全く期待していなかったが、それ以下でも得るものはあった。アルテオパーでグルノーブルからの客演でマタイ受難曲オラトリオの会が開かれた。何時ものように4割以下の入りであった。内容からすると仕方ないだろう。初めから分っているわけだから。
ルーヴルの楽団と手兵を率いたマルク・ミンコフスキーの演奏であった。歌手も悪かったが全ての責任はスタイルの問題でもあり音楽監督の責任であることは明らかだ。これならば散々貶しているガーディナーのバッハの方が遥かにものになっている。
当日唯一良かったのは短かなプログラムの文章で、バッハがそもそもこうしたプロテスタントの芸術やトーマスカントライの仕事に集中する心算はなくて、ケーテンで示したようなブランデンブルク協奏曲などの方向へと更に進みたかったに違いないとする視点で、こうしたオラトリオですら当時世界を魅了していたオペラの上演が出来ない復活祭時期の出し物としての需要に応えただけであるとするものである。
そのように考えるとなるほど、オラトリオの形式をとりながらマタイの福音に基づいて作家ピカンドルが腕を振るった受難曲の演奏実践としてその晩の方法も可能性の一つに違いない。つまり具体的にはどうなるかと言うと福音の局面局面がまるで紙芝居のように表れその間にレティタチーヴォやアリアが挟まってと、ほとんど村芝居のような形になる。
もちろんアリアなどはそのときは静止画となって内面へと立ち入って歌われるのがオペラなのであるが、例えば最初の10番のアルトのアリア「悔いと悩みが」をベルカントでヴィブラートの声を聞かせるように歌われると、その歌の主人公自体がロールプレーに徹するだけの情景となってしまう。バッハの受難曲はモーツァルトのコンサートアリアのようには書かれていないのである。そのようなことはなにか批判版とか何とかの楽譜のヴァージョン以前の問題である。
丁度一年前の公演であり、現在の最も優れたバッハ受難曲の実践であるヘルヴェッヘが作曲からギリシャのレトリックを駆使した高度な文化としての解釈と実践のそれとは比較の仕様がないのだが、そうしたスタイル選択以前の問題で楽譜を読み取る能力に掛かっている。まさにこうした指揮者がモーツァルトのオペラの新上演を受け持つザルツブルク音楽祭の芸術性の程度が知れるのだ。
なるほど、ユダがイエスに口付けをする33曲のソプラノとアルトのソロとコーラス「かくして、わがイエスは捕らわれたもう」の掛け合いから雷鳴轟きの場での分厚くドラマティックな運びは、こうした静止画の違和感を包み込むまるでモーツァルトの「魔笛」の劇場空間のようなものを表出させ、更に続いて終局ではソリストとコーラスをステージの後ろへと移動させ、第一部のフィナーレを飾る。そうした効果の作り方は構わないが、まるでオーバーアマルガウの受難劇のような田舎芝居である。(続く)
参照:
我々が被った受難の二百年 2010-04-04 | 音
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
割れ窯に慰めなどあるのか? 2011-03-31 | アウトドーア・環境
滑稽な独善と白けの感性 2005-03-10 | 歴史・時事
ルーヴルの楽団と手兵を率いたマルク・ミンコフスキーの演奏であった。歌手も悪かったが全ての責任はスタイルの問題でもあり音楽監督の責任であることは明らかだ。これならば散々貶しているガーディナーのバッハの方が遥かにものになっている。
当日唯一良かったのは短かなプログラムの文章で、バッハがそもそもこうしたプロテスタントの芸術やトーマスカントライの仕事に集中する心算はなくて、ケーテンで示したようなブランデンブルク協奏曲などの方向へと更に進みたかったに違いないとする視点で、こうしたオラトリオですら当時世界を魅了していたオペラの上演が出来ない復活祭時期の出し物としての需要に応えただけであるとするものである。
そのように考えるとなるほど、オラトリオの形式をとりながらマタイの福音に基づいて作家ピカンドルが腕を振るった受難曲の演奏実践としてその晩の方法も可能性の一つに違いない。つまり具体的にはどうなるかと言うと福音の局面局面がまるで紙芝居のように表れその間にレティタチーヴォやアリアが挟まってと、ほとんど村芝居のような形になる。
もちろんアリアなどはそのときは静止画となって内面へと立ち入って歌われるのがオペラなのであるが、例えば最初の10番のアルトのアリア「悔いと悩みが」をベルカントでヴィブラートの声を聞かせるように歌われると、その歌の主人公自体がロールプレーに徹するだけの情景となってしまう。バッハの受難曲はモーツァルトのコンサートアリアのようには書かれていないのである。そのようなことはなにか批判版とか何とかの楽譜のヴァージョン以前の問題である。
丁度一年前の公演であり、現在の最も優れたバッハ受難曲の実践であるヘルヴェッヘが作曲からギリシャのレトリックを駆使した高度な文化としての解釈と実践のそれとは比較の仕様がないのだが、そうしたスタイル選択以前の問題で楽譜を読み取る能力に掛かっている。まさにこうした指揮者がモーツァルトのオペラの新上演を受け持つザルツブルク音楽祭の芸術性の程度が知れるのだ。
なるほど、ユダがイエスに口付けをする33曲のソプラノとアルトのソロとコーラス「かくして、わがイエスは捕らわれたもう」の掛け合いから雷鳴轟きの場での分厚くドラマティックな運びは、こうした静止画の違和感を包み込むまるでモーツァルトの「魔笛」の劇場空間のようなものを表出させ、更に続いて終局ではソリストとコーラスをステージの後ろへと移動させ、第一部のフィナーレを飾る。そうした効果の作り方は構わないが、まるでオーバーアマルガウの受難劇のような田舎芝居である。(続く)
参照:
我々が被った受難の二百年 2010-04-04 | 音
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
割れ窯に慰めなどあるのか? 2011-03-31 | アウトドーア・環境
滑稽な独善と白けの感性 2005-03-10 | 歴史・時事