Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

見所をストリーミング

2018-07-09 | 
早めに床に就いた。夜中は摂氏15度ほどまで下がる予報だったので窓を閉め切って熟睡体制にした。それでも前日の時差のためか四時前には目が醒めた。そのまま白んできたので、パン屋に行く前に峠を攻めた。誰もいない森は清々しい。坂をのぼりながら、夕刻にストリーミング中継のある「パルシファル」を頭の中で繰った。見どころを纏めたいからだ。私には、やはり悲愴交響曲などと違って、これは難しい。仕方がない。真っ当に振れる指揮者が殆ど居ないような曲だから難しくて当然だ。比較的リズム的にも単純なのは聖金曜日の音楽辺りで、そこは鐘を鳴らしておけば直に足の歩みに合わせて繰り返される。下りてきても温度計は15.5度しか指していなかった。丁度いい感じだった。パン屋に寄って、ブロツェンではなく週明けに食せるように、聖金曜日のそれのようにワインに、ブロートを買おうと思うと全く焼いてなかった。翌日からの休暇に残る危険があるからだろう。いつもそのことを忘れている。

承前)バゼリッツ氏が最初の前奏曲で全てだというのは名言だ。この曲はフルトヴェングラー指揮の戦前のSP録音復刻LPは私のデフォルトなのだが、今やっとその前奏曲版の意味が分かってきた。冒頭の所謂「晩餐」主題のG-C-Esが「痛み」動機でがモットーなのだが、その前の始まりの上昇が意識の中でどうしてもあの単純なブルックナーの七番の上昇主題に繋がってしまうのだ。この主題が出ればあとはモットーへと引き継がれていく。類似していても比較的単純な「聖杯」の動機を超えて、今度は「信仰」の動機と呼ばれる三拍子系へと移る。

前夜「ローエングリン」の中継録音放送を聞いていたので、再び「タンホイザー」の方へと意識が戻っていた。あの時の信仰は「巡礼」であった。大体これぐらいを押さえておくと、この舞台神聖劇の聴き所を外すことは無いだろう。大きな劇構成も三部のシンメトリーで比較的簡単だ。しかし、やはりリズムは難しいと思う。それでも一幕におけるグルマネンツの語りから寸止め、またはクンドリーの溜息、なんといってもアンフォルタスの痛みはこれで音楽的に抑えられる。

二幕においては第一部での乙女のアンサムブルが気になるところだが、シュテムメとカウフマンのデュオは今年最大の音楽劇場の山場を見せてくれるのではないかと期待している。そしてその音楽的な成果を待ち構えればよい。三幕でのアンフォルタスの歌唱と演技が一幕の「科白」に続いて過剰かどうか?これは演出とその音楽的な意味を吟味すればよい。その名歌唱を披露するゲルハーハ―に言わせるとこのカルト集団はまさしく吸血鬼で、血を吸い求めるとなる。これも演出を批評する点でとても参考になると思う。敢えて聴き所で付け加えておきたいのは、合唱である。この合唱団は、なぜか日本公演では批判の対象となっていたのだが、今回の公演では「タンホイザー」や「マイスタージンガー」のように活躍しないが、「バイロイトのそれには及ばないが」と最大級の評価もされている。今回の歌手陣の中で全く遜色ない存在感があったことだけは確かである。

個人的にヴァークナーの作品の中でなぜか最も「パルシファル」を一番多く実演で経験している。偶然ではないと思うが、そしてこの作品が今でも一番難しいと思う。内容的というよりも音楽的に難しい。如何にまともな上演が今まで為されていなかったかという事で、私たちは今晩のストリーミングで再初演のようなものを体験できると思う。そしてこの作品があのバイロイトの蓋付きの劇場のために創作された唯一の作品であるのがなんとも秘儀じみている。子供の時にクナッパーツブッシュ指揮のフィリップスのバイロイト実況録音に本当に打ちのめされて未だに大きな音楽体験になっている筈なのだが、それこそ、それが秘儀を通した体験だったからであろう。それを乗り越えるだけの認知力が働き覚醒が生じるかという事でもある。

コヴェントガーデンの「ローエングリン」の感想も手短に述べておこう。結論から言うと大きく期待を下回った。それでも三十四年ぶりぐらいに一通り聞いてよかった。前回聴いたのはハムブルク劇場の日本公演の1984年らしい。ヴォルデマール・ネルソン指揮でユルゲン・ローゼ演出、歌はジョーンズという人が歌っているが、グルントヘーバーが王を歌っていたようだ。今まで気が付かなかった。

兎に角このロマン歌劇は長くて、最後まで座り続ける苦行なのは今回の放送でも変わらなかった。なによりも期待したパパーノの楽団をネルソンズがそこまで振れていない。タングルウッドの初日で気が付いたように不明なダイナミックス特にピアニッシモを突然入れたりするのは皆目理解に苦しむ。楽譜の読みに関してはとても粗くて、指揮者ネゼセガンとは比較にならない。オペラ指揮者としてそれを多めに見ても、ひたひたと流すのを得意としているようだが、リズムの切れがとても悪い。これでは座付き管弦楽団でこの長たらしい曲を演奏してもこちらが苦しむだけだ。敢えてそうした指揮をしているのは分かるのだが、あまりにも鈍く、34年前の演奏の方が木管の色彩感などもあって聞かせ、コヴェントガーデンの楽団がとても貧相に響いた。流石にタイトルロ―ルのフォークトの歌は危なげないが、皆が言う様に少なくとも現在ではタンホイザー役よりもローエングリンの歌の方が向いているなんてとっても思えなかった。とても存在感が薄くなる。ツェッペンフェルトの朗々とした歌は見事なのだが、なにかこの指揮者の下ではもう一つ充分に歌わして貰えていないようで歯がゆい。もう一つ気が付いたのはネーティヴのイングリッシュスピーカーがエルザやエファーを歌うと幕が進むにつれて同じように歌がフガフガになるのに気が付いた。これは口角筋が発達していないからだろうか。

誰かが書いていたが、オペラ指揮者としても今一つのようで、座付き楽団の評価とはまた大分隔たっている。そもそも楽譜の読みが充分でなく、リズム的なメリハリが今一つとなるとコンサート指揮者としても辛い。総合的にネゼセガンとネルソンズでは明白な差があった。この指揮ならば、初代バイロイト音楽監督ではないが一寸アドヴァイスしてやろうという気になる。もし「パルシファル」を予定通り振っていたら、あの演出を含めて結構批判も出たと思う。あれほど才能がある人の筈なのだが、欠けているものが大きい。

そのようなことで余計に昨年の「タンホイザー」公演の意義や如何にミュンヘンでのヴァークナーの水準が全ての点で並外れていて記念碑的なものかを改めて認識するに至った。放映の始まる夕方まで寝過ごさないように午睡でもしようか。ネット環境が高速になってからは初めてのミュンヘンからのストリーミング中継である。送り出し側に問題が無ければ綺麗にダウンロード可能な筈だがこれは試してみなければ分からない。月曜日の昼からはMP4が落とせるので資料には困らないであろう。永久保存になりそうな高水準の上演が期待される。初日と同じぐらいに期待が高まる。今回は初日からそれほど問題は無かったのだが、それでもかなり修正してくると思う。



参照:
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
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