「パルシファル」の批評が珍しくFAZに出ていた。珍しいというのは、フランクフルトにある新聞社であり、ライヴァルの南ドイツ新聞がミュンヘンの劇場の取材を隈なくしているために、ミュンヘンの劇場の新制作の批評は限られる。だから暮れの「三部作」にも誰も派遣していなかった。日曜版にも無かったと思う。そして珍しくペトレンコ批判も書かれている。キリル・ペトレンコに関しては私も出来るだけ批判をし始めたいと思っているので待ちかねた。しかし内容は音楽的にもあまり的を得たものではなくて、残念ながら指揮者自身が見てもあまり参考にならないものだった。だからそれほど紹介するに当たらないが、興味深かったのは「特に一幕において、ペトレンコはパルシファルの音楽をどう捉えていいのか、又は演出に合わせればよいのかわからないように、独自の控え目さが目立った」というところだ。
だから歌手にはとても良かっただろうがと書いている。実際には例えば前奏曲が終わって、グルネマンツが歌いだすところから、これまたいつものようにレネ・パーペの絶妙の脱力歌唱を聞かせる ― と同時にMETでとは違ってしっかりしたドイツ語歌唱になっていた。それが聞こえ難いほど、ここだけでなく暫くは、珍しいことにどうしてこれだけ管弦楽を鳴らすのだろうと思うぐらいに強奏させていた。録音したものでも音量はピークはそこまでにある。そして新聞では、書いている人は初めて見る名前だが、「音は舞台神聖劇から気楽に離れて、しばしば驚くほどにクールに、情報量を減らしていた」とあり私の指すザッハリッヒカイトをこのように表現している。これを私は上からしっかりと覗き込んでいたので弦や特に木管群がなにをやっていたかは分かっている。しかしここではその技術的な面に敢えて触れる必要はない。そのまま何年か先のバーデンバーデンでの演奏実践を想像しておけば事足りるだろう。
それ以前に前奏曲での一つ一つの動機の歌わせ方を録音で聴けば如何にこの指揮者が冒頭のチェロのフレージングや松葉記号の明白さや信仰の動機での正確なff>pのシンコペーションの弾かせ方など感心することばかりで、どうしてこの曲でとても重要なそのリズム分割などが今まで誰も指揮出来ていないのだろうと思う。テムピとは一切関係ないことなのだが、実際には調べたものなどを参考にするとペトレンコ指揮の全曲はブーレーズ指揮の2004年のバイロイト公演よりもト-タルタイムが長い。
ブーレーズ指揮演奏の方が細かなところは比較的曖昧に指揮されていることは分かっているのだが、所謂演奏時間はそのような演奏の印象や細部とはまた異なる、しかし、そのようにしか思わない私でも、驚くことに演奏時間に比例するものが今回分かった。それは、先の新聞に前記されている「表現」だ。つまり、その情報量というものかもしれない。ブーレーズ指揮は蓋の付いた劇場で演奏されてその音響も全く異なり細部はミックスされる傾向があり、ミュンヘンの劇場では平土間により近いかもしれない、少なくとも上から覗き込んだ直接音ではない。そしてその「情報量」は更に少なく、しかし響きはより豊かであった。
そして明記して措かなければいけないのは、所謂「グルネマンツの語り」の後半になるところで、転調から転調で、stärkenで聖杯の奇跡が語られるところの寸止め効果である。ここが例外的に今回の公演の演奏で最も盛り上がっていたところで、まさしく誰かが書くような鳥肌ものだったかもしれない ― バーデン・バーデンでの公演を経験した私たちはその後のミストリウムで始終鳥肌ものだったのに比べれば、なかなか鳥肌にはならないが、ここはラトル指揮では全くそのようにはなっていない。それ故にその意味は大きいが、それ以上にチェロとバスクラリネットが声に寄り添いユニゾンになるところの演奏など、全くフィルハーモニカーが出来ていなかったところが座付き管弦楽団の腕の見せ所で、ホルンのソロもとても素晴らしかった。要するに、同時にその真骨頂であるイングリッシュホルンとヴィオラのユニゾンなど、楽匠が信仰の動機に「アウスデュルックフォル」と書き込んでいる箇所がとても活きているのである。それらの「表現」によって演奏時間が延びるという事だ。
ペトレンコ批判を歓迎し乍ら、結局その批判を否定するような証拠を挙げて反論してしまうことになる。要するに批評がそこまで音楽的に達していないのだ。そして、少なくともここのその意味を否定するなどの傍証を挙げないとあまり説得力は無いように思う。結局批判を試みようと思ってその音楽的内容などを考えて反論しようと思っても楽譜にそのように書いてあって、全体の中でのその意味付けを否定できない限り、楽匠どころか指揮すらも批判対象とはならない。ここまでで始まってからまだ40分も経過していないのである。これだけ沢山書くことがあって、限が無い。要するにペトレンコ先生にお勉強させて貰っているだけなのだ。(続く)
参照:
危うく逆走運転手指揮 2018-06-26 | 音
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般
だから歌手にはとても良かっただろうがと書いている。実際には例えば前奏曲が終わって、グルネマンツが歌いだすところから、これまたいつものようにレネ・パーペの絶妙の脱力歌唱を聞かせる ― と同時にMETでとは違ってしっかりしたドイツ語歌唱になっていた。それが聞こえ難いほど、ここだけでなく暫くは、珍しいことにどうしてこれだけ管弦楽を鳴らすのだろうと思うぐらいに強奏させていた。録音したものでも音量はピークはそこまでにある。そして新聞では、書いている人は初めて見る名前だが、「音は舞台神聖劇から気楽に離れて、しばしば驚くほどにクールに、情報量を減らしていた」とあり私の指すザッハリッヒカイトをこのように表現している。これを私は上からしっかりと覗き込んでいたので弦や特に木管群がなにをやっていたかは分かっている。しかしここではその技術的な面に敢えて触れる必要はない。そのまま何年か先のバーデンバーデンでの演奏実践を想像しておけば事足りるだろう。
それ以前に前奏曲での一つ一つの動機の歌わせ方を録音で聴けば如何にこの指揮者が冒頭のチェロのフレージングや松葉記号の明白さや信仰の動機での正確なff>pのシンコペーションの弾かせ方など感心することばかりで、どうしてこの曲でとても重要なそのリズム分割などが今まで誰も指揮出来ていないのだろうと思う。テムピとは一切関係ないことなのだが、実際には調べたものなどを参考にするとペトレンコ指揮の全曲はブーレーズ指揮の2004年のバイロイト公演よりもト-タルタイムが長い。
ブーレーズ指揮演奏の方が細かなところは比較的曖昧に指揮されていることは分かっているのだが、所謂演奏時間はそのような演奏の印象や細部とはまた異なる、しかし、そのようにしか思わない私でも、驚くことに演奏時間に比例するものが今回分かった。それは、先の新聞に前記されている「表現」だ。つまり、その情報量というものかもしれない。ブーレーズ指揮は蓋の付いた劇場で演奏されてその音響も全く異なり細部はミックスされる傾向があり、ミュンヘンの劇場では平土間により近いかもしれない、少なくとも上から覗き込んだ直接音ではない。そしてその「情報量」は更に少なく、しかし響きはより豊かであった。
そして明記して措かなければいけないのは、所謂「グルネマンツの語り」の後半になるところで、転調から転調で、stärkenで聖杯の奇跡が語られるところの寸止め効果である。ここが例外的に今回の公演の演奏で最も盛り上がっていたところで、まさしく誰かが書くような鳥肌ものだったかもしれない ― バーデン・バーデンでの公演を経験した私たちはその後のミストリウムで始終鳥肌ものだったのに比べれば、なかなか鳥肌にはならないが、ここはラトル指揮では全くそのようにはなっていない。それ故にその意味は大きいが、それ以上にチェロとバスクラリネットが声に寄り添いユニゾンになるところの演奏など、全くフィルハーモニカーが出来ていなかったところが座付き管弦楽団の腕の見せ所で、ホルンのソロもとても素晴らしかった。要するに、同時にその真骨頂であるイングリッシュホルンとヴィオラのユニゾンなど、楽匠が信仰の動機に「アウスデュルックフォル」と書き込んでいる箇所がとても活きているのである。それらの「表現」によって演奏時間が延びるという事だ。
ペトレンコ批判を歓迎し乍ら、結局その批判を否定するような証拠を挙げて反論してしまうことになる。要するに批評がそこまで音楽的に達していないのだ。そして、少なくともここのその意味を否定するなどの傍証を挙げないとあまり説得力は無いように思う。結局批判を試みようと思ってその音楽的内容などを考えて反論しようと思っても楽譜にそのように書いてあって、全体の中でのその意味付けを否定できない限り、楽匠どころか指揮すらも批判対象とはならない。ここまでで始まってからまだ40分も経過していないのである。これだけ沢山書くことがあって、限が無い。要するにペトレンコ先生にお勉強させて貰っているだけなのだ。(続く)
参照:
危うく逆走運転手指揮 2018-06-26 | 音
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般