早いもので週末には復活祭音楽祭初日である。モーツァルトのオペラを勉強する時間があるのかどうかは分からないが、それに関わらずディナージァケットを点検しなければいけない。シャツなどは黄ばんでいるものもあるので洗濯して選択しなければいけない。杮落しに相当するような公演への臨席は久しぶりである。
そして復活祭への最終週となる。手元には、音曲禁止ならず、シーズンの音楽のCDを集めた。終わりから行くと、先に購入したハイドンの七つの最後の言葉のジュリアード四重奏団編の録音である。幾通りもの編成がある中で、四重奏の演奏経験の豊富な演奏家が主体となって四重唱を加えた編成となっている企画ものでとても興味深い。
「キリストの七つの部位に準じたカンタータ集」は必ずしも全てが受難節のために書かれたものだけでははないようだが、ブクステーデの作曲は北方バロックの特徴である嘆き節がとても節度よく配合されて、バッハ家の中ではなかなか生まれなかったような才能を示していて、とても素晴らしい。そこには同名のシュッツの曲も入っているが、その作曲家の渋さはこうした大きな節にあるよりももっと内省自省的な「白鳥の歌」などのものに向いているようだ。ガーディナー指揮のモンテヴェルディ合唱団の演奏はちっとも悪くはないのである。通俗名曲ではあれほどみっともない演奏をする団体であるが、渋い曲になればなるほど虚心坦懐な演奏を繰り広げるのはなぜなのか?それとも1980年代まではこの団体や指揮者は良かったのかもしれない。
その意味からは矢張りカトリックの受難の典礼とあっても、復古主義のルッソーの「七曲の贖罪の詩篇(6,32,38,51,102,130,143)」への作曲は些かのイデオロギー臭さはあるものの壮麗さとその構築は揺るぎ無く、まさに先ほど退任したベネディクト16世などが目指していた復興のようなものなのかもしれない。アンサンブル「ザ・ヘンリエイト」の録音が十分で、先ごろ安売りにあったヒラーアンサムブルの録音を必要としないほどである。復古調の作風の演奏実践にはそこまでのものが要求されないのは、ラトル氏の指す「オペラセリア」のそれの容易さと共通しているものがあるだろう。
それにしてもである、こうした文化的な重層感と歴史こそが、この春の季節感と結びついて、生きている実体感をこれほどに思い知らされるものとは思わなかった。それが、殊の外宗教的な感興と言うものではなくて、季節感や生活感と切っても切り離せないからゆえの環境認知であるからこそ、西欧文化の精華と呼べるのだろう。日本の春の桜の開花への思いは谷崎の「細雪」のそれに代表されるだろうが、そのあまりに儚さと全く対極の、こうした構築的な宇宙観の偉大さにはただただ打たれるしかない。
詩篇の中でも130番には名曲が多く、その中でもデュプレのものなどは落とせないだろう。何と言う幸福か、いくつもの演奏をCDとして比較して聴けるのが現代の喜びである。スペインのヴィクトリアの作曲「受難節の典礼」に目を移す前に、ヴェルサイユのシャルパンティエ―の「レソン」などは、明らかにハプスブルク家の典礼のために書かれた諸作とは異なったバロック趣味のそれでありながらも、愛の歌と同様に歌われて、ほとんどフランスの嘆き節になっているのが面白い。
参照:
復活祭への少しの思い入れ 2012-03-16 | 暦
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
半ドンでお腹を減らしふらふら 2009-04-02 | アウトドーア・環境
ゴミで咳き込んで酷く咽る 2009-04-02 | アウトドーア・環境
そして復活祭への最終週となる。手元には、音曲禁止ならず、シーズンの音楽のCDを集めた。終わりから行くと、先に購入したハイドンの七つの最後の言葉のジュリアード四重奏団編の録音である。幾通りもの編成がある中で、四重奏の演奏経験の豊富な演奏家が主体となって四重唱を加えた編成となっている企画ものでとても興味深い。
「キリストの七つの部位に準じたカンタータ集」は必ずしも全てが受難節のために書かれたものだけでははないようだが、ブクステーデの作曲は北方バロックの特徴である嘆き節がとても節度よく配合されて、バッハ家の中ではなかなか生まれなかったような才能を示していて、とても素晴らしい。そこには同名のシュッツの曲も入っているが、その作曲家の渋さはこうした大きな節にあるよりももっと内省自省的な「白鳥の歌」などのものに向いているようだ。ガーディナー指揮のモンテヴェルディ合唱団の演奏はちっとも悪くはないのである。通俗名曲ではあれほどみっともない演奏をする団体であるが、渋い曲になればなるほど虚心坦懐な演奏を繰り広げるのはなぜなのか?それとも1980年代まではこの団体や指揮者は良かったのかもしれない。
その意味からは矢張りカトリックの受難の典礼とあっても、復古主義のルッソーの「七曲の贖罪の詩篇(6,32,38,51,102,130,143)」への作曲は些かのイデオロギー臭さはあるものの壮麗さとその構築は揺るぎ無く、まさに先ほど退任したベネディクト16世などが目指していた復興のようなものなのかもしれない。アンサンブル「ザ・ヘンリエイト」の録音が十分で、先ごろ安売りにあったヒラーアンサムブルの録音を必要としないほどである。復古調の作風の演奏実践にはそこまでのものが要求されないのは、ラトル氏の指す「オペラセリア」のそれの容易さと共通しているものがあるだろう。
それにしてもである、こうした文化的な重層感と歴史こそが、この春の季節感と結びついて、生きている実体感をこれほどに思い知らされるものとは思わなかった。それが、殊の外宗教的な感興と言うものではなくて、季節感や生活感と切っても切り離せないからゆえの環境認知であるからこそ、西欧文化の精華と呼べるのだろう。日本の春の桜の開花への思いは谷崎の「細雪」のそれに代表されるだろうが、そのあまりに儚さと全く対極の、こうした構築的な宇宙観の偉大さにはただただ打たれるしかない。
詩篇の中でも130番には名曲が多く、その中でもデュプレのものなどは落とせないだろう。何と言う幸福か、いくつもの演奏をCDとして比較して聴けるのが現代の喜びである。スペインのヴィクトリアの作曲「受難節の典礼」に目を移す前に、ヴェルサイユのシャルパンティエ―の「レソン」などは、明らかにハプスブルク家の典礼のために書かれた諸作とは異なったバロック趣味のそれでありながらも、愛の歌と同様に歌われて、ほとんどフランスの嘆き節になっているのが面白い。
参照:
復活祭への少しの思い入れ 2012-03-16 | 暦
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
半ドンでお腹を減らしふらふら 2009-04-02 | アウトドーア・環境
ゴミで咳き込んで酷く咽る 2009-04-02 | アウトドーア・環境