昨夜から今晩にかけて二つの電球が切れた。一つは枕もとの電球で明るめだったのだが、手持ちの25Wにすると読書するには暗い。そこで玄関に点いている40Wのものと取り替えた。まだ欠けているので25Wのものを改めて購入しておかなければいけないだろう。
もう一つは間接照明用のスポットライトで40Wが切れた。これも手持ちが40W の墓場鬼太郎の目玉親爺のようなものしかないのでそれに替えておいた。夏場はバルコンで使うのでそれはそれでよいかと思っている。しかし基本は暗くしていくことである。
(承前)前述のラジオ番組においても示唆された文化的な背景、つまり日本社会が事態に急激に対応できるその独自の文化性への関心も喚起される。ARDのTVプログラムにおける三月に入ってからのものでは、311以降に神頼みへと向かう日本人像が描かれている。仏教・神道やキリスト教者の脱原発活動を通しての日本人の不思議、つまり広島・長崎に続いて福島を一手に引き受けた日本人の業が取り上げられている。当然のことながら結果は得られないのであるが、そうした捕らえ方は丁度このBLOGにて脱近代をそうした一神教の世界観として考察していく作業と丁度相似形になっていると考えてよい。
ARDが追いかけたハートケアレスキュウの三浦氏なども登場して、宗教者としては出来るだけのことをするしかない現実と、そもそも宗教者が日本の社会認識に影響を与えることの出来ないその無力な宗教哲学を示唆している。
明仁天皇が「この震災のため、原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は、住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。」と哀悼の意を述べた。会場に招待されていたテプコの勝俣会長は一体どのような顔をしてこれを聞いていたことだろう。被害者には一言も謝罪せずに超一流財界人としてそこに列席したとんでもなく不貞な輩である。
日本では阪神大震災後にヴォラティアー活動が推奨されるようになったと聞いている。なるほど陛下も触れるようにそうした活動がなければ更に酷い状況へと進んでいる。困ったときの人助けには多くの人が見捨て置けないとの気持ちで自然に体が動くであろうが、尚努力しないといけないとそこで語られているのはそうした単純な気持ちからの無償行為ではなかろう。
それではどういう行為であるかと言うと、その回答が前述のARDの番組にもしかすると描かれているかもしれない。広島・長崎への祈りや誓いは福島を阻止することが出来なかった。それが現実である。なるほど小出助教が語るように核開発と原子力が別のものとして宣伝されたために分らなかったと言い逃れすることは出来る。しかし、ARDの後述する別番組でバラックを仮住居とする老婆が漏らすように「東京に造ってくれ」と言うその背景の意味が最初から多くの人はどこかで気がついていたに違いないのである。それを自ら誤魔化したのは日本の市民である。
神頼みで祈ることで平安が訪れると信じている日本の若者は同じ過ちを繰り返すのである。彼らには本当のエゴも自意識も欠けているのは、戦前の大日本帝国のまたはそれ以前の庶民となんら変わらない。
ヴォランティアーなどはそもそも厳しい自己との対峙とエゴの自覚がなくては生じない無償行為であって、只の自己満足では成り立たない行動なのである。そうした精神活動の中で自らのおかれている環境を認知することが出来て初めて環境への働きかけとしての活動が可能となる。ARDの番組は些か整理されていない内容ながら其処をついている。
柏崎刈羽などでは地元の住職も反原発運動の背後にいて、どうしても活動が盛り上がらないので外部からの応援を集めるためにもネットで情報を発信しないといけないとしている。それは反原発だとか脱原発の問題ではなく、それどころか強力なリーダーによって物事の道筋をつけるという考え方とは正反対な個人の態度なのである。
到底「絆」などの言葉では築かれない連帯への意志であって、その基礎には磨き抜かれたエゴが確立されていなければいけない。正しくドルトムントの香川が漏らしているようなエゴである。そうやって初めて連帯が築かれて、初めて努力が報われるのである。
もう一つのARDの教養番組では、もはや「広過ぎる」とお手上げ状態の除染の児玉龍彦教授の語りは圧巻である。その除染効果の限定的な扱いと共に ― 寧ろ効果の表れる三郷や柏市のようなホットスポットでの活動に集中すべきである、より危険な内部被曝に触れて、特に都内において子供の小水やミルクなどからの放射性物質の発見に専門家が杞憂しているというのはとても衝撃的であった。そうした情報をもとにどのような行動が求められているか?
正しく、自らのエゴを強く自覚することで初めて社会を見極め、それらを取り囲む環境を認識が出来るのである。エゴイズムへの啓蒙をせずにヴォランティアなどとの給うのは所謂「滅私奉公の勧め」でしかない。ヴォランティアーの本来の意味合いを知っている為政者である日本の文科省のエリートが態と教育本来の意味を誤魔化しつつ自らのエゴイズムを追及しているからなのである。そのことは311にて日本の国民でさえ皆知ることとなったのであった。
陛下の言葉の意味を正しく理解すべきである。311以降、急激にその存在感と強い意思が世界中に伝わるようになった明仁天皇であるが、宮内庁の検閲?に拘らず、其処には病身を圧しての公的な現示以上に内容が、意思が人格が感じられる。「行ってきました」が「怠ってきました」と発せられて、反対に「ヴォランティアー」のオックスフォード仕込がつい出てしまう立派な英語のアクセントではなくて、その言葉「努力」の裏にある行動への誘いを聞き損じてはいけない。行動と蜂起あるのみである。(終わり)
参照:
Fukushima - Eine Reise durch ein verstörtes Land,
Putzkommando gegen Strahlung (ARD Mediathek)
独駐日大使からの福島報告 2011-06-29 | 雑感
心を揺さぶる貴く強い振る舞い 2011-05-11 | 雑感
天皇陛下!万歳!万万歳! 2011-04-06 | 雑感
毒は勝俣に呉れてやれ 2011-08-25 | マスメディア批評
キタロー、履き違えじゃ 2012-03-08 | 文化一般
震災1年に対する外国メディアの報道 (クラシックおっかけ日記)
もう一つは間接照明用のスポットライトで40Wが切れた。これも手持ちが40W の墓場鬼太郎の目玉親爺のようなものしかないのでそれに替えておいた。夏場はバルコンで使うのでそれはそれでよいかと思っている。しかし基本は暗くしていくことである。
(承前)前述のラジオ番組においても示唆された文化的な背景、つまり日本社会が事態に急激に対応できるその独自の文化性への関心も喚起される。ARDのTVプログラムにおける三月に入ってからのものでは、311以降に神頼みへと向かう日本人像が描かれている。仏教・神道やキリスト教者の脱原発活動を通しての日本人の不思議、つまり広島・長崎に続いて福島を一手に引き受けた日本人の業が取り上げられている。当然のことながら結果は得られないのであるが、そうした捕らえ方は丁度このBLOGにて脱近代をそうした一神教の世界観として考察していく作業と丁度相似形になっていると考えてよい。
ARDが追いかけたハートケアレスキュウの三浦氏なども登場して、宗教者としては出来るだけのことをするしかない現実と、そもそも宗教者が日本の社会認識に影響を与えることの出来ないその無力な宗教哲学を示唆している。
明仁天皇が「この震災のため、原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は、住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。」と哀悼の意を述べた。会場に招待されていたテプコの勝俣会長は一体どのような顔をしてこれを聞いていたことだろう。被害者には一言も謝罪せずに超一流財界人としてそこに列席したとんでもなく不貞な輩である。
日本では阪神大震災後にヴォラティアー活動が推奨されるようになったと聞いている。なるほど陛下も触れるようにそうした活動がなければ更に酷い状況へと進んでいる。困ったときの人助けには多くの人が見捨て置けないとの気持ちで自然に体が動くであろうが、尚努力しないといけないとそこで語られているのはそうした単純な気持ちからの無償行為ではなかろう。
それではどういう行為であるかと言うと、その回答が前述のARDの番組にもしかすると描かれているかもしれない。広島・長崎への祈りや誓いは福島を阻止することが出来なかった。それが現実である。なるほど小出助教が語るように核開発と原子力が別のものとして宣伝されたために分らなかったと言い逃れすることは出来る。しかし、ARDの後述する別番組でバラックを仮住居とする老婆が漏らすように「東京に造ってくれ」と言うその背景の意味が最初から多くの人はどこかで気がついていたに違いないのである。それを自ら誤魔化したのは日本の市民である。
神頼みで祈ることで平安が訪れると信じている日本の若者は同じ過ちを繰り返すのである。彼らには本当のエゴも自意識も欠けているのは、戦前の大日本帝国のまたはそれ以前の庶民となんら変わらない。
ヴォランティアーなどはそもそも厳しい自己との対峙とエゴの自覚がなくては生じない無償行為であって、只の自己満足では成り立たない行動なのである。そうした精神活動の中で自らのおかれている環境を認知することが出来て初めて環境への働きかけとしての活動が可能となる。ARDの番組は些か整理されていない内容ながら其処をついている。
柏崎刈羽などでは地元の住職も反原発運動の背後にいて、どうしても活動が盛り上がらないので外部からの応援を集めるためにもネットで情報を発信しないといけないとしている。それは反原発だとか脱原発の問題ではなく、それどころか強力なリーダーによって物事の道筋をつけるという考え方とは正反対な個人の態度なのである。
到底「絆」などの言葉では築かれない連帯への意志であって、その基礎には磨き抜かれたエゴが確立されていなければいけない。正しくドルトムントの香川が漏らしているようなエゴである。そうやって初めて連帯が築かれて、初めて努力が報われるのである。
もう一つのARDの教養番組では、もはや「広過ぎる」とお手上げ状態の除染の児玉龍彦教授の語りは圧巻である。その除染効果の限定的な扱いと共に ― 寧ろ効果の表れる三郷や柏市のようなホットスポットでの活動に集中すべきである、より危険な内部被曝に触れて、特に都内において子供の小水やミルクなどからの放射性物質の発見に専門家が杞憂しているというのはとても衝撃的であった。そうした情報をもとにどのような行動が求められているか?
正しく、自らのエゴを強く自覚することで初めて社会を見極め、それらを取り囲む環境を認識が出来るのである。エゴイズムへの啓蒙をせずにヴォランティアなどとの給うのは所謂「滅私奉公の勧め」でしかない。ヴォランティアーの本来の意味合いを知っている為政者である日本の文科省のエリートが態と教育本来の意味を誤魔化しつつ自らのエゴイズムを追及しているからなのである。そのことは311にて日本の国民でさえ皆知ることとなったのであった。
陛下の言葉の意味を正しく理解すべきである。311以降、急激にその存在感と強い意思が世界中に伝わるようになった明仁天皇であるが、宮内庁の検閲?に拘らず、其処には病身を圧しての公的な現示以上に内容が、意思が人格が感じられる。「行ってきました」が「怠ってきました」と発せられて、反対に「ヴォランティアー」のオックスフォード仕込がつい出てしまう立派な英語のアクセントではなくて、その言葉「努力」の裏にある行動への誘いを聞き損じてはいけない。行動と蜂起あるのみである。(終わり)
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