安倍政権が前回以上の信任を受ける選挙予想が相変わらず賑やかである。社会学者などがこうした不思議な日本人の生態を分析しているようだ。どうも社会的な抑圧を感じている人々が、その中で一種の共感で連帯して、弱い者苛めをする権力に追従するということらしい。それによって、より弱い社会的弱者へとその鬱憤の矛先が向かうので、在日朝鮮人や浮浪者や犯罪者などがゴミのように扱われるという集団意識が、現在の安倍政権を支えているといったような感じである。
しかし、それが実は底辺層の市民に限らずに、日本社会を動かしているエリート層にも同じような意識が満ち溢れていて、こうした社会意識を形成している。それは、東電のエリートサラリーマンや官庁の役人の言動、更に「直ちには健康に影響がない」と嘯く権力者に共通するあまりにも不自然な態度に表れており、同じように抑圧意識を共有している日本人なのである。
その抑圧を更に下流へと流すことでなんとか均衡がとれているのが典型的な日本社会なのである。それは形を変えてさまざまに社会問題となってきた。我々の少年期では、大学の山岳部などで人が何人も殺されるとか、連合赤軍顔負けのリンチ事件などが多発していたのが思い出される。それは相似形になって、身近の運動部などの活動における下級生苛めとして存在していて、如何に日本人が戦後レジームの中でも一切そうした帝国陸軍のような感覚が微動だにしなかったかが顕著だった。そもそも、そうしたことを社会問題として論じていたのが、確か本多勝一などの朝日新聞のとんでもない論調であって、まさしく安倍政権を裏から支える翼賛新聞における前述における上流から下流へと流す宣伝報道の一役を担い続けているのである。
弱い者いじめの帰属集団意識はなにも日本人に限ったことではなく、連邦共和国でもここ二月ほど大きな問題になっている反イスラム欧州人グループやホーリガングループの大規模な示威行為にも表れている心理でもある。以前は、外国人労働者の排斥などが、目下の問題として吹き荒れたのだが、EUの現実の中ではその帰属意識の範疇が若干広がったのだろう。
これらの大規模なデモンストレーションは、SNSによって大きな組織を介在しなくても瞬時に人々が集まることが可能になったのだという。そこにはある種の帰属意識などが動機付けとなるのだろう。なるほどイスラム国などのやり方を指して、それに向き合うとすればかなり多くの欧州人の共鳴が得られるだろうが、そこに具体的な行動意志があるかどうかは甚だ疑わしい。
権力者に対して何らかの示威行為をすることと、弱い者苛めの集団行動とはその意味も影響も全く異なるのは当然である。ドレスデンでのデモンストレーションに対して、そもそもザクセン州には2%のイスラム教徒しかいないと語られる。その人々が自ら住む社会がイスラム化して乗っ取ってしまわれるかといえば、笑い話でしかない。やはり事実関係の調査研究そして批判的なジャーナリズムが事足りていないのに過ぎない。
昨今のイスラム批判には直接さらされない印象のトルコ人に関して、放火の疑いで家族が焼死した時に間髪を入れずに飛んできたエルドガン首相は、イスラム国に対峙した形でオスマン帝国の再来を期している。それに対して、在特会などの行動に対して直接行動をとらない韓国などは殆ど日本化しているとしか思われない。民族の格が違うとしても、安倍政権を抱く日本人ともども朝鮮民族の情けなさのようなものをそこに感じる。やはりシナ人は大分違う。
参照:
安倍が解散に打って出る話 2014-11-15 | マスメディア批評
反面教師にみる立ち位置 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-13
しかし、それが実は底辺層の市民に限らずに、日本社会を動かしているエリート層にも同じような意識が満ち溢れていて、こうした社会意識を形成している。それは、東電のエリートサラリーマンや官庁の役人の言動、更に「直ちには健康に影響がない」と嘯く権力者に共通するあまりにも不自然な態度に表れており、同じように抑圧意識を共有している日本人なのである。
その抑圧を更に下流へと流すことでなんとか均衡がとれているのが典型的な日本社会なのである。それは形を変えてさまざまに社会問題となってきた。我々の少年期では、大学の山岳部などで人が何人も殺されるとか、連合赤軍顔負けのリンチ事件などが多発していたのが思い出される。それは相似形になって、身近の運動部などの活動における下級生苛めとして存在していて、如何に日本人が戦後レジームの中でも一切そうした帝国陸軍のような感覚が微動だにしなかったかが顕著だった。そもそも、そうしたことを社会問題として論じていたのが、確か本多勝一などの朝日新聞のとんでもない論調であって、まさしく安倍政権を裏から支える翼賛新聞における前述における上流から下流へと流す宣伝報道の一役を担い続けているのである。
弱い者いじめの帰属集団意識はなにも日本人に限ったことではなく、連邦共和国でもここ二月ほど大きな問題になっている反イスラム欧州人グループやホーリガングループの大規模な示威行為にも表れている心理でもある。以前は、外国人労働者の排斥などが、目下の問題として吹き荒れたのだが、EUの現実の中ではその帰属意識の範疇が若干広がったのだろう。
これらの大規模なデモンストレーションは、SNSによって大きな組織を介在しなくても瞬時に人々が集まることが可能になったのだという。そこにはある種の帰属意識などが動機付けとなるのだろう。なるほどイスラム国などのやり方を指して、それに向き合うとすればかなり多くの欧州人の共鳴が得られるだろうが、そこに具体的な行動意志があるかどうかは甚だ疑わしい。
権力者に対して何らかの示威行為をすることと、弱い者苛めの集団行動とはその意味も影響も全く異なるのは当然である。ドレスデンでのデモンストレーションに対して、そもそもザクセン州には2%のイスラム教徒しかいないと語られる。その人々が自ら住む社会がイスラム化して乗っ取ってしまわれるかといえば、笑い話でしかない。やはり事実関係の調査研究そして批判的なジャーナリズムが事足りていないのに過ぎない。
昨今のイスラム批判には直接さらされない印象のトルコ人に関して、放火の疑いで家族が焼死した時に間髪を入れずに飛んできたエルドガン首相は、イスラム国に対峙した形でオスマン帝国の再来を期している。それに対して、在特会などの行動に対して直接行動をとらない韓国などは殆ど日本化しているとしか思われない。民族の格が違うとしても、安倍政権を抱く日本人ともども朝鮮民族の情けなさのようなものをそこに感じる。やはりシナ人は大分違う。
参照:
安倍が解散に打って出る話 2014-11-15 | マスメディア批評
反面教師にみる立ち位置 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-13