夢のようなストリーミング中継だった。初日を経験した者にとっては魂消るような出来だった。よくも途中二回の上演と稽古でここまで修正してくるかと思った。いつものことだが細かなところを修正して、その音楽の雄弁さが全く違ってくる。中継を食事の時間以外は楽譜を捲り続けたが、本当に細かなところの意味づけが明白になっている。録音を聞き比べた訳ではないが、記憶だけで充分に相違があった。だから常連さんは態々初日に行かないでもいいと思うのがペトレンコ指揮の新制作シリーズだ。
それにしても、初めから四日目が二回目の中継日と決まっていたので、逆算して合わせてきたにしても、その準備の適格さは驚くべきマネージメント能力で、これだけで超一流の指導者であるが、ここまでいい演奏が出来るここ一番で腕を揮う陣営を率いているのがまた凄い。流石にペトレンコも満足そうな表情を存分に振り撒いていた。恐らく中継されたものではピカイチの出来栄えだったのではなかろうか。
演出に関しては三幕を再度じっくり観る必要があるが、やはり動かし方が明白さに欠けて、退屈と批判されたのも理解した。その一方沢山の気に入った情景もあって、やはり美術的な力はあった。
この晩のヨーナス・カウフマンの歌唱は特筆すべきものだ。会場では一番の支持を受けていなかったが、私はとても評価する。初日ではステムメの方が胴を取っていたが、この日のカウフマンは声の出方が違った。驚いたのは、一幕の後でゴッチャルクのインタヴューを舞台裏で受けていて、その生き生きした受け答えだった。結局彼に続いて、パーペ、ゲルハーハ―と更にはステムメそして楽屋へとタラ・エラートらまで登場したのだが、やはり皆一種の興奮状態で、ああでなければ舞台で演じられないのだと分かった。その中でも二幕でデュオの控えている彼が出てきたときは、「歌手の邪魔をしないでほしい」と思ったぐらいだが、あれぐらいでないとあれだけの舞台は出来ないのだと認識した。やはり楽器の人とはまた違いとても開放的だ。楽器は温めておかないといけないという事か。
いつものようにオンデマンド配信が提供された。これは丸一日時間があると思って安心しているとDLする期を失う。ぎりぎりになって何とか間に合ったこともあった。映像はMP4で音響もそれほど優れていないが使えるだろうか。しかし今回は当方の高速ネット回線化初のストリーミング再生で、ライヴ映像が1Kで綺麗に流れた。コピーすると45Gほどになった。音声は余分にWAV録音したが、画像に見合っただけの音声のサウンドトラックをFlac録音とした。一幕で予備録音の音量調整が低過ぎたのでどうなるかと思ったが、それでも完全爆発するとよく鳴る。今回の演奏の特徴ともいえる大鳴りである。ヘッドスペースに余裕があるだけにこれまた豪快である。スクリーンコピーソフトの問題点は入力段がもう一つのようで折角のハイビットがもう一つ活きない。それでも画像を見ていることで補えれるものもある。そもそもの中継の音質はある程度の伝送速度が出ていたと思われ楽しめるものだ。高音もかなり伸びていて、低音も腰があって豊かだ。
舞台裏インタヴューでなかなか止まらなかったのはゲルハーハ―だ。二幕で出番が無いから時間潰しには良かったのだろうが、朗々と役柄などについて論じだすと止まらなかった。これも一種の興奮状態とみた。あれだけの演技をしてプロフェッショナルであろうと平常な方がおかしいと思う。二幕の後では三幕には歌わない演技をするステムメが出ていたが、その三幕の舞台の喜びを語っていて、歌手であっても皆役者なんだと改めて思った。ミュンヘンのような大劇場であると映像のように細かい表情などが分るのは特等席の人ぐらいだろうが ― 流石に最前列にはBMW関係の人が指揮者から上手側を占めていたようだ。
カウフマンの「嘗てはベルカントでヴァークナーを歌っていた」発言はいろいろと考えさせられる。少なくともペトレンコのように指揮しないことには難しいというのが核で、一体何時ごろからああした芋のごった煮のような管弦楽演奏になったかである。またゲルハーハ―が態々バーンスタインの言葉としての「音楽にはEもUも無くて、あるのは良い音楽と悪い音楽」を完全否定していたのはよかった。勿論聞き手が大衆に影響のある連邦共和国ナンバーワンの有名人ゴッチャルクであり、外のPVに集まっている多くの人々を意識しての発言でもある。要するにエンターテイメントと芸術は違うという当たり前の話しであるが、大衆向けに発言するところが偉い。
その意味からは、ヨーナス・カウフマンは大衆市場の人気があって、今回のような至芸とも言える素晴らしい芸術的歌唱を披露しても、それにしっかり反応するまた違う層とは本当に価値判断の出来る趣味の高い人たちなので、会場での反応も想定されるほどではないのだ ー 明らかにこの期間の劇場は平素の常連さん主体の雰囲気とはまた異なる。
参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
アマルガムの響きの中 2018-07-03 | 音
それにしても、初めから四日目が二回目の中継日と決まっていたので、逆算して合わせてきたにしても、その準備の適格さは驚くべきマネージメント能力で、これだけで超一流の指導者であるが、ここまでいい演奏が出来るここ一番で腕を揮う陣営を率いているのがまた凄い。流石にペトレンコも満足そうな表情を存分に振り撒いていた。恐らく中継されたものではピカイチの出来栄えだったのではなかろうか。
演出に関しては三幕を再度じっくり観る必要があるが、やはり動かし方が明白さに欠けて、退屈と批判されたのも理解した。その一方沢山の気に入った情景もあって、やはり美術的な力はあった。
この晩のヨーナス・カウフマンの歌唱は特筆すべきものだ。会場では一番の支持を受けていなかったが、私はとても評価する。初日ではステムメの方が胴を取っていたが、この日のカウフマンは声の出方が違った。驚いたのは、一幕の後でゴッチャルクのインタヴューを舞台裏で受けていて、その生き生きした受け答えだった。結局彼に続いて、パーペ、ゲルハーハ―と更にはステムメそして楽屋へとタラ・エラートらまで登場したのだが、やはり皆一種の興奮状態で、ああでなければ舞台で演じられないのだと分かった。その中でも二幕でデュオの控えている彼が出てきたときは、「歌手の邪魔をしないでほしい」と思ったぐらいだが、あれぐらいでないとあれだけの舞台は出来ないのだと認識した。やはり楽器の人とはまた違いとても開放的だ。楽器は温めておかないといけないという事か。
いつものようにオンデマンド配信が提供された。これは丸一日時間があると思って安心しているとDLする期を失う。ぎりぎりになって何とか間に合ったこともあった。映像はMP4で音響もそれほど優れていないが使えるだろうか。しかし今回は当方の高速ネット回線化初のストリーミング再生で、ライヴ映像が1Kで綺麗に流れた。コピーすると45Gほどになった。音声は余分にWAV録音したが、画像に見合っただけの音声のサウンドトラックをFlac録音とした。一幕で予備録音の音量調整が低過ぎたのでどうなるかと思ったが、それでも完全爆発するとよく鳴る。今回の演奏の特徴ともいえる大鳴りである。ヘッドスペースに余裕があるだけにこれまた豪快である。スクリーンコピーソフトの問題点は入力段がもう一つのようで折角のハイビットがもう一つ活きない。それでも画像を見ていることで補えれるものもある。そもそもの中継の音質はある程度の伝送速度が出ていたと思われ楽しめるものだ。高音もかなり伸びていて、低音も腰があって豊かだ。
舞台裏インタヴューでなかなか止まらなかったのはゲルハーハ―だ。二幕で出番が無いから時間潰しには良かったのだろうが、朗々と役柄などについて論じだすと止まらなかった。これも一種の興奮状態とみた。あれだけの演技をしてプロフェッショナルであろうと平常な方がおかしいと思う。二幕の後では三幕には歌わない演技をするステムメが出ていたが、その三幕の舞台の喜びを語っていて、歌手であっても皆役者なんだと改めて思った。ミュンヘンのような大劇場であると映像のように細かい表情などが分るのは特等席の人ぐらいだろうが ― 流石に最前列にはBMW関係の人が指揮者から上手側を占めていたようだ。
カウフマンの「嘗てはベルカントでヴァークナーを歌っていた」発言はいろいろと考えさせられる。少なくともペトレンコのように指揮しないことには難しいというのが核で、一体何時ごろからああした芋のごった煮のような管弦楽演奏になったかである。またゲルハーハ―が態々バーンスタインの言葉としての「音楽にはEもUも無くて、あるのは良い音楽と悪い音楽」を完全否定していたのはよかった。勿論聞き手が大衆に影響のある連邦共和国ナンバーワンの有名人ゴッチャルクであり、外のPVに集まっている多くの人々を意識しての発言でもある。要するにエンターテイメントと芸術は違うという当たり前の話しであるが、大衆向けに発言するところが偉い。
その意味からは、ヨーナス・カウフマンは大衆市場の人気があって、今回のような至芸とも言える素晴らしい芸術的歌唱を披露しても、それにしっかり反応するまた違う層とは本当に価値判断の出来る趣味の高い人たちなので、会場での反応も想定されるほどではないのだ ー 明らかにこの期間の劇場は平素の常連さん主体の雰囲気とはまた異なる。
参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
アマルガムの響きの中 2018-07-03 | 音