ベルリンからの中継を聞いた。流石にフィルハーモニカーはイスラエルフィルとは違う。分かり易い喩え方をすれば解像度が、1k,P1080に対して780ぐらいの差だろうか。たとえイスラエルでキリル・ペトレンコと練習して何回も本番に上がっても、フィルハーモニカーが初日で見せるような解像度では演奏出来ない。これが一流と二流の明らかな差だ。
今回も鉄のカーテンを引いて徹底的な練習をしたらしい。ワンがピアノを受け持ったプロコフィエフの協奏曲三番では各パートを別途にゆっくりと弾かせてその音を確認させたと想像する。解像度が上がれば上がるほどピントが合っていないところがハッキリしてくる。この曲も一曲目の「ラ・ぺリ」も三曲目のフランツ・シュミットの交響曲もまるでフィルハーモニカーの課題曲の様になってしまった。これらの練習をすれば何が出来ていて何が出来ていないかが明らかになるからだ。
その意味からはプロコフィエフでの弦は特に高弦を主に健闘していて、その程度に管楽器が合わせてくることの難しさを感じさせた。傷は仕方ないとしても、十分に音が出ていないようで、この辺りはどうしても合衆国の超一流楽団のややもすると「アニメーション化」するぎりぎりのところで鳴らすものとの差が明白だ。だからといって個々の楽器がそれほど深い音を出すわけではなく、要するにその程度までアンサムブルの精緻さを上げようとするとそれだけ歌い込めてないという事だろう。合わせるのに余裕が無い。
恐らく管楽器に関してはサイモン・ラトル時代に適当に遣らせたツケがこうして回ってきた感があり、キリル・ペトレンコ時代に変化が期待される面だろうか。金曜日土曜日と二回、そしてザルツブルクとまだ練習する時間はあるので、ルツェルンではその成果を聞かせて欲しいところである。昨年の様に初日で大事故を起こすようなことが無くなっただけでも準備してきているという事だろうか。
管弦楽団以上に顕著にその解像度の相違が出ているのはワンのピアノで、満足行くように弾き切ることが益々難しくなってきているのが分るような演奏で、アンコールを弾かなかったのも頷ける。
ラディオ放送では、前日に収録したクラリネット奏者で楽団長のバーダー氏へのインタヴューが流れていたが、ペトレンコの指揮者としての特徴は氏自身がコーミッシェオパーでソリスツをしていた時からコンサート指揮者であったとするのは必ずしも後付けではないだろう。つまり、指揮者のオーガナイズ能力はオペラ劇場で全体を制御しきるのはとても難しいが、それを経験としてやってきたという事で、それによって歌手にとっても歌い易い指揮者となったのだとしていた。要するにスーパーオパー指揮者でその辺りのオペラ指揮者とは素性が違うのは当然だろう。
まだまだオペラ指揮者云々というのはご愛敬であるが、それ以上に興味深かったのはデジタルコンサートホールのあり方に関する言及である。これはなるほど新しいメディア形態であるが、あくまでも記録以上のものではないとする見解をフィルハーモニカーから改めて聞けたのはとても良かった。それ以上でも以下でもないという事だ。
投薬を止めたいと思ったが、最後の晩は思いがけずもう一つ冴えなかった。喉の感じも鼻もそれどころか頭痛も少しあってまるで微熱でもあるように感じた。それでも森を一っ走りすると気分は上向いたが、油断はならない。ぶり返すとなると今度は医者に行かないと手に負えなくなる。
参照:
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般
今回も鉄のカーテンを引いて徹底的な練習をしたらしい。ワンがピアノを受け持ったプロコフィエフの協奏曲三番では各パートを別途にゆっくりと弾かせてその音を確認させたと想像する。解像度が上がれば上がるほどピントが合っていないところがハッキリしてくる。この曲も一曲目の「ラ・ぺリ」も三曲目のフランツ・シュミットの交響曲もまるでフィルハーモニカーの課題曲の様になってしまった。これらの練習をすれば何が出来ていて何が出来ていないかが明らかになるからだ。
その意味からはプロコフィエフでの弦は特に高弦を主に健闘していて、その程度に管楽器が合わせてくることの難しさを感じさせた。傷は仕方ないとしても、十分に音が出ていないようで、この辺りはどうしても合衆国の超一流楽団のややもすると「アニメーション化」するぎりぎりのところで鳴らすものとの差が明白だ。だからといって個々の楽器がそれほど深い音を出すわけではなく、要するにその程度までアンサムブルの精緻さを上げようとするとそれだけ歌い込めてないという事だろう。合わせるのに余裕が無い。
恐らく管楽器に関してはサイモン・ラトル時代に適当に遣らせたツケがこうして回ってきた感があり、キリル・ペトレンコ時代に変化が期待される面だろうか。金曜日土曜日と二回、そしてザルツブルクとまだ練習する時間はあるので、ルツェルンではその成果を聞かせて欲しいところである。昨年の様に初日で大事故を起こすようなことが無くなっただけでも準備してきているという事だろうか。
管弦楽団以上に顕著にその解像度の相違が出ているのはワンのピアノで、満足行くように弾き切ることが益々難しくなってきているのが分るような演奏で、アンコールを弾かなかったのも頷ける。
ラディオ放送では、前日に収録したクラリネット奏者で楽団長のバーダー氏へのインタヴューが流れていたが、ペトレンコの指揮者としての特徴は氏自身がコーミッシェオパーでソリスツをしていた時からコンサート指揮者であったとするのは必ずしも後付けではないだろう。つまり、指揮者のオーガナイズ能力はオペラ劇場で全体を制御しきるのはとても難しいが、それを経験としてやってきたという事で、それによって歌手にとっても歌い易い指揮者となったのだとしていた。要するにスーパーオパー指揮者でその辺りのオペラ指揮者とは素性が違うのは当然だろう。
まだまだオペラ指揮者云々というのはご愛敬であるが、それ以上に興味深かったのはデジタルコンサートホールのあり方に関する言及である。これはなるほど新しいメディア形態であるが、あくまでも記録以上のものではないとする見解をフィルハーモニカーから改めて聞けたのはとても良かった。それ以上でも以下でもないという事だ。
投薬を止めたいと思ったが、最後の晩は思いがけずもう一つ冴えなかった。喉の感じも鼻もそれどころか頭痛も少しあってまるで微熱でもあるように感じた。それでも森を一っ走りすると気分は上向いたが、油断はならない。ぶり返すとなると今度は医者に行かないと手に負えなくなる。
参照:
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般