運動したので眠くなった。早めの夕食で横になって一眠りした。ヴァイツェンビーア一杯でも効いた。眠たくなる天候でもあった。21時ごろに起き出して、若干片付けるものを片付けた。それでもお茶も飲むことなく、いつもの時刻にはまた眠くなった。夜中にトイレに立ったが、可也よく眠れた。
よく不眠などのことを聞くが、確かに自分自身も早朝に目が覚めた夏や窓を開けての頻尿の時期もあったのだが、基本運動することで不眠はありえない。就寝時刻と朝起きの問題とはまた別である。身体にある程度の負荷を掛けても眠くならない人がいたらなりたい。脳に負荷を掛けても同じ結果にはなるのだが、やはり緊張が勝って緩和するのが難しくなるのが身体への負荷とは異なる所である。そこからどうしても眼精疲労の問題を考えてしまう。
(承前)ギュンター・ヴァント指揮NDR交響楽団演奏のブルックナー交響曲五番の後半を流した。前半同様に良かったが、三楽章になると対位法的な扱いが指揮も追いつかず楽団も限界に突入するようになる。それはヴィオラの対旋律を強調して振ったりするので余計にその限界が明らかとなる。本当はもっと上手にバランスもとりたいのだろうが、どうしてもそのようになってしまうのだ。これは逆に明日期待されるものがはっきりしてくる。いつものように一楽章から上手に進めるだろうが、二楽章が先ずは完成しているだろう。勿論三楽章もフィナーレも成功する筈だが、重ねるごとにアメリカツアーへと進化してくるに違いない。
それにしてもこのヴァント指揮のフィナーレへのテムピの繋ぎ具合は見事で、その基本となるアゴーギクを規則的に処理しているからだろう。その反面、和声的には上手くいかないの技術だけではなく、読み込みに限界があるとはならないか。なによりも楽団が最早fffの音を出せなくなっているのにもその読みの欠如が察せられる。分からないことは出来ない、それは仕方がない。しかしこれをペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが上手に処理すれば、空前絶後の成功となって、その五番によって新たなブルックナールネッサンスが訪れるのではないかと思う。今から来週水曜日が待ち切れなくなって来ている。
その前にカラヤン指揮の録音を流した。一楽章で明らかで、八番の演奏よりも明白にその演奏ではこの曲の本質が分からない。対位法的な面白さも楽器間の受け渡しにもあるので、ただ単に和声的に繋げるだけでは意味がなく、そこに置いてあるアクセントをも無視していては作曲家の相違すらつかめない。その意思は八番のハース版の様に容易に誤魔化せない。カラヤンはザルツブルクというリンツにも遠くない街の出身であるが、それどころかカトリックである筈なのだが、ブルックナーの想いはこれでは全く無視されていることになる。ペトレンコは、恐らく独伝統的配置で左右にヴァイオリンを別けて、真ん中に低音と中音を響かせるのではないか。それでこそ対位法的な受け渡しが為される筈だ。
旅行に出かける前の最後のケーキをパン屋で購入した。ベリーとチェリーの二種類であるが、後者は独り立ちが難しい。ドイツのケーキとしてフォークが差し込んであるのが話題になるが、独り立ちできないものは最初から倒してしまうかフォークで支えるしかないのである。
参照:
涼しい森を想う夕刻 2024-08-22 | 生活
木霊する時の隆盛 2024-08-20 | 歴史・時事
よく不眠などのことを聞くが、確かに自分自身も早朝に目が覚めた夏や窓を開けての頻尿の時期もあったのだが、基本運動することで不眠はありえない。就寝時刻と朝起きの問題とはまた別である。身体にある程度の負荷を掛けても眠くならない人がいたらなりたい。脳に負荷を掛けても同じ結果にはなるのだが、やはり緊張が勝って緩和するのが難しくなるのが身体への負荷とは異なる所である。そこからどうしても眼精疲労の問題を考えてしまう。
(承前)ギュンター・ヴァント指揮NDR交響楽団演奏のブルックナー交響曲五番の後半を流した。前半同様に良かったが、三楽章になると対位法的な扱いが指揮も追いつかず楽団も限界に突入するようになる。それはヴィオラの対旋律を強調して振ったりするので余計にその限界が明らかとなる。本当はもっと上手にバランスもとりたいのだろうが、どうしてもそのようになってしまうのだ。これは逆に明日期待されるものがはっきりしてくる。いつものように一楽章から上手に進めるだろうが、二楽章が先ずは完成しているだろう。勿論三楽章もフィナーレも成功する筈だが、重ねるごとにアメリカツアーへと進化してくるに違いない。
それにしてもこのヴァント指揮のフィナーレへのテムピの繋ぎ具合は見事で、その基本となるアゴーギクを規則的に処理しているからだろう。その反面、和声的には上手くいかないの技術だけではなく、読み込みに限界があるとはならないか。なによりも楽団が最早fffの音を出せなくなっているのにもその読みの欠如が察せられる。分からないことは出来ない、それは仕方がない。しかしこれをペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが上手に処理すれば、空前絶後の成功となって、その五番によって新たなブルックナールネッサンスが訪れるのではないかと思う。今から来週水曜日が待ち切れなくなって来ている。
その前にカラヤン指揮の録音を流した。一楽章で明らかで、八番の演奏よりも明白にその演奏ではこの曲の本質が分からない。対位法的な面白さも楽器間の受け渡しにもあるので、ただ単に和声的に繋げるだけでは意味がなく、そこに置いてあるアクセントをも無視していては作曲家の相違すらつかめない。その意思は八番のハース版の様に容易に誤魔化せない。カラヤンはザルツブルクというリンツにも遠くない街の出身であるが、それどころかカトリックである筈なのだが、ブルックナーの想いはこれでは全く無視されていることになる。ペトレンコは、恐らく独伝統的配置で左右にヴァイオリンを別けて、真ん中に低音と中音を響かせるのではないか。それでこそ対位法的な受け渡しが為される筈だ。
旅行に出かける前の最後のケーキをパン屋で購入した。ベリーとチェリーの二種類であるが、後者は独り立ちが難しい。ドイツのケーキとしてフォークが差し込んであるのが話題になるが、独り立ちできないものは最初から倒してしまうかフォークで支えるしかないのである。
参照:
涼しい森を想う夕刻 2024-08-22 | 生活
木霊する時の隆盛 2024-08-20 | 歴史・時事