じも免れない。
次にアーノンクールの旧盤を聞くと可也テムポも遅く、ソロイスツにオペラ歌手などの名前も見え、合唱もなにか歌い難そうである。さて新盤の方はシェーンベルク合唱団が歌っていて、基本的な解釈は変わらないようだが、言葉のアーティクレーションなど鮮やかで惚れ惚れとさせ、テンポの真価がここで始めて表現として聞こえる。しかし、その音響と技とらしい合間はライヴ録音の悪さで反復し難いあざとさとなる。
鈴木のテンポはガーディナーよりも速そうだが、印象はコープマンにも近く、まるで東京の地下鉄の会話の生意気な響きを聴いているようで、敢えてこのような表現を取っているのだろう。まるでテプコの慇懃無礼を聞いているような非常に険がある表現なのである。ユダヤ人の謀議風景のようだ。
ジョン・バット盤のテムポ感覚も似ているが合唱というか声楽パートの地声風というか安物の突っ張り調の発声と叩き付けたような弦楽が、どうしても粗雑な印象を受けていけない。受け狙いも良いが、これで全曲を演奏されては堪らないのである。
ホッグウッドも中庸な解決方法で、さらにボーイソプラノなどを入れると全くケムブリッジのチャーチなどのまさにローカルな雰囲気で、これも全曲となるとなかなか聞くに堪えないかもしれない。もちろんこうしたローカルな音楽文化があるのはたいしたものであるのだが、なにもそれにお付き合いする必要もないのである。
以下にそのリストの一覧を貼り付けたが、所謂有名演奏家のハーノンクールやガーディナー指揮などのCDを中心に日本でも入手できるだろうとする目的から挙げたが、それ以外にも面白そうな英語の上手そうな演奏団体のつまり英語で歌われるメサイアの録音を挙げたのである。
リストアップしてみて気がついたのは有り余るアマチュアなどの録音が溢れているのだが、所謂名学伯がプロフェッショナルな合唱団を指導しての最新制作録音は殆ど無い。世界で最も多く歌われるであろうバロックの曲であり、その録音の市場は大きくても、それ以上に一流の演奏家を使っての制作録音などは商売にならないことを物語っている。まさしく作曲家が経済を考えて作曲公演した作品であるからそれで正しいのかもしれない。
また古楽器を使った合唱を場合によってはソロパートにまで切り詰めたプロフェッショナルな演奏実践が、実際にダブリンで初演された何百人の合唱とは異なることも事実であり、そもそもオリジナルの響きなどは実は作曲家の脳みそを覗いてみても分らないものであるということで、初演の響きなどが「オリジナル」とはいえないのは芸術的に正しいのである。理想とした響きを初演で得られる作曲家や曲などは一体どれぐらいあるだろうか?その多くは失敗の積み重ねであるのだ。
参照:
Baroque Soloists, Gardiner,
Taverner Players & Choir, Parrott,
Nikolaus Harnoncourt,
Harnoncourt,
Bach Collegium Japan, Suzuki,
Dunedin Consort & Players, John Butt,
Christopher Hogwood (JPC)
オランダ・バッハ協会のロ短調ミサ (♯Credo)
「シトー派修道院の円蓋に響く聖歌」と題する11世紀から12世紀の聖歌を収録したCDを聴く (私的CD評)
小澤のマーラー9番(後)~思い出の名盤・44 (TARO'S CAFE)
デイヴィス指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でハイドン作曲、交響曲第99番 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真)
微睡の楽園の響き 2005-02-22 | 文学・思想
ヘンデルの収支決算 2005-03-20 | 歴史・時事
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
旨味を増すBGM環境 2011-12-01 | 音
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最近の演奏実践のトレンドについてコメントを書き込んだからである。実は、自身これといった推薦盤を手元においている訳ではなく、これまた安売りで購入したライヴ録音のトン・コープマン指揮のCDなど以外には、やや昔風の演奏でマッケラス指揮のLPを隠し持っているのである。晩年大変評価が上がり、ブレンデルとのモーツァルトなど、まさしく先日扱ったネヴィル・マリナーとは違って、ドイツ語圏でもそのヤナーチェックのオペラ作品の演奏実践を超えて芸術的に受け入れられた音楽家の60年代の録音である。
要するに、一時は持て囃された軽薄軽佻なテムポやリズムをもったBGM的な音楽に比較すれば、重厚鈍重な印象さえ与える演奏形式が実はなかなか丁寧な表現で聞かせることに気がつくと、一概にそうした芸術が必ずしも保守的で古色蒼然としたものとは限らないことも分かるのである。しかし、古典派のモーツァルトとバロックのヘンデルの差は大きく、ヘンデルにおいての現代楽器奏法での表現の可能性は限られている。
また、同じところをライヴCD盤で聞くと、なるほど合唱の十六人の歌は言葉もニュアンスも優れているのだが、コープマン指揮のしらけ振りは徹底していて、第六曲合唱のアイロニー振りも悪くは無いが、やはり先ず聞き比べをしたい十二曲の"For unto us a Child is born"においても徹底してしらけ通すのである。全然ワンダフルじゃないのだ。
そこで、この第12曲から比較してみよう。先ずはガーディナー盤である。この楽団がパーセルなどで初期に成功したテムポ感を思い起こすが、少々雑な感じも免れない。
次にアーノンクールの旧盤を聞くと可也テムポも遅く、ソロイスツにオペラ歌手などの名前も見え、合唱もなにか歌い難そうである。さて新盤の方はシェーンベルク合唱団が歌っていて、基本的な解釈は変わらないようだが、言葉のアーティクレーションなど鮮やかで惚れ惚れとさせ、テンポの真価がここで始めて表現として聞こえる。しかし、その音響と技とらしい合間はライヴ録音の悪さで反復し難いあざとさとなる。
鈴木のテンポはガーディナーよりも速そうだが、印象はコープマンにも近く、まるで東京の地下鉄の会話の生意気な響きを聴いているようで、敢えてこのような表現を取っているのだろう。まるでテプコの慇懃無礼を聞いているような非常に険がある表現なのである。ユダヤ人の謀議風景のようだ。
ジョン・バット盤のテムポ感覚も似ているが合唱というか声楽パートの地声風というか安物の突っ張り調の発声と叩き付けたような弦楽が、どうしても粗雑な印象を受けていけない。受け狙いも良いが、これで全曲を演奏されては堪らないのである。
ホッグウッドも中庸な解決方法で、さらにボーイソプラノなどを入れると全くケムブリッジのチャーチなどのまさにローカルな雰囲気で、これも全曲となるとなかなか聞くに堪えないかもしれない。もちろんこうしたローカルな音楽文化があるのはたいしたものであるのだが、なにもそれにお付き合いする必要もないのである。
以下にそのリストの一覧を貼り付けたが、所謂有名演奏家のハーノンクールやガーディナー指揮などのCDを中心に日本でも入手できるだろうとする目的から挙げたが、それ以外にも面白そうな英語の上手そうな演奏団体のつまり英語で歌われるメサイアの録音を挙げたのである。
リストアップしてみて気がついたのは有り余るアマチュアなどの録音が溢れているのだが、所謂名学伯がプロフェッショナルな合唱団を指導しての最新制作録音は殆ど無い。世界で最も多く歌われるであろうバロックの曲であり、その録音の市場は大きくても、それ以上に一流の演奏家を使っての制作録音などは商売にならないことを物語っている。まさしく作曲家が経済を考えて作曲公演した作品であるからそれで正しいのかもしれない。
また古楽器を使った合唱を場合によってはソロパートにまで切り詰めたプロフェッショナルな演奏実践が、実際にダブリンで初演された何百人の合唱とは異なることも事実であり、そもそもオリジナルの響きなどは実は作曲家の脳みそを覗いてみても分らないものであるということで、初演の響きなどが「オリジナル」とはいえないのは芸術的に正しいのである。理想とした響きを初演で得られる作曲家や曲などは一体どれぐらいあるだろうか?その多くは失敗の積み重ねであるのだ。
参照:
Baroque Soloists, Gardiner,
Taverner Players & Choir, Parrott,
Nikolaus Harnoncourt,
Harnoncourt,
Bach Collegium Japan, Suzuki,
Dunedin Consort & Players, John Butt,
Christopher Hogwood (JPC)
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