Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ジークフリートへの音色

2018-07-25 | 
最も安く車の燃料を満タンにした。50リットルで68,45ユーロは決して悪くは無い。前回先に入れた時の方が少し高かった。これで一泊しても往復は問題が無い。宿賃は払ったので、朝食代を現金で渡すぐらいか。現金が必要なのは劇場内のメムバー表と喫茶だけだ。ピクニックの内容は考えていない。帰路が要らないから寧ろ果物などを主にしようか。

10時前に出れば14時には宿に着く。宿から劇場まで30㎞37分、15時過ぎに駐車場に入れるとすると厳しく、無駄な時間は無い。やはりピクニックの準備が要る。なにを持って行こうか?それならば時間に余裕が生じる。朝食をゆっくり取りたいので、また宿を探すのに時間が掛かるだろうから、これしかない。気温も高そうで、冷房の効いている車から直ぐに劇場入りしたい。

さて「ジークフリート」三幕についても触れておこう。と言っても拍手もそこそこに急いで帰って来たのだからまともなメモは無い。但し、二幕の最後においてもpをしっかりと演奏しているのでも分かるように、三幕のフィナーレも舞台の雑音に消されて爆発的な愛の歓喜とはならない。なぜ態々言及する必要があるかと言うと、バイロイトの所謂蓋付きの演奏実践の録音を聞くとその強烈な爆発は蓋無しのミュンヘンでは採らないからだ。これを先に知っておく必要があるのは、私のように最終日の「神々の黄昏」に出掛けない者の心掛けかもしれない。如何にも「ごついのはこれからじゃ」と新聞評にもあったようにドラマテュルギー的にもそのように演奏される。通常の劇場で演奏する場合の限界であるかもしれない。もう一度一幕に戻ってはみたいが、この三幕のフィナーレの演奏実践は将来バーデンバーデン劇場ではどうなるだろうかと言う問いかけは残る。

しかし何よりも今回とてもよく分かったのは、「ジークフリート」の二幕におけるナイーヴなまでの母性へのイメージと三幕のデアヴァンダラーとジークフリートの掛け合いに楽匠の父性への印象がそのまま楽譜化されていることだ。三幕になると更にここそこに「マイスタージンガー」のそれを聞き取れるのだが、これほど直截な表現があったとは気が付かなかった。音楽的発展の断層をこの楽劇内に認識するのは常識だが、その技術的な問題ではなく、「ワルキューレ」娘との惜別とここでの表現の差異は、美学的には近代的意思表現の相違となるのだろうか。恐らく久しぶりにコッホの歌で聴いたので、丁度ザックスのその舞台と重ね合ってしまった。そして二月には北欧の歌手が歌っていたので全くこの効果は生じなかった。楽匠の息子の名はジークフリートだったなと思いだした。

コッホのように柔らかくこれを歌う歌手は他に居ないのではなかろうか。正直2014年のヴォータンには違和感の方が強かったのだが、デアヴァンダラーのこの掛け合いまで来ると、しっくりいったのだった。これを聴けるだけでも今回の訪問は歌手に関しては価値があると思う。まあ、管弦楽がどこまで根つめて演奏するかに掛かっている。とても楽しみで、まだまだミュンヘンまでの走行中にタブレットの楽譜を確認しないといけないことが多々ありそうだ。


写真:二幕二場のドルチェなホルン「im Wald hier daheim?」、今回も吹いて貰わないと困るヨハネス・デングラーがアバド時代に過渡期のフィルハーモニカーで吹いていたことは知らなかった。助っ人だったようで試傭期間ではなかったようだが、リヒャルト・シュトラウス家の伝統のこともあり、公務員待遇の劇場のポスト以上に魅力的だったとは思われない。



参照:
パン屋開いて、床屋閉まる 2018-07-24 | 生活
流石の配券状況 2018-07-23 | 雑感
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
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