大阪では住民投票が話題となっているようだ。いつの間にか住民投票になっていて、日本の歴史史上最大の住民投票らしきがあまりにも簡単に決着を迎えようとしていて、まるで憲法改正の下準備のようである。ネットのヴィデオなどを見ると、最終的には「大阪を潰すかどうか」の感情的な決断になってきているようだ。そのようなポピュリズム的な進展をさせたのは推進派であって、それに対抗するには、理屈や推測よりもそうした感情的な波にすがるしかないのであろう。
個人的には、もし大阪市民だとすると「大阪がなくなる」というのは大阪市民ではなくなるので、西欧的な市民の見地からしてもとても承服できないだろう。そして東ドイツ人民が自らの国を崩壊させたことに思いが及ぶ。今回大大阪時代と呼ばれる日本で最も大きなメガシティーであったときのことを知ったが、戦時体制になるにしたがって中央集権制が強まって東京市の消滅とともに軍事態勢になっていったようだ。西欧では、丁度第一次世界大戦後の独墺社会の没落の社会にも似ていて、京阪神のそれを谷崎が描いていた。
そこに、フクシマの人々のことを重ね合わせると、胸を痛めない人はいない。故郷喪失とかそうした感傷的なものを超えて、自らの環境に覚醒しなければいけないとき、その環境の喪失を人は受け入れることが出来ないのだ。ハリウッドのSF映画などには、外から見る宇宙飛行士などが地球が失われてしまっていることに気がつくときは、その映画のハイライトとなっている。その衝撃はどこから来るものなのか?
効率化が叫ばれているが、中央集権のことを指しているようで、そもそもメガシティー自体に非効率があるに違いない。連邦共和国を見れば分かるように、歴史的な州単位の独自文化と、我市のように1300年以上の共同体意識は、とても居心地がよいだけでなく、予算の利用に関しての合意が得やすい。それは、皆が同じ町に住んで、同じ環境を謳歌しているからである。こうした自主権はとても得がたく、それは民主主義の基盤であろう。
日本では残念ながらそうした共同体も知らなく、また住んだこともないのだが、東京23区などでもその共同体を強く感じたこともない。もう少し小さな昔からの町の名前が出れば、これはまた全然趣がが異なる。大阪都構想は分州制への第一歩ともいわれるが、歴史的な大阪が無くなって、堺、大阪、京阪神などが一つの関西州になったとしても、歴史的な京都とかの自治権が弱まってしまえばなんら文化的な共通のアイデンティティーを持つことは難しいのではないか?
一っ走りした。月曜日は疲れていて、スーパーで買い物もしなかった。それでも流石に火曜日になると、時刻は遅くなったがパン屋のかえるに少し走れた。気温は摂氏20度なっていて、清々しさも殆ど消えていた。それでも起床から時間が経っているので、身体の怠惰感よりは走り心地はましだった。それでも出だしからして、往路で12分ぐらいかと感じた。腕はよく振れているが足がそれほど前に出なく、テムポもあまりよくない感じがしたからだ。そしてなによりも木陰がないと暑い雰囲気がする。
それでも折り返し点を目指して一頑張りすると、11分1875歩であった。記録から30歩ぐらいしか多くない。往路の記録である。それほど厳しくなかったのだが、さて復路である。これは横風が吹いて、巻き上がる砂が眼に入りそうになる。そして足取りもあまり定まらない。ゆるい登りになると今度はどうしてもペースが落ちがちになる。頑張るのだが胸も重くなる。木陰を走れることだけが喜びで、自分の気温状況としては可也辛い。そして最後のスパートでは最近あるようにショーツとブリーフのゴムが下腹を押すような感じがしてくる。理由は分からないのだが、必要になってくる腹式呼吸の影響か?23分3883歩は今までの記録3938歩に比較して明らかな往復記録である。脈をチェックすると分120回と丁度良い感じである。条件が悪いにもかかわらず思いかけずまた記録を更新してしまった。
参照:
負の遺産に向き合う姿勢 2015-05-05 | 歴史・時事
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
術にならない頭の悪さ 2015-04-10 | 音
足元からパワーアップ 2015-04-29 | アウトドーア・環境
個人的には、もし大阪市民だとすると「大阪がなくなる」というのは大阪市民ではなくなるので、西欧的な市民の見地からしてもとても承服できないだろう。そして東ドイツ人民が自らの国を崩壊させたことに思いが及ぶ。今回大大阪時代と呼ばれる日本で最も大きなメガシティーであったときのことを知ったが、戦時体制になるにしたがって中央集権制が強まって東京市の消滅とともに軍事態勢になっていったようだ。西欧では、丁度第一次世界大戦後の独墺社会の没落の社会にも似ていて、京阪神のそれを谷崎が描いていた。
そこに、フクシマの人々のことを重ね合わせると、胸を痛めない人はいない。故郷喪失とかそうした感傷的なものを超えて、自らの環境に覚醒しなければいけないとき、その環境の喪失を人は受け入れることが出来ないのだ。ハリウッドのSF映画などには、外から見る宇宙飛行士などが地球が失われてしまっていることに気がつくときは、その映画のハイライトとなっている。その衝撃はどこから来るものなのか?
効率化が叫ばれているが、中央集権のことを指しているようで、そもそもメガシティー自体に非効率があるに違いない。連邦共和国を見れば分かるように、歴史的な州単位の独自文化と、我市のように1300年以上の共同体意識は、とても居心地がよいだけでなく、予算の利用に関しての合意が得やすい。それは、皆が同じ町に住んで、同じ環境を謳歌しているからである。こうした自主権はとても得がたく、それは民主主義の基盤であろう。
日本では残念ながらそうした共同体も知らなく、また住んだこともないのだが、東京23区などでもその共同体を強く感じたこともない。もう少し小さな昔からの町の名前が出れば、これはまた全然趣がが異なる。大阪都構想は分州制への第一歩ともいわれるが、歴史的な大阪が無くなって、堺、大阪、京阪神などが一つの関西州になったとしても、歴史的な京都とかの自治権が弱まってしまえばなんら文化的な共通のアイデンティティーを持つことは難しいのではないか?
一っ走りした。月曜日は疲れていて、スーパーで買い物もしなかった。それでも流石に火曜日になると、時刻は遅くなったがパン屋のかえるに少し走れた。気温は摂氏20度なっていて、清々しさも殆ど消えていた。それでも起床から時間が経っているので、身体の怠惰感よりは走り心地はましだった。それでも出だしからして、往路で12分ぐらいかと感じた。腕はよく振れているが足がそれほど前に出なく、テムポもあまりよくない感じがしたからだ。そしてなによりも木陰がないと暑い雰囲気がする。
それでも折り返し点を目指して一頑張りすると、11分1875歩であった。記録から30歩ぐらいしか多くない。往路の記録である。それほど厳しくなかったのだが、さて復路である。これは横風が吹いて、巻き上がる砂が眼に入りそうになる。そして足取りもあまり定まらない。ゆるい登りになると今度はどうしてもペースが落ちがちになる。頑張るのだが胸も重くなる。木陰を走れることだけが喜びで、自分の気温状況としては可也辛い。そして最後のスパートでは最近あるようにショーツとブリーフのゴムが下腹を押すような感じがしてくる。理由は分からないのだが、必要になってくる腹式呼吸の影響か?23分3883歩は今までの記録3938歩に比較して明らかな往復記録である。脈をチェックすると分120回と丁度良い感じである。条件が悪いにもかかわらず思いかけずまた記録を更新してしまった。
参照:
負の遺産に向き合う姿勢 2015-05-05 | 歴史・時事
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
術にならない頭の悪さ 2015-04-10 | 音
足元からパワーアップ 2015-04-29 | アウトドーア・環境