Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

オペラ劇場ってところ

2018-04-21 | 文化一般
これを書こうとしたら、二回目上演の朝の新聞に一週間前の初日の評が出ていたのに気が付いた。今まで出す紙面が無かったのだろう。マンハイムの音楽劇場はどんなゲストの楽団が入ってもその程度は変わらなかった。つまりドイツの二流どころのその音楽的な演奏程度が良く示されていた。二流というのはその給与体系から両シュターツカペレやミュンヘンの超Aのその次のAクラス給与に含まれる。つまりBクラスもある。歴とした二流である。ドイツに移住した節には「オペラ劇場があるところに住みたかった ― 日本には存在しなかった」というような事をマンハイムの語学学校で例文にしたことがあるが、上のクラスとの差は分からなかった。そしてマンハイム程度では音楽の分かる耳効きには耐えられないことが直ぐに分かった。そしてザルツブルクなどのスーパーオパーを経て、ミュンヘンで本当のスーパーオパーに慣れ親しんだ耳で四半世紀ぶりにマンハイムに戻ると余計に耐えられなかった。ゲストの古楽楽団がシュツッツガルトから訪れているのにも拘らずである。

出掛ける前には、フランクフルトの我々のバッハコンサートで様々な欧州のトップクラスの古楽楽団を招いたことから、四半世紀前の録音などからすれば遥かに優れた演奏が奏される期待をしていた。その希望は昨年末に訪れたロココ劇場でもそれほど裏切られなかった。しかし今回は弦の音調も合せずに前半を通してしまう野蛮さには我慢がならなかった。そのような指導者であるからリズムもしっかりとれないのが示すように、舞台への指揮も全く出来ていなかった。要するに音楽的準備が出来ていない。勿論イタリア語の叙唱であるからドイツ人には難しいのだろう。だから余計にパッサカリアの出し方だけは見事でルネ・ヤコブスやアーノンクールでもなせなかったような明晰に驚いた。基本的には恐らくナポリ版で精々四声の扱いで、デュプレの曲などを交えてモンティヴェルディ指導とは関係なく本当に挿入曲を入れたセンスは決して悪くは無かった。
»Die Krönung der Poppea« von Claudio Monteverdi


我々音楽愛好家には下手な演奏に我慢できない。勿論音楽は技術だけではないのだがアンサムブルとなると最低のことが出来ていないと話しにならない。我々がオペラ上演には何も期待せずに、態々出かけないのは、それを聞いていられないからである。しかし、ミュンヘンで経験したことは指導者がしっかりしていて超一流の歌手を集めればある程度の上演が可能になることであり、どうしてもそれをオペラ上演の基準とすると更にその差異に我慢ならなくなる。出来る人は十二分の練習の上に更に舞台への指揮まで細かくするのを思うと、如何に方や天才コンサート指揮者とはいいながら、通常のオペラ業界で棒を振っている人の職業は全く異なるのを知らされる。

ガイダンスの席で一緒にベルリンの国会に行った知り合いの夫婦に出合ったが、SWRの記事を読んでいた。私もそれで出かけた訳だが、これであの連中ならばシュツッツガルトに就任するカラヤン二世君を絶賛しかねないのも合点が行く。要するに文化波とはいってもそこで書いている一部は全く音楽のドレミも分かっていない連中なのだとハッキリした。音楽的にあれで満足すると書いたらもはや音楽について一言も書く必要が無い。

そして私が今回ロージェを独り占めして30ユーロであったが、ミュンヘンでのそれとの価値の差は大きい。私の場合はミュンヘンへの往復で80ユーロ駐車料金最低14ユーロにプログラム代が掛かるので、マンハイムへの全て合わせて15ユーロほどとは大分違う。それでもやはりマンハイムには芝居訪問だけにしたいと思った。ミュンヘンに住んでいるのとマンハイムではこれだけの違いがある。それだけ聴衆の質も違う。その点も今回確認したかったことで、バーデンバーデンでのその評価の資料にしたかったのだ。

それでも新聞にあるようにその公演自体は音楽的な価値を差し引くと音楽劇場としての価値はやはりダルムシュタットやハイデルベルクよりは上だった。流石に名門シラー劇場の素地がある。そのヴェネツィアの水を張った舞台は音響的な悪影響が多大で二幕だけは水が無く落ち着いていた。要するに音楽劇場の演出としては非常に不味かったが、芝居の舞台としては決して悪くは無かった。そしてポッペア役のニコラ・ヒレブラントはザルツブルクやミュンヘンでも歌っているように最後をピアニッシシモで歌い熟していて技術的にもまだ先のある人であることが際立った ― 愛の二重唱を歌いながら子供をムシコロの様に二人で絞殺した情景の後で。その他バリトンのバルト―ス・ウルバノヴィッツや、ご当地で人気のマレーべル・サンディなど何人かはある程度の水準の人が居たが、なるほど嘗てのマルクス・アイへなどがミュンヘンに行くと声が無いと批判されるのが分かるような陣営だった。あの程度の会場であの声ならば到底ミュンヘンでは難しいという人が殆どだった。合唱団の声のトレーニングもやはりミュンヘンのそれとの差は明らかだった。

さてもう一つの興味であったのは二十年ほど前に新装なったオペラ劇場である。購入したのは上から四番目のクラスだったが、視界も写真の様に良く、一部上手が切れるぐらいだった。テロップも見やすく、近代的な劇場としても悪い方ではない。なによりも1156席よりもコムパクトな感じで小劇場と同じコンセプトで平土間が傾斜付けられていて悪くはない。音響はこの大きさならばともう一つ上を望みたいが、少なくともマンハイムのあの座付き管弦楽団には以前の劇場よりも明晰さが増したので悪くは無かっただろう。建築素材などは安物の公団住宅や二等客車のようでマンハイムらしく安物臭い。それでもあそこであの「パルシファル」がやられるのかと思うとうんざりするのも正直なところである。よほどしっかりした指揮をして貰わないとどうしようもないのは変わりない。ある意味、視界も音響も、倍もあるバーデンバーデンの劇場のそれは可成り奇跡的な成功例であることを改めて確認した。




参照:
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
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