(承前)二曲目はベルナードヘンリック・クリュセルの作品でホルン協奏曲ヘ長調だった。名前はこの時代の演奏を得意とする楽団などが演奏している録音やその他で耳にしてはいていてもこれといって取り立てるべき作品は知らない。フィンランド生まれでスェーデンで活躍しているがフォンヴェーバーと同じくフォークラーの弟子だとある。しかしそれではピンと来ないのだが、当時のクラリネットの名人だったと読むとなるほどと思う。
要するにヴェーバー共多くの共通性がみられるが、今回演奏されたのは断片から蘇生されたホルン協奏曲で、ストックホルムの王立劇場にいたフォゴッティストでお婿さんに当るプルマユールによっての編曲で知られていた。それを蘇生したのが演奏したホルニストのヒティーネンの奥さんの作曲家ヨハンナエレンコだとプログラムに詳しい。それがホルン協奏曲であったかどうかは、1810年のヒルシュフェルトの初演や1823年のシュトッツガルトの宮廷楽団での演奏を通して、確かだとしている。
しかし演奏の方はそれ程容易な曲ではないと感じた。そう少し様々な人が演奏するようになると違ってくるかもしれない。唐突で劇場的な曲想はこれまたヴェーバーとの親近性となっている。作曲家自身がヴェーバーのクラリネット協奏曲を演奏した記録は残っていないようだが、モーツァルトのそれは1802年の公開後に記録されているらしい。やはり、そこに浪漫派の新しい音楽の流れがクラリネットやファゴットやホルンなどから感じられる。
さて、最後にこのフェスティヴァルに欠かせないモーツァルトのジュピター交響曲である。この交響曲を最後に聞いた記憶はないのだが、ショルティ指揮シカゴ交響楽団が記憶に新しい。半世紀前の記憶である。大編成でのあれだけ透明な演奏を今後とも耳にすることはないと思う。
その後如何に真面に演奏されていないかであり、あまり聴くに及ばない価値しかもちえなかったのかもしれない。そこで今回の演奏はバロック楽団ということもあり、20世紀にはアーノンクールなどが頻繁に取り上げる前に奇異な録音として話題になったホグウッド指揮のそれを想起させるだけの演奏実践だった。ダイナミックスやリズムの扱いも特別な読み替え的な意味づけをすることなしに、とてもセンスが良かった。つまり20世紀後半の古楽器演奏によるサウンド的な新機軸ではない分、より作品の創作意思に迫るものであって、前世紀後半のメディア主導によるサウンドの時代の演奏実践が如何に不毛な時代であったかを改めて思い起こさせる。
既に言及したが、やはりこうした演奏実践は積極的な楽団の関与と指揮者との協調作業でしか叶わない。それは上述した様に大楽団の中ではそうしたコンセプトは収束しないことでその関与する人数の問題だけでなく、平素からの演奏上の合意からしか生じないだろう。
偶々、指揮者も含めての打ち上げをビュルガースピタルのレストランの隣のテーブルでやっていたが、なんとなくの雰囲気では舞台上での方向性のようなものが、平素から組織的なあり方として出来上がっていると感じた。全然悪くない指揮者と今後もドイツでも聴くことになりそうなスオミの楽団であることは間違いない。想定外に価値のある演奏会だった。
Handel Fireworks Music Finnish Baroque Orchestra
Ferdinand Ries: Symphony no. 4 in F major, Op. 110
参照:
機会均等への社会的判断 2024-07-17 | マスメディア批評
すっきり爽やかな泡もの 2024-07-16 | ワイン
要するにヴェーバー共多くの共通性がみられるが、今回演奏されたのは断片から蘇生されたホルン協奏曲で、ストックホルムの王立劇場にいたフォゴッティストでお婿さんに当るプルマユールによっての編曲で知られていた。それを蘇生したのが演奏したホルニストのヒティーネンの奥さんの作曲家ヨハンナエレンコだとプログラムに詳しい。それがホルン協奏曲であったかどうかは、1810年のヒルシュフェルトの初演や1823年のシュトッツガルトの宮廷楽団での演奏を通して、確かだとしている。
しかし演奏の方はそれ程容易な曲ではないと感じた。そう少し様々な人が演奏するようになると違ってくるかもしれない。唐突で劇場的な曲想はこれまたヴェーバーとの親近性となっている。作曲家自身がヴェーバーのクラリネット協奏曲を演奏した記録は残っていないようだが、モーツァルトのそれは1802年の公開後に記録されているらしい。やはり、そこに浪漫派の新しい音楽の流れがクラリネットやファゴットやホルンなどから感じられる。
さて、最後にこのフェスティヴァルに欠かせないモーツァルトのジュピター交響曲である。この交響曲を最後に聞いた記憶はないのだが、ショルティ指揮シカゴ交響楽団が記憶に新しい。半世紀前の記憶である。大編成でのあれだけ透明な演奏を今後とも耳にすることはないと思う。
その後如何に真面に演奏されていないかであり、あまり聴くに及ばない価値しかもちえなかったのかもしれない。そこで今回の演奏はバロック楽団ということもあり、20世紀にはアーノンクールなどが頻繁に取り上げる前に奇異な録音として話題になったホグウッド指揮のそれを想起させるだけの演奏実践だった。ダイナミックスやリズムの扱いも特別な読み替え的な意味づけをすることなしに、とてもセンスが良かった。つまり20世紀後半の古楽器演奏によるサウンド的な新機軸ではない分、より作品の創作意思に迫るものであって、前世紀後半のメディア主導によるサウンドの時代の演奏実践が如何に不毛な時代であったかを改めて思い起こさせる。
既に言及したが、やはりこうした演奏実践は積極的な楽団の関与と指揮者との協調作業でしか叶わない。それは上述した様に大楽団の中ではそうしたコンセプトは収束しないことでその関与する人数の問題だけでなく、平素からの演奏上の合意からしか生じないだろう。
偶々、指揮者も含めての打ち上げをビュルガースピタルのレストランの隣のテーブルでやっていたが、なんとなくの雰囲気では舞台上での方向性のようなものが、平素から組織的なあり方として出来上がっていると感じた。全然悪くない指揮者と今後もドイツでも聴くことになりそうなスオミの楽団であることは間違いない。想定外に価値のある演奏会だった。
Handel Fireworks Music Finnish Baroque Orchestra
Ferdinand Ries: Symphony no. 4 in F major, Op. 110
参照:
機会均等への社会的判断 2024-07-17 | マスメディア批評
すっきり爽やかな泡もの 2024-07-16 | ワイン