カーネギーホールのサイトを覗いた。初めてみて驚いたのは入場料が欧州よりも安いことだ。なるほど席によっては明らかに経済力の無い人しか座らないような視界の悪い席も少なくなく、予約してあるボックス席との差は大きそうだが、それでも通常の席の高額券が高くない。バーデンバーデンの二十数ユーロは田舎価格と思っていたがニューヨーク価格である。そしては遥かに素晴らしい席だ。
それでも出し物による価格差も明白で、日本の業界のようにピンからキリまでの出場者の各々の価格帯の中で利ザヤを稼ぐような商法がそこにはなさそうである。大西洋横断と太平洋横断では距離が違うが、その演奏者毎の差額によってやはり日本のそれは明瞭会計でないと思う。カーネギーには、ポップスも含めてきっと三流は出ないのだろう。
ラインガウからプログラムが送られてきていた。早速内容とざっと一瞥する。昨年はイゴール・ヨベットがレジデンスアーティストだったので出かけたが、今年はベルリンのフィルハーモニカ―のアルブレヒト・マイヤーと歌手のアネッテ・ダッシュである。なにか日本の興行師のプログラムのようだ。前者をけなすつもりはないが、昨年我がデスクからも歩いて三分以内で二回演奏会をしたが、結局行かなかった。同じフルーティストのパウだったら出かけていたに違いない。オーボエで彼より上手い人も音楽的に優れている人も幾らでもいる。後者は生で聞いたことがあるかどうかは知らないが、フランクフルトの地元の人なので態々ラインガウに滞在する必要もない。それにいろいろと情報を総合するとそれほどの歌手ではないように感じている。昨年と比較すると如何にも安上がりな感じがする。その他の演奏会も日本公演程度のもので全くこれといったものが見つからない。シュヴェツィンゲンも同様だ。嘗てはショルティが振って、リヒテルが弾いてジュリーニが付けて、ヤコブスが歌っていたので、世代交代してもせめてヤンソンスが振って、ソコロフが弾いてハイティンクが付けるぐらいでないと話しにならない。
2018年は場合に拠れば再びザルツブルクに出かけたかもしれなかったのだが、ルツェルンで全てが片付いたので、態々夜中の高速をブッ飛ばす必要が無くなった。夜間の視界システムが付いた車を使えば昔と同じようにオペラなどが引けてから、4時間少しで帰宅出来るだろうが、そのような価値を見つけられなくなって久しい。
ネットを見ると来る第二夜「ジークフリート」のさすらい人の配役が変わっていた。ヴォルフガンク・コッホに代わってリガからエギールス・ジリンスと言う人が入っている。ドイツ語歌唱的には明らかにあまり期待出来なくなった。こうなるとジークフリート役を歌うステファン・フィンケに任せるしかない。キリル・ペトレンコの下で歌うのは2015年以来の二度目となる訳だが、あの驚異的な声だけでなくて音楽的にも更に良くなって最高のジークフリート歌唱が望まれる。経歴を見るとカールスルーヘの後にライプチッヒに行く前にマンハイムで歌っている。ホルスト・シュタイン以降指揮者は兎も角、やはりヴァークナー歌手の登竜門なのだろうか。あのバカ喧しい荒っぽい管弦楽団に負けないようにあの声に鍛えられたのだろうか?
それにしてもコッホはどうしたことか。少なくとも「ラインの黄金」では声も好調ではなかったが出ていて、丁寧に歌っていた。但し得意のベルカント的な輝きはなかった。その点で批判されていたわけだが、十分に技術的には補っていた。但しあの声で輝きが無いとヴォータンの存在感が薄くなるのは当然で、全体の出来に影響したことは間違いない。さすらい人はそこまで重要かどうかの判断もあったのだろうか。そもそもペトレンコ指揮の公演ではどうしようもない歌手の不具合もしばしばあるのでそれなりにつじつま合わせしてあまり大きな問題とはならない。
先日の第一夜「ヴァルキューレ」の録音を何度も鳴らしているが、やはりFlacで録ったものよりもリニア―のPCMが遥かに鮮度の高い音で響く。驚異的な臨場感で、今まで録音した中で最も優れている。弦の細かな動きがどうやってこの音を出しているのかと思うぐらいで、ホルンソロも一日目に特に賞賛を受けていたようだが、どの楽器も聞いたことのないとても配慮した響きを出している。カルショー制作のショルティ盤以上に驚異的な響きで到底劇場実況録音とは思えない。兎に角、鋭いところの音の粒立ちが到底座付き管弦楽団のものではなく、二流の交響楽団では出すのが無理な響きである。因に写真のところがブリュンヒルデの眠りにつく前の一声だが、ヴィヴラートがよく分かる。典型的なニーナ・シュテムメの歌唱であるが、先のオランダの女性歌手のような粗いことにはならずに細かく制御されている。
相対的に音響に関しては、一幕冒頭での入力が落ちていたためにその後は上げていて、二幕以降はそれよりも落としてある。そのお陰で二幕以降はこちらの入力も若干低過ぎた。それゆえに一幕を流しているとカムペの歌も突出しているが、こうして落ち着いて室内で聞いていると胸がパクパクするほど興奮してくる。会場ではそもそも興奮状態なのでそこまでは感じなかったのかもしれない。また近接したマイクが音を捉えているためその迫力が尋常ではない。
参照:
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評
それでも出し物による価格差も明白で、日本の業界のようにピンからキリまでの出場者の各々の価格帯の中で利ザヤを稼ぐような商法がそこにはなさそうである。大西洋横断と太平洋横断では距離が違うが、その演奏者毎の差額によってやはり日本のそれは明瞭会計でないと思う。カーネギーには、ポップスも含めてきっと三流は出ないのだろう。
ラインガウからプログラムが送られてきていた。早速内容とざっと一瞥する。昨年はイゴール・ヨベットがレジデンスアーティストだったので出かけたが、今年はベルリンのフィルハーモニカ―のアルブレヒト・マイヤーと歌手のアネッテ・ダッシュである。なにか日本の興行師のプログラムのようだ。前者をけなすつもりはないが、昨年我がデスクからも歩いて三分以内で二回演奏会をしたが、結局行かなかった。同じフルーティストのパウだったら出かけていたに違いない。オーボエで彼より上手い人も音楽的に優れている人も幾らでもいる。後者は生で聞いたことがあるかどうかは知らないが、フランクフルトの地元の人なので態々ラインガウに滞在する必要もない。それにいろいろと情報を総合するとそれほどの歌手ではないように感じている。昨年と比較すると如何にも安上がりな感じがする。その他の演奏会も日本公演程度のもので全くこれといったものが見つからない。シュヴェツィンゲンも同様だ。嘗てはショルティが振って、リヒテルが弾いてジュリーニが付けて、ヤコブスが歌っていたので、世代交代してもせめてヤンソンスが振って、ソコロフが弾いてハイティンクが付けるぐらいでないと話しにならない。
2018年は場合に拠れば再びザルツブルクに出かけたかもしれなかったのだが、ルツェルンで全てが片付いたので、態々夜中の高速をブッ飛ばす必要が無くなった。夜間の視界システムが付いた車を使えば昔と同じようにオペラなどが引けてから、4時間少しで帰宅出来るだろうが、そのような価値を見つけられなくなって久しい。
ネットを見ると来る第二夜「ジークフリート」のさすらい人の配役が変わっていた。ヴォルフガンク・コッホに代わってリガからエギールス・ジリンスと言う人が入っている。ドイツ語歌唱的には明らかにあまり期待出来なくなった。こうなるとジークフリート役を歌うステファン・フィンケに任せるしかない。キリル・ペトレンコの下で歌うのは2015年以来の二度目となる訳だが、あの驚異的な声だけでなくて音楽的にも更に良くなって最高のジークフリート歌唱が望まれる。経歴を見るとカールスルーヘの後にライプチッヒに行く前にマンハイムで歌っている。ホルスト・シュタイン以降指揮者は兎も角、やはりヴァークナー歌手の登竜門なのだろうか。あのバカ喧しい荒っぽい管弦楽団に負けないようにあの声に鍛えられたのだろうか?
それにしてもコッホはどうしたことか。少なくとも「ラインの黄金」では声も好調ではなかったが出ていて、丁寧に歌っていた。但し得意のベルカント的な輝きはなかった。その点で批判されていたわけだが、十分に技術的には補っていた。但しあの声で輝きが無いとヴォータンの存在感が薄くなるのは当然で、全体の出来に影響したことは間違いない。さすらい人はそこまで重要かどうかの判断もあったのだろうか。そもそもペトレンコ指揮の公演ではどうしようもない歌手の不具合もしばしばあるのでそれなりにつじつま合わせしてあまり大きな問題とはならない。
先日の第一夜「ヴァルキューレ」の録音を何度も鳴らしているが、やはりFlacで録ったものよりもリニア―のPCMが遥かに鮮度の高い音で響く。驚異的な臨場感で、今まで録音した中で最も優れている。弦の細かな動きがどうやってこの音を出しているのかと思うぐらいで、ホルンソロも一日目に特に賞賛を受けていたようだが、どの楽器も聞いたことのないとても配慮した響きを出している。カルショー制作のショルティ盤以上に驚異的な響きで到底劇場実況録音とは思えない。兎に角、鋭いところの音の粒立ちが到底座付き管弦楽団のものではなく、二流の交響楽団では出すのが無理な響きである。因に写真のところがブリュンヒルデの眠りにつく前の一声だが、ヴィヴラートがよく分かる。典型的なニーナ・シュテムメの歌唱であるが、先のオランダの女性歌手のような粗いことにはならずに細かく制御されている。
相対的に音響に関しては、一幕冒頭での入力が落ちていたためにその後は上げていて、二幕以降はそれよりも落としてある。そのお陰で二幕以降はこちらの入力も若干低過ぎた。それゆえに一幕を流しているとカムペの歌も突出しているが、こうして落ち着いて室内で聞いていると胸がパクパクするほど興奮してくる。会場ではそもそも興奮状態なのでそこまでは感じなかったのかもしれない。また近接したマイクが音を捉えているためその迫力が尋常ではない。
参照:
配役変更にも期待 2018-01-19 | 雑感
GeliebtGehasst 2018-01-24 | マスメディア批評