ナチョナルテアターのティケットを買った。12日のベルリンでのコンサート評を読んでいて、SWRのサイトにマンハイムの初日の評が載っていたからだ。二十年ほど前に新装なった大劇場に初めて入ることになる。小劇場は芝居でお馴染みだが、あのマンハイムのごたごたは御免だったから機会が無かった。しかし今回はバロックアンサムブルが入っていて劇場の座付き管弦楽とは関係が無い。これだけで先ずはいい機会だ。そして「ポッペア」の演出も中々よさそうである。このモンテヴェルディの名作を最後に聞いたのはアーノンクール指揮のコンツェルトュスムジクスだから、これまた20年ほど前のことだ。歌手も悪くないようで、音楽的には可成り質が高そうだ。そもそもドイツ語圏でもヴァークナー協会の発祥の地での屈指の名門なだけあって今でも歌手の登竜門である劇場であることには変わりないだろう。
その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。
しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通すのが初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックオペラはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。
12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因がある」として、「こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出をやるような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。
ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較するべくもなく、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はそのハイカットの衣装のお陰でありというような下らないことを今更書いている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれをアップグレードして繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。
ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。
参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。
しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通すのが初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックオペラはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。
12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因がある」として、「こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出をやるような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。
ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較するべくもなく、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はそのハイカットの衣装のお陰でありというような下らないことを今更書いている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれをアップグレードして繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。
ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。
参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感