バーデン・バーデンで新たに開催される復活祭音楽祭の券を注文した。まだ一年先のことであるが、最初の様子を是非見届けておきたいと思ったので、安いものを確保しなければいけないからである。なんとか興味のある初日の「魔笛」と復活祭の日のマーラーの復活交響曲は入手できた。〆て155ユーロである ― 初日の入場券は他の日よりも30ユーロ近く高価であるとあとで知った。
夏のザルツブルクとの係わりはモルティエー時代に持ったが、復活祭と精霊降臨祭の音楽祭は共にカラヤン財団の主催で、結局通うことはなかった ― つまりベルリンのフィルハーモニカーがピットに入っての演奏は未経験である。アバドが監督をしていた当時、夏のそれに比べて芸術的に完全に落ちていて、如何にも下衆な感じが強かったからである。同じ下衆でもフォン・カラヤンがいた当時は本物の俗物たちであった。
その点、主催は変わらないものの、バーデン・バーデンでドイツの公共的なフェストシュピールハウスが組んだことから、若干社会的に受け入れやすい形となったかのように見える。恐らくそこにはサイモン・ラトル本人の個性も影響しているのであろう。
指揮者サイモン・ラトルの演奏会やオペラはかなり体験しているが、ベルリンでのショスタコーヴィッチの第八交響曲演奏以外は知的にも満足できるもので、芸術的に大きな失望をしたことはない。それどころか先日生誕60周年を迎えた作曲家ヴォルフガンク・リームのスピーチに続いてのブルックナーの第四交響曲はとても高度な芸術であったのだ。その点からも、バーデン・バーデンでの活動にいくらかは期待できるのである。
なぜモーツァルトの「魔笛」などを杮落としにもってきたかは理解できず、更にザルツブルクと張り合う意味もないと思われるのだが、ベルリンのフィルハーモニカーがオペラを演奏した場合の精緻さからすると聞きものに違いない ― なるほどこの歌劇の場合ヴィーンの座付きよりも張りのある弦のベルリンの楽団の方が歴史的なビーチャム指揮の録音からベーム指揮のそれまで、録音ではスタンダードとなっているものなのである。ある意味ドイツを代表する歌劇なのかもしれない。
さて、一年先とは言いながらこの価格ならば、交通費もフランクフルトへ行くよりも安く、それ以外のコストが殆ど掛からないので全く問題ない。こうした催しが新たな芸術的な意味を持つのかどうかは先ず体験してみなければ分らないが、少しでも文化を公共的に育む糧になるために寄与してくれればと思う。そうである、子供のための上演が併設されているように、この歌劇には情操教育という面が少なからず期待されるのだ。
一週間ぶりに室内クライミングに行くと、久しぶりの若夫婦の顔を見かけた。先日の日曜日から半年振りに再開したと戯けたことをおっしゃる。そして月曜日にセクションの仲間が死去してその日葬儀があったと知った。肺がんでそのまま二年間胸に収めていたのだが、最後は脳に転移していたようだ。二三日の入院で亡くなったらしい。奥さんも仲間で二人の子供さんと気の毒である。ご本人とはザイルを組んだことはなかったように思うが、幾つかのエピソードは記憶に残っている。享年50歳でまだまだ若すぎるが、葉巻を吹かしていた姿が思い浮かぶのが慰めで、なによりも苦しみから解放されたに違いない。最後に見かけたのは昨年の一月だったろうか。もう一年も前のことである。
追記:発売状況を見ると高額の席から売り切れている。特に初日は首相などの著名人が臨席する可能性が高いから社交場と化するのだろう。しかし会場のVIPロビーなどは決まっていて、既に販売は一月前から始まっていたのであり、はじめから数が少なかっただけであろう。それに引き換え天井桟敷が直ぐに売り切れないのは如何に若く熱心な聴衆が少ないかで、ザルツブルクなどでは考えられないことである。カールツルーヘなどはとても近いのであるが、どうしたものだろうか。
参照:
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
ラトルの投げやりな響き 2007-07-03 | 文化一般
詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09
頭の悪い人達が集まる業界 2010-02-11 | マスメディア批評
文化的な企業家の歴史 2012-01-03 | 文化一般
夏のザルツブルクとの係わりはモルティエー時代に持ったが、復活祭と精霊降臨祭の音楽祭は共にカラヤン財団の主催で、結局通うことはなかった ― つまりベルリンのフィルハーモニカーがピットに入っての演奏は未経験である。アバドが監督をしていた当時、夏のそれに比べて芸術的に完全に落ちていて、如何にも下衆な感じが強かったからである。同じ下衆でもフォン・カラヤンがいた当時は本物の俗物たちであった。
その点、主催は変わらないものの、バーデン・バーデンでドイツの公共的なフェストシュピールハウスが組んだことから、若干社会的に受け入れやすい形となったかのように見える。恐らくそこにはサイモン・ラトル本人の個性も影響しているのであろう。
指揮者サイモン・ラトルの演奏会やオペラはかなり体験しているが、ベルリンでのショスタコーヴィッチの第八交響曲演奏以外は知的にも満足できるもので、芸術的に大きな失望をしたことはない。それどころか先日生誕60周年を迎えた作曲家ヴォルフガンク・リームのスピーチに続いてのブルックナーの第四交響曲はとても高度な芸術であったのだ。その点からも、バーデン・バーデンでの活動にいくらかは期待できるのである。
なぜモーツァルトの「魔笛」などを杮落としにもってきたかは理解できず、更にザルツブルクと張り合う意味もないと思われるのだが、ベルリンのフィルハーモニカーがオペラを演奏した場合の精緻さからすると聞きものに違いない ― なるほどこの歌劇の場合ヴィーンの座付きよりも張りのある弦のベルリンの楽団の方が歴史的なビーチャム指揮の録音からベーム指揮のそれまで、録音ではスタンダードとなっているものなのである。ある意味ドイツを代表する歌劇なのかもしれない。
さて、一年先とは言いながらこの価格ならば、交通費もフランクフルトへ行くよりも安く、それ以外のコストが殆ど掛からないので全く問題ない。こうした催しが新たな芸術的な意味を持つのかどうかは先ず体験してみなければ分らないが、少しでも文化を公共的に育む糧になるために寄与してくれればと思う。そうである、子供のための上演が併設されているように、この歌劇には情操教育という面が少なからず期待されるのだ。
一週間ぶりに室内クライミングに行くと、久しぶりの若夫婦の顔を見かけた。先日の日曜日から半年振りに再開したと戯けたことをおっしゃる。そして月曜日にセクションの仲間が死去してその日葬儀があったと知った。肺がんでそのまま二年間胸に収めていたのだが、最後は脳に転移していたようだ。二三日の入院で亡くなったらしい。奥さんも仲間で二人の子供さんと気の毒である。ご本人とはザイルを組んだことはなかったように思うが、幾つかのエピソードは記憶に残っている。享年50歳でまだまだ若すぎるが、葉巻を吹かしていた姿が思い浮かぶのが慰めで、なによりも苦しみから解放されたに違いない。最後に見かけたのは昨年の一月だったろうか。もう一年も前のことである。
追記:発売状況を見ると高額の席から売り切れている。特に初日は首相などの著名人が臨席する可能性が高いから社交場と化するのだろう。しかし会場のVIPロビーなどは決まっていて、既に販売は一月前から始まっていたのであり、はじめから数が少なかっただけであろう。それに引き換え天井桟敷が直ぐに売り切れないのは如何に若く熱心な聴衆が少ないかで、ザルツブルクなどでは考えられないことである。カールツルーヘなどはとても近いのであるが、どうしたものだろうか。
参照:
文化の「博物館化」 2004-11-13 | 文化一般
ラトルの投げやりな響き 2007-07-03 | 文化一般
詩的な問いかけにみる [ 文化一般 ] / 2007-07-09
頭の悪い人達が集まる業界 2010-02-11 | マスメディア批評
文化的な企業家の歴史 2012-01-03 | 文化一般