聖霊降臨祭間の動きを記録しておかなければいけない。可也忙しかったからである。そして疲れた。土曜日に一っ走りしてから身体を休めて、日曜の11時前にはミュンヘンへと向かった。18時のオペラに間に合うようにである。360KMほどしか離れていないので、頑張って走れば3時間で移動可能だが、目的はオペラ観戦であり走ることではなく、帰りに眠くなるような事は避けなければいけなかった。
そこで、休暇の最終日であるから逆方向への渋滞は予想されたが、案の定シュトッツガルトかカールツルーヘはお昼前に渋滞していた。ミュンヘン方向へは二三箇所滞ったらことはあったがストップアンドゴーは全く無かった。途中バイエルンに入ってから持参のパンを頬張り、おもむろのミュンヘンに入った。祭日でトラックが一台も走っていないので、巡航速度を守ることが可能だった、時間に余裕があるので出来る限り燃料消費を減らすことに精を出して、片道で35Lも消費していなかった。燃費100KM7.3Lほど間に落としたからだ。つまり、満タン70Lの半分も消費していないということは、往復給油無しで移動できるということだった。これは経済的に興味深い。
ミュンヘンの北側からオリムピック公園やらBMWの本社を通り過ぎてホーフガルテンに差し掛かったときに電話が入った。日本からのお客さんがフランクフルトに到着したのである。とんだ勘違いをしていて、お客さんを迎えることは出来なかったのだが、オペラ終了後に折り返しで待ち合わせすることにしたのであった。
早めに地下ガレージに入れて、劇場入り口の下に停めた。このお陰で幕間に全く問題なく車に帰って、残りのサンドイッチを頬張ることが可能となった。なにも倹約するつもりは無かったのだが、町はダルマイールをはじめ軒並み閉店していて、観光の町ミュンヘンといえどもいかにもドイツらしく商売っ気が無い。パリとは大違いである。
それでも劇場周辺の山用具シュスターやボーグナー本店、お茶のアイレス、百貨店ベックなどのショーウィンドーを覘いて、マンハイムやフランクフルトとは違う都会の空気に触れたのである。そして劇場の近くに腰を下ろしてノンアルコールビールを飲む。最初の休憩ではコーヒーを飲み、二度目には車で軽食、そして10時過ぎまでのカーテンコールを終えて、駐車料金の支払いの列にならんでいると、車を動かしたのは22時15分を過ぎていた。地下でも電話は繋がったようだが、ワイン街道で待っているお客さんから電話が掛かったのは丁度車を出そうとしているときであった。
来た道を忠実に戻ろうとしてが若干遠回り気味にアウトバーンまで戻り、にわか雨のアウグスブルクを過ぎると、ある程度燃料も、帰宅時刻も定まった。火曜日明朝1時40分ということで、帰宅途中若干眠くなるところはあったが比較的無難に戻ってきた。嘗てはミュンヘンから自宅まで2時間40分で飛ばしたことがあるが、現在の速度規制からすれば殆ど不可能である。それでも帰宅してもまだ燃料が7lほど残っていたのには感激した。帰りは可也アクセルを踏んだが、ミュンヘンからしたらやはりくだりになるのだろう。ミュンヘン往復を安く出来れば、ミュンヘンが経済的に近くなる。決して走行時間だけではないのである。
90年代のジェラール・モルティーエー時代にはザルツブルクに通ったものだが、あの当時の一日1000km走破の意欲も気力も失せて久しい。実際に、730km走破してお客さんと飲んで、四時間後に起きると流石に眠かった。そうした生活に慣れていないのと、あの当時にように無理をしなくなくなったのである。
参照:
靴が汚れるだけのコロニー 2015-02-21 | 生活
パンチの効いた破壊力 2015-03-08 | 文化一般
そこで、休暇の最終日であるから逆方向への渋滞は予想されたが、案の定シュトッツガルトかカールツルーヘはお昼前に渋滞していた。ミュンヘン方向へは二三箇所滞ったらことはあったがストップアンドゴーは全く無かった。途中バイエルンに入ってから持参のパンを頬張り、おもむろのミュンヘンに入った。祭日でトラックが一台も走っていないので、巡航速度を守ることが可能だった、時間に余裕があるので出来る限り燃料消費を減らすことに精を出して、片道で35Lも消費していなかった。燃費100KM7.3Lほど間に落としたからだ。つまり、満タン70Lの半分も消費していないということは、往復給油無しで移動できるということだった。これは経済的に興味深い。
ミュンヘンの北側からオリムピック公園やらBMWの本社を通り過ぎてホーフガルテンに差し掛かったときに電話が入った。日本からのお客さんがフランクフルトに到着したのである。とんだ勘違いをしていて、お客さんを迎えることは出来なかったのだが、オペラ終了後に折り返しで待ち合わせすることにしたのであった。
早めに地下ガレージに入れて、劇場入り口の下に停めた。このお陰で幕間に全く問題なく車に帰って、残りのサンドイッチを頬張ることが可能となった。なにも倹約するつもりは無かったのだが、町はダルマイールをはじめ軒並み閉店していて、観光の町ミュンヘンといえどもいかにもドイツらしく商売っ気が無い。パリとは大違いである。
それでも劇場周辺の山用具シュスターやボーグナー本店、お茶のアイレス、百貨店ベックなどのショーウィンドーを覘いて、マンハイムやフランクフルトとは違う都会の空気に触れたのである。そして劇場の近くに腰を下ろしてノンアルコールビールを飲む。最初の休憩ではコーヒーを飲み、二度目には車で軽食、そして10時過ぎまでのカーテンコールを終えて、駐車料金の支払いの列にならんでいると、車を動かしたのは22時15分を過ぎていた。地下でも電話は繋がったようだが、ワイン街道で待っているお客さんから電話が掛かったのは丁度車を出そうとしているときであった。
来た道を忠実に戻ろうとしてが若干遠回り気味にアウトバーンまで戻り、にわか雨のアウグスブルクを過ぎると、ある程度燃料も、帰宅時刻も定まった。火曜日明朝1時40分ということで、帰宅途中若干眠くなるところはあったが比較的無難に戻ってきた。嘗てはミュンヘンから自宅まで2時間40分で飛ばしたことがあるが、現在の速度規制からすれば殆ど不可能である。それでも帰宅してもまだ燃料が7lほど残っていたのには感激した。帰りは可也アクセルを踏んだが、ミュンヘンからしたらやはりくだりになるのだろう。ミュンヘン往復を安く出来れば、ミュンヘンが経済的に近くなる。決して走行時間だけではないのである。
90年代のジェラール・モルティーエー時代にはザルツブルクに通ったものだが、あの当時の一日1000km走破の意欲も気力も失せて久しい。実際に、730km走破してお客さんと飲んで、四時間後に起きると流石に眠かった。そうした生活に慣れていないのと、あの当時にように無理をしなくなくなったのである。
参照:
靴が汚れるだけのコロニー 2015-02-21 | 生活
パンチの効いた破壊力 2015-03-08 | 文化一般