Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

とんとん拍子でない帰還

2016-04-10 | 文化一般
小澤征爾の「ベルリン帰還」を聞いた。ネットの音質は悪かったが、ある程度は分かった。なによりも、日曜日の動画放送のトレーラーにあるように、またラディオ放送のナレーションにもあるように椅子をほとんど使わずに膝を屈伸させながらの予想もしなかった元気な指揮ぶりを見せたとあり、喜ばしい帰還だった。

なによりも面白かったのは、小澤が関係しない前半の管楽合奏のグランパルティータで、この曲はフルトヴェングラーなどもヴィーンで録音しており、フォン・カラヤン時代にも管楽アンサムブルの十八番だった。そして今モーツァルトのこうした曲がああしたゆったりしたテムポで、カラヤン時代の大管弦楽団の部品としての丁々発止とした管楽アンサンブルとも、フルトヴェングラー指揮とも全く異なる趣が、そしてその丁寧な昨今風の楽譜の読みがそこに感じられた。

まさかそれに指揮者も影響された訳ではなかろうが、後半最後の曲ファンタジーではテムポが滞って今にも崩れそうな気配だった。いつもの小澤のとんとん拍子がああいう風になるのだと驚いた。そもそもアウフタクトからしっかりとリズムを刻む独墺風の音楽とは程遠いが、斎藤メソッドとかでそうした隙間を上手に埋めたことでの世界の小澤の存在だった。

最近の小澤は学生管弦楽団やOB管弦楽団斎藤記念しか指揮していないのだろう。ベートーヴェンなどではそうした「合奏のよさ」で音楽づくりをしてきたのだろうが、やはりベルリンのフィルハーモニカ―は玄人の集団である。エグモントの序曲においてもアバド指揮のルツェルンのオールスター管弦楽団に対抗しようとすると、余計に楽聖の音楽は決してそれだけではなくて、まさしくアバドがフルトヴェングラーの和声のヴェクトル理論を提示する時の音色や密度が生じる訳でもなく、嘗てのような運動性がそこにある訳でもないことが明白になる。

番組に出演していた楽団広報の若い博士の話にもあったように、嘗てはヒッピー紛いのその運動性が売りであったものがと、今に至る過程を若干示唆していた。その例としてエアーチェクのカセットテープも手元にある1980年代のシェーンベルク編曲のバッハ演奏の触りが流れると、なるほど当時から編曲とはいいながらバッハをとんでもないとんとん拍子で ― 斎藤編曲のシャコンヌと瓜二つに ― 振っていたことは明らかなのだが、あの当時の颯爽とした勢い感と同時にフォン・カラヤンの楽器の鳴りを思う存分駆使していたのは間違いない。そしてカラヤン以上に会場に詰め掛けた聴衆と舞台との一体感を醸し出していたポピュラリティーを、現在のりんりんランランと同じようにしてしまうことに関してはもちろん議論の余地がある。

博士に言わせると、小澤が監督に選ばれなくとも現在の指揮者ヤンソンスと同じように最も楽団に愛されていたというのはこうしたところに表れている。またハイドンの交響曲の終楽章の触りが流されたが、なるほど小澤が繰り返していた「ビーフステーキのような管弦楽」を指揮してお得意の「玩具のシムフォニー」のような軽快さを表出していたのは事実だろう。またこの指揮者が苦手にしているショスタコーヴィッチの十番の名演やヒンデミートなどが、アイヴスや武満作品演奏などと同時に語られていた。

勿論当夜のソリストのピーター・ザーキンがアドルフ・ブッシュの孫つまり父ルドルフ・ゼルキンの奥さんはブッシュの娘だったのは気が付かなかったが、そのルドルフとのベートーヴェンの全集録音などに触れられていたが、今その録音を聞いても今回ほどの不自然さはあまり感じない。しかしボストンの聴衆はそれに嫌気がさしたのだろう。

前半のモーツァルトと同じく、昨今の譜読みが以前のようなアウフタクトから流線形に流してしまうような風潮から、キリル・ペトレンコやユリア・フィッシャーなどが示すような丁寧な音楽づくりがされるようになって、こうした旧世代の譜読みではどうしても物足らなくなってきているトレンドも今回の違和感の背景にあるのかもしれない。しかし小澤がそれをやろうとしても異端の指揮者チェリビダッケではないので、にっちもさっちも行かないことになる。それは六拍子などの難しいものだけでなく、このようになると斎藤メソッドとかやらが全く役に立たないことが分かるのである。

先日聞いた内田光子がおかしなアクセント無しにモーツァルトを弾き、若くしてオーストリアに移住しているペトレンコがロシアンリズムの妙をアクセント無しにドイツ音楽に活用しているのを聴くに及んで、その相違は途轍もなく大きいと感じた。なるほど小澤のロシア音楽の浪花節には我々は違和感を持たないのだが、ロシア人が聞くと違うのかもしれない。

総じてこの演奏会生中継から感じたことは、カラヤンサウンドの脂の乗った管弦楽に乗っかって指揮した例えばサントリーホールでのブラームス交響曲一番演奏などを追想して、小澤の音楽や彼がやっている音楽教育などの活動が今や古色蒼然としていて ― ヘルベルト・フォン・カラヤンの後光と同様に、どこか特殊なガラパゴス的な地方色だったことだ。一線から退いて真面な管弦楽団を振る舞台から何年間も ― 恐らくヴィーン時代の最後も入れて ― 離れていると、そのようになるのは仕方がないかとも感じた。



参照:
SEIJI OZAWAS RÜCKKEHR ZU DEN BERLINER PHILHARMONIKERN (DegitalConcertHall)
「愛弟子の帰還」生放送 2016-04-08 | マスメディア批評
思ったよりも早く失せる 2016-02-07 | 雑感
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