Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

肢体がスルッ鼻がプルン

2007-05-16 | 料理
お蔭様で、未だに飢餓地獄に落ちたことはない。それでも、今日の食事な様なものを口にせずに終わるような事があるならば、どんなにか不幸なことかと思う。煮汁ともども僅か三ユーロで、腹一杯に、この世で最も繊細な味を体験出来るのだ。

パリの三ツ星レストランであろうが、ザウマーゲンを絶賛するポールボキューズであろうが、これほどの味覚は創造出来ないのである。何千ユーロを一晩の食事に費やしてもこれほどの味覚を体験出来ないのである。哀れな守銭奴達よ、俗物達よ、精々、自ずからの感覚を騙して、つまらないものを有り難って貪りつきなさい。

塩コショウを溶かして塗すためのこの煮汁は、コラーゲンたっぷりで、一度暖めて置いておくと常温で直ぐにゼラチンとなってしまうほどである。本日は、鼻と頬の肉を特別に楽しむ。

塩コショウ以外に調味料など何も要らないのである。ただただ、豚肉の繊細な味に集中すると、それは殆ど官能の世界に至るのである。鼻のあの弾力、頬の霜降り、様々な食感を堪能出来るのだ。

正直に思う。調味料を多用する食事などは、食文化レヴェルが低いのである。美味いものには調味料などは要らない。

それに合わせて、現在市場に出ている2006年度産最高級の辛口リースリングを試す。これまた、フランス最高級のパフュームの微かな香りが、草生して蜂蜜の滴る花畑に漂う。謝肉祭湯豚に、これほど見事な飲み物があるだろうか?

しかしどんなに高級なリースリングワインにも引けをとらない、繊細で穏やかな味覚がこの料理である。この世にこれほどの味覚は無いのである。グルメの馬鹿者たちよ、求めるものこんなに身近にあるのだ。

このワイン、これまた一筋縄ではいかない。これほどまでに味の核が無いワインは珍しい。幾らその実体を捉えようとしても、するりと腕から逃れてしまう、透けたベールを裸体に絡ませたニンフの様なワインなのである。刻々とその姿は変容して、そのしなやかな肢体に触れようとすると、手元に残るのはその薄いベールのような羽衣だけなのである。

再び、燻らして鼻を近づけると、突然媚びたような色香を放つかと思うと、たちまち遠ざかり、どうしても掴みきれないのである。手元のグラスに永遠の憧憬を一身に吸収しながら、ますますこちらの歓心を煽り、官能へと誘うのである。どうしたものか?

その価格だけでは無く、このワインを見つけて買える労働者は居ない、しかし、この豚煮を器を持って煮汁ごと買いに行けない労働者も居ないのである。なにも特別に腹を空かして貪りつく必要も無い、市場価値とはそもそもこうしたものなのである。



参照:
そして鼻の穴が残った [ 料理 ] / 2005-08-04
風邪ひきの時の滋養 [ 料理 ] / 2007-02-07
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死んだ筈だよ、生きて..

2007-05-15 | 生活
シチリアに引き上げた兄貴が元気だと聞いた。三十八年間も働いて、弟のもとに軒を借りていた親仁である。マフィア以外に成功する仕事もない場所なのだろう。

数年前に急に白髪が増え老け込んだと思っていた矢先、重病だと弟から聞いた。弟は目に涙を溜めて、故郷に帰ったと話してくれた。勝手に末期の癌で死んだと思っていた。

一人者で、弟の子供、つまり姪などをあやし、弟と工場で働きながら、イタリアンアイス作りの名技を見せていた兄貴。何年居てもあまり流暢とは言えないドイツ語を話していた兄貴。白雪姫の棲家のような上階の丸い塔に住んでいた兄貴が生きていた。それも、妻を娶って元気に暮らしていた。

親や妹の住んでいる家の近くに、家を自分の手で建てて、車も二台所有していると言う。弟の言によると、貧しいが、仕事もせずに楽しく生活しているようだ。

なんと、結婚式は、兄貴の友人の神父の逹が連れ添って、都合七人の神父が居並び、300人近い臨席者の元、赤絨毯の長いロードが引かれて、盛大に催されたと言う。どうしてもその写真を見せて貰いたくなった。昨年の夏には、ドイツの弟の家を夫婦で訪れたらしい。一目会いたかったが、こちらは奴さん既に鬼籍に入っていると思っていた。弟に気の毒で、その「最後」を聞けなかったのだ。泣かれては困ると思って。

それにしても、吉報を聞けて嬉しく、宜しくと託けた。もう一人こちらにも、その親仁のアイスを食べに連れてだったセィニォール・インジュニーア(「魔の山」のセッテムブリーニのように発音しなければいけない)がいた。そのウノ・ピッコロが一昨年結婚した事を、弟に初めて伝えた。こうして、二人とも幸せな結婚生活を、遅れ馳せながら送っているのである。

誰がこの二つの物語に文句を付けようか?

ブレーメン州で、社会学の公式通り、議会の大連立与党政党が敗れた、特に第二位の与党CDUは、SPD以上に惨敗で、これも第二公式となっている。その分、緑の党を筆頭に中小政党が躍進して、特に左派党が西ドイツで初めて議席を獲得した。これで、燻っていたドイツ共産党の合法化への運動は根を断たれるだろう。また、社会民主党左派は、左から押し戻される事になるだろう。

これは、次回の連邦議会選挙を予兆しているのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人所有権と経済対価

2007-05-14 | 文化一般
ワインの試飲にダイデスハイムまで歩いた。運動不足で足を鍛えたかったのと、駐車スパースを探す煩わしさがあるからだ。

何度か歩いているが、時間を切って目的地を目指すのは初めてである。所要時間は、その距離感から見て良く心得ているが、どの辺りのワイン地所を通っていくかは、幾つかの選択がある。行きは予定到着時間が読み易いルートを採用する。

往きに見つけた石碑に、ドイツ屈指のワイン地所であるキルヘンシュトュックを時のスパイヤー大司教区管轄のダイデスハイムのスピタルからシュピンドラー家が取得した由が示してある。1556年2月26日のことであった。その名をヴィルヘルム、その妻マグダレーナと呼び、現在もシュピンドラーを名乗るワイン醸造所の一つである。

しかし、この地所の多くは、永く他の大手醸造所の手に落ちていて、その辛口リースリングで60ユーロ以上と最も高価なドイツワインとなっている。同時に、シュピンドラー家はその最も都合の悪そうな一角を使って、これまた良心的なワインを醸造している。

その石碑の絵柄は、創世記第9章のノアのワイン栽培を表わすようでもあり、上部は同じ創世記第19章のソドムとゴモラの町の門を叩くロトの様でもある。しかし、良く見ると光彩がついているようであり、この解釈は実に心もとない。あるいは、その石碑の内容から、旧約聖書列王記第21章にあるワイン地所の物語を思い出すかもしれない。

そこでは、イスラエル王アハブに、先祖代々のワイン地所を請われたノボトは、トラの掟に従って、王の対価によるオファーを断わり、石打で処刑される。法における個人の所有権と公共性が市場原理の中で問われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中庸な議会制民主主義

2007-05-13 | マスメディア批評
政治には疎く、それも日本のそれを殆ど知らない。否、すべては想定内で、その経済をも含めて、過去三十年ほど推移している。それでも欧州の政治文化との関連でトラックバックを頂くと、重い腰を上げてトニー・ブレアー辞任関連で目についていた記事などを読む事になる。そして読めば読むほど、政治学に関心を持つほど、外交や政治の実態や内情を知れば知るほど、それはつまらなくなるのである。

個人的には、1997年当時、普段は政治についてなど話さない比較的無口な英国女性が、ブレアーが人気ある事を力を込めて話してくれた記憶が、この新鮮な印象のギターを抱えた青年政治家の思い出である。

今回の記事で最も優れていた見出しは、「温かなサッチャリズム」ではなかったろうかと思う。労働党の政治家が党内の反発をも押し切って、片腕ブラウン財務相と共に、思い掛けない経済的成長を齎したその「第三の道」を指す。

鉄の宰相サッチャーによって潰された支持母体労働組合を再生させることもなく、また女史によって疎かにされた教育と保険システムを構築して、機会均等を目指した政治を指す。

その結果、ユーロ通貨統一に加盟することなく高いスターリングをものともせずに手頃なインフレと経済成長を英国に齎して、嘗ての重産業の失墜とは裏腹にロンドンバンクを中心とするサーヴィス産業を盛り上げ、今や金融部門でニューヨークを凌ぐとされる発祥の地に、往年の繁栄を取り戻したとされる。

それは、東欧からの出稼ぎ労働者を集め、最近それにブレーキをかけたとされる。それでも先日、近所の若いポーランドペアーが遅れ馳せながら英国へ旅立ったと聞くと、金利を上げたと言っても今でも泡銭が転がっているのだろう。その彼らが、実際の労働力を捨て置いて、端から東ドイツ並みの時間給を求めていたことを知ると、そうしたグローバル化が、労働賃金とその労働内容においての労働と報酬の不均衡を進め、何れはそれを破綻させる事を予想させる。

ブレアーの政策に戻れば、英国銀行の金融政策の独立化にその経済政策は表れていて、民営化を推し進める事で効率化を推し進めた。その一方、最低賃金の設置と失業保険と教育費の援助額は、英国の税を他国並みに高めたとされる。

こうした傾向は、政治的にはドイツのシュレーダー前首相の政策と共通していて、富の配分を目的とした市場原理政策で、サッチャリズムのライト・ヴァージョンと呼ばれる。シュレーダーを例に見れば、そのボナパリティズム的な政治手法と新たな都市層 ― つまり浮動票層であり、戦後の教育を受けた新市民中間層 ― の選択を容易にする、ポピュリスト的な政治家像を形作る。彼らは、経済政策のダイナミズムと安定した国予算と運営責任の明確化を織り交ぜて、選挙民にアピ-ルすると、「ザ・サード・ウェィ」の著者で社会学者のアンソニー・ギデンズは纏めているようだ。

これは、先頃のフランス大統領選の結果でも気がつく事象で、明快な責任をポリシーとして出せる候補が、こうした大多数の中間層の支持を集め、従来の組織化された階級からの集票力を圧倒することが出来る。

同時にこうした、現行の市場原理を利用した政治運営には限界もあり、― たとえそれが原理主義的なネオリベラリズムの台頭を法規制で押さえる事が出来たとしても ― 、英国では嘗て無いほどの子供の貧困を生み、社会の貧富の格差は開く一方で、また年金生活者の生活水準を下げている。英国の生活水準は、ドイツのそれを上回っているとされながらも、こうした弱者が多く存在して、尚且つ精神文化的に十分な成長が得られないとすれば問題は先送りとなるだろう。

現に、こうした政治風土は、英国の選挙制度の賜物と言うことであり、直接民主制とは一線を画する議会制民主主義は、少数のエリートと そ こ そ こ の大衆が存在して旨く行くシステムなのである。

米国のカリフォルニアなどから、公的保険制度の成立と強化が政治課題となっていると知ると、現行の経済と政治のシステムを採用し続ける限り、この「権利と秩序」を重んじる「第三の道」へと、政権交代を繰り返しながら限りなく近づいて収斂して行くのが、今後の西洋型民主主義の政治地図であるようだ。

トニー・ブレアーを寄宿舎学校の教師として、教師ブラウンとそのウエストミンスター然とした学校の教室を分ける、勿論、校長先生はブッシュ博士と言う風刺小説「アンソニー・ブレアー」がジョン・マリソン著で好評発売中である。



参照:
Warmer Thatcherismus von Klaus-Dieter Frankenberger,
Von Sozialismus keine Spur von Bettina Schulz,
Tony wie Maggie von Gina Thomas, FAZ vom 11.5.07
サルコジ批判票の行方 [ 女 ] / 2007-04-23
神をも恐れぬ決断の数々 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-22
批判的民主主義行動 [ マスメディア批評 ] / 2007-04-19
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煮ても焼いても喰う料理

2007-05-12 | 料理
ドイツ料理について幾つかのBLOG記事を読む。双方ともドイツ旅行中に体験した料理を扱っている。

一つは、豚のタタールを宿の朝食に見つけたという韓玄2号さんの記事である。ここでも都合三回ほど扱っているドイツ料理である。嘗ては、どこの肉屋でもレストランでも容易に入手して食する事が出来たが、最近はなかなか口に入らない。それは、精肉に関する法律が変わったからである。

これにする脂身のミンチ肉はもちろん新鮮でなければいけないが、さらに無菌でなければいけない。であるから、通常のミンチ肉と混ざる事は許されない。そのためには、ミンチ器などの道具の共用を禁止するようになったのがこの新しい法規であった。もちろん、いちいち殺菌掃除をすれば許されるのだが、これのための専用機を置く事が出来る肉屋は限られる。売値単価からしても、牛のタタールに比べて安いものであり、経済的に合わなくなったのが、この新しい法に基づく豚のタタールの準備行程である。

そのような理由で、これを目玉に提供するような場合しか、なかなかお目に掛からなくなったのである。

もう一つの記事は、レストランで食したアスパラガスが柔らかすぎ、さらに苦味があったとする緑家さんの記事のコメントである。先ずその歯ざわりであるが、確かに飲食店では、噛めないようなフォークで梳けるような柔らかさにするのがプロの調理法であると思う。それでいて、縦にナイフで切れるようなのを自慢としている筈だ。確かにそのように煮るのは少しコツがいる。その反対に、苦味は皮を綺麗に剥いていれば新鮮なアスパラガスからはありえない。恐らく上の場合は、皮の剥き方が十分でなかったのではないかと想像する。

兎に角、この食感の好みの相違は興味を引く。竹の子までとはいかないまでも繊維質の食感を楽しみたいのと、噛めないほどの柔らかさを求めるのでは正反対の好みであるからだ。基本的にはアスパラガスは、柔らかい方が美味いには違いないが、煮込み過ぎてぐしゃぐしゃになってしまうと美味くない。さくさくするようなのを楽しむには、白アスパラガスは緑のそれに比べてあまり適していないことも確かなのである。



参照:
王様の耳は豚の耳 [ 料理 ] / 2005-08-03
良いワインには良い料理 [ 試飲百景 ] / 2006-09-10
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワインの時の三位一体

2007-05-11 | 試飲百景
予備試飲、本試飲に続いて、再試飲を行う。

其々、2種類、13種類のリースリングを試飲したが、自らが先行投資として購入するためには、瓶詰め直後のワインの試飲ではなんとも心もとない。フィルターをかけて、ホースで給ワインをしてと、過激な状態を経て瓶詰めするので、その緩やかな結合はばらばらとなる。所謂ワインシックである。それから三週間ほどして市場に出されるのだが、それでも今ひとつ落ち着いていない。

そうしたワインの一つを、再試飲する。このワインは、去る土曜日に2002年産と2006年産を比較して本試飲した。その結果、前者は花の強いアロマが広がり、蜂蜜風の熟成がありながら、酸も後から効いて来ていた。と同時に、喉へと幾らか刺さる灰汁が気になり、後味を気にすると個人的にはあまり好ましくはなかった。それと殆ど糖度も変わらない2006年産は柔らかな当たりが酸へと引いて行く面白い味構成となっていて、大変にそそるのである。

その他、同じプリミエークリュクラスの二種類アルテンブルクとゲリュンペルを試飲したのであるが、どれもまだ出来上がっていないとは言っても、上のランゲンモルゲンが最も複雑でまだ開ききっていなくて成長を期待させてくれる。それでも、2006年のミネラル風味の高いややもすると水のようなワインは、年々温暖化からかリースリングの糖比重が高くなって重たくなる中で、ある種の清涼感が得られて嬉しい。これらを細身で将来性が少ないと言っても、五年程の賞味期限を設ければ ― あまりに美味いものを我慢して寝かしておくのはしばしば不可能である ― 効率の良い投資ではなかろうか?つまり、この自己賞味期限の設定から、購入本数が定まるのである。

さて、再試飲をマイスターと共に改めて行うと、これまたその年度比較を的確に示してくれる。そして2002年産の様な花園が現出するかどうかは実の所判らないとするのが正直な回答である。つまり、それが出て来れば良し、出なくても旨いうちに飲めれば良しとする意見である。

またしても、ここにワインは時の天恵、時の匠、時の至宝であることを確認するのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教皇無用論のアカデミスト

2007-05-10 | マスメディア批評
読まなければいけない本がまた増えている。期限があるものは積読している余裕が無い。何れはここで紹介するが、一気に読めるものであるから、それほど気にならない。せいぜい、支払いを振り込むまでには読み始めよう。

さて、先日の書「ナザレのイエス」の新たな批評を目にした。評者のカール・ハインツ・オーリック教授は、イスラムの歴史の研究家でもあるカトリック神学者で、そこではムハメッドとはもともとイエス・キリストを指して、三位一体を否定したアラブの運動を示したとする。この神学者は、また「ムハメッドの言葉自体は、預言者に対して既に使われていた用語」としている。

さらに、この教授は進化論と創世説を融合する理論を掲げているようで、ビックバンを神の徴としているところが、先日死去したフォン・ヴァイツゼッカー教授の現代物理信仰と一対をなしているようで面白い。

予想通り、この評者は、この新著「ナザレのイエス」をその 教 授 の 科 学 ― 子供の科学ではない ― から批判する。冗談はさておき、オーリックはラッツィンガーが宣言した「正典解析」の米国風パズルの矛盾を突く。何よりも、第一章の「イエスの洗礼」に、未だに執筆されていない第二部の内容が表明されているとする。

つまり、ラッツィンガーは、十字架のキリストを以って成就して救済されるとする「ラテン神学者」であるにも拘らずその視点は後年のものであると指摘する。そして、キリストの死後40年から60年後に書かれたとする共観福音書が書かれた時代や由来や寄せ集め編纂過程の歴史的事実を挙げて、旧約聖書申命記にまで遡るパズルが成立する神学的根拠が無いとする。つまり、中世におけるアレゴリーを先取りした解釈を指摘する一方、ヨハネ福音書や手紙に見る、解釈学的にヘレニズムの影響を受けた解釈との矛盾を挙げる。

その視点こそが、まさにレーゲンスブルクでの問題講演の内容であると評者は指摘するが、我々読者はこの宗教者のその「今日の視点」が無ければ、このような「宗教的視点」にはそもそも興味が無いのである。この評者が、如何に我々の視点とは違うアカデミニズムに立脚しているかがこれで知れる。

さらに、文化化した神学の行く先が、それがシリア化にしろ、アフリカ化にしろ、インド化にしろ、とどのつまり科学的歴史的なイエス像に回答を出さないと、否定的な弁証法を採って、「ラッツィンガーは因果関係を無視している」と批判する。そして、歴史とその源泉の状況を調べるのは、ただ科学の仕事であって、もしその成果である歴史にたとえ誤りがあろうが、必ずや科学的証明可能な修正を通して、可能となるべきと主張する。ウイキには、この教授をしてマルクス主義的神学者とあったが、そのもの昨今流行の修正史観主義者の言動のようで可笑しい。

もう一つ反論として挙がるのが、共観福音書の編集者やその共同体、また何百年もの後も地中海からインドにかけてのキリスト教においては、イエスは神に選ばれた人間として観られていて、三位一体や二位自然重体のドグマは無かったとすることから、初めてイエス像への畏敬の念が歴史的にも源泉として形作けられるとする。

そしてそのような歴史的なイエスが何を齎したかを考えると、今日も成就されない世界平和を願うラッツィンガーの希望を持った意図をそこに見て、それは科学では到底致しかたがない事象としてこの批評を結ぶ。

我々読者が興味を持つのは、その事象の解析と定義でしかないのである。



参照:因子分析による共観福音書問題の解析(PDF)、統計数理研究所
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狙い定まらぬ小さな狩人

2007-05-09 | 
ドイツ料理には、狩人を名乗るものがある。

有名なものでは、なんと言ってもイェーガー・シュニッツェルと呼ばれるとんかつに茸ソースをかけたものであろう。それに似たものに、イェーガー・ステーキと呼ばれる衣をつけずない焼肉がある。

もともとは、狩人が山に入るときに、大釜だけを携えて、それを火にかけて、調達した茸と肉を一緒に焼いて塩胡椒したものを指す。

昼食時にこれの後者の半分の大きさの皿を注文した。食前のお通しにニンニク味のラードをつけてパンを摘む。森の中ではないので、前菜としてサラダが、給仕の若い子によって運ばれる。ワインで唇を湿らしながら、一挙に食欲を増進させる。

いよいよ、メインの皿とポメスが山盛りになった皿が運ばれる。運んで来た親仁は、「小さな狩人で」と目の前に置き、いつもの調子でこちらの顔色をちっらと見る。「いやはや、小さな狩人」。

満足して食べ終わってから、給仕の女の子に支払い計算の正しい数字を教えてやると、背中を向けて新聞を読んでいた親仁が、急に首をこちらの方へと曲げて、聞き耳を立てる。

「親仁さん、判ってますよ、確かに、私は給仕の女の子にいつもちょっかいを出しています。そう、あなたもご存知の通りです。ただの狙いが定まらぬ小さな狩人ですよ」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好みに主観は存在しない

2007-05-08 | 試飲百景
リースリングワインの試飲が相継いだ。それをグラスに注ぐと、ケミカルをフラスコに入れて判定を下すような気持ちになる。気持ちは殆どケミストである。その黄緑色を帯びた液体を振ると匂いを放つ。それは、今までの液体とは異なる経年変化する、複雑な化学構成をもった対象物となるのである。

日本からのお客様は、ワイン街道を経ちモーゼル方面へと元気に別れを告げた。12時間の空の旅を経て、フランクフルト空港からこちらへと直接来られた。生憎、当晩は数日前の夏日和も終りへと傾き、雲が出る天候となり、ガーデンでの食事なども些か肌寒いものとなる。ワイン醸造所の樽だしレストランが、オーナーの兄の醸造所のオーナーと仲違いしていた事は聞いていたが、まさか醸造所のワインを出さなくなっていたとは気が付かなかった。兄弟喧嘩は、両件にとって間違いなく損失である。

明くる日は、早朝からワインの試飲を始める。三件廻る計画もあって、また午後には用事があって、すべて吐き出すことにしたが、旅の方には厳しい試飲の日々となった事はお詫びしなければいけない。

五日間に七件以上のボルドーワインを試飲したギネスブック並みの経験からその厳しさは知っていた積りであるが、ついつい鬼道場主のような計画を立ててしまうのである。デート計画も連れ回したがりで、悪気は無いのだが、欲張りの性格がどうしてもこのようになるのである。それにも拘らず、体調を大きく壊されることも無く、予定の主要プログラムを略こなして頂いた。

ざっと一望すると、二日間で四件の醸造所で、五十種類ほどの2006年産の辛口のリースリングワインを中心に試飲する。個別には改めて書くべきと思われるが、印象に残った点を振り返ってみる。

普段は吐き出さずに飲んで試飲する事が多いが、今回のように吐き出すと数を試しても酔わないのは流石に大きく異なる。酔わないと言うことは、判断の冷静に出来て、それほど前後の試飲の印象が変わらない、何よりも酸で唇や口内が荒れるだけで、胃には来ない。それでも昼食にワインを飲んだりすると、どうしても内臓に堪える。

用事を済ませて夜遅くまで食事を取り、翌日も引き続き試飲を繰り返す。しかしその時点でも、口の粘膜は本調子ではないが、昨日の記憶も比較的しっかりしていた。特に夕食に、ロースのビフテキを食べたのが良かった。赤ワインとビーフとアスバラガスを焼いたものはなかなか良い食事である。更に2002年産?グランクリュリースリングを別けて飲むと、チップを入れて39ユーロと、ここ何年も支出した事の無い高価な食事代となったが、肉の硬さを除いては十分に満足出来る物であった。

前日お昼の焼き鱒に、玄武岩土壌味の2006年産リースリングワインもなかなかおつで、蔵出しレストランの醸造所のご主人に、その出来具合を褒めた。天気が良くて、ああして戸外で食べれるとこれ以上何も言うことは無いのである。

全種類の三分の一ほどのワインは、ここ数週間に試飲したことのあるものであったが、その瓶詰め直後の印象とは大きく異なるものも少なくはなかった。瓶詰め直後は物理的なストレスがあるので、ワインシックのように落ち着くには時間が必要となる。それだけでなく、既に熟成を始めているのである。そうした観点から、試飲は主観客観以上に経年変化の振幅が大きいと知るのである。

また、味の質と言うものは、香りから始めて、唇に触れ、丸められた舌の上に乗せられて上唇の裏側に触れて、丸められた唇から空気をチュルチュル・クチュクチュと吸い込んで、ワインが混ぜられた所で、上顎の粘膜に触れて、上から奥へとワインが送られる事で、様々な味が広がり、下顎裏側から奥へと送られて、歯の裏側まで回されて、始めて判るのである。

こうした試飲でなくとも、ワインを味わうと言うのは、時系軸で切る事で、分析的に評価できる。どのワインが好みかは、このバランスを重視すると同時に、どうしても拘る要素が時系軸で区切られたどの一事象であるかである。

好みも時系軸で切られ、その出来も時系軸で切られるとなると、主観客観は殆ど存在し無いことになるがどうだろう?その時系軸を切るものが、気候やライフスタイルを指す環境なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四苦八苦する知識人

2007-05-07 | 文学・思想
フランス大統領選の成り行きには興味がある。サルコジ候補が学生市民運動である68年闘争の否定を最後まで強調してそれを掲げて、社会党に「あれがなければ、二世のサルコジも大統領になる事も無ければ、女性大統領もありえない」と矛盾を突かせる。またフランスの植民地主義に根を持つ戦中戦後への懐疑に終止符を打って、一気に駒を進めようとする姿勢は知識人の顰蹙を買っている様である。

確かにあの世代から若い世代への交代時期には違いない。しかし皆が興味あるのは、本当はグローバル化の中での自己保存であり、如何に民主的な自由主義体制を 進 め る かにあるのだろう。しかし、それでは政治として選挙に勝てないと言う鉄則があるようだ。

その政治体制も、先日亡くなった歴史家ルネ・レモンの説によれば、上からの調整を善しとする強引なボナパリティズムと言われるものから、王の分家をオルレアンを名に冠する人権尊重の派閥、そして王権神授の王制をモットーとする三派をここ二百年間に渡るフランス保守の伝統とするらしい。

その点からすると、新自由主義と国益を重視しながら、市場原理主義を担う68年運動世代を批判して、更なる前進を目指すとするサルコジ候補が、来る総選挙で国会の支持を固めると、かなり強権な体制が出来るのだろう。しかし、それで国内外巧く行くとは誰も思わない。最も弱者に圧し掛かる社会の不安定要素を、本当に取り除く事が出来るのか?

しかし、遵法と違法の後者をして、自由と呼ぶ思想がフランスにはあるようだ。「最小限度の遵法可能となる規制」を善しとするリベラリストのミッシェル・オンフレーは、サルコジとの対談で、「権威があって、規範がある。それが無い所では違法行為も無くて、自由も無い。違法は自由だ。」と述べている。そうした土壌での安定要素とは何なのか?

反対に知識人にはロワイヤル女史の人気は、依然として高いようである。そしてTV討論会での彼女のファッションや仕草や態度が多く話題となっているようである。立て襟のブラウスとTVでは終始隠されていた上着と同じ黒色スカートのモノトーンアンサンブル、そしてメーキャップや装飾品の無い男装気味の井出達に、親子の軋轢として有名な父親の士官服をイメージした人が多い。

その点からも、フィリップ・ソレルスの様に彼女を「洗練されたフランス女性」と賛美する者がいる一方、彼女はフランス人の小母となって、子供達を監視するとする観方もある。そして、それは彼女の生い立ちへと遡り、共和国の時代逆行を余儀なくするとされる。

何れにせよ、基本姿勢に反全体主義と混合の新哲学を観て、ミッテランやシラクのオーラの終りと、共産主義に続くネオファシズムの没落をこの選挙に見るようだ。

しかし、如何に上手に説明を試みても、このような複雑な構造になるので、それらはイデオロギーとしての真価を失っているようで、選挙戦ではそれを解りやすく二律背反させるために四苦八苦としなければいけなかったのだろう。もしかすると、第六共和制と耳にするような共和国制度以上に選挙の方法自体が、実態に追いついていないのかもしれない。

今晩の選挙開票が楽しみである。


サルコジ氏が勝利した。ロワイヤル女史への賛辞とその支持者への尊重から始めて、移住者や地中海連合構想や環境問題など敗北者の声をも代弁した。問題の地区ではゴミ箱などが燃やされたというが、現時点では平静である。ならず者を押さえ込んで来た前内務大臣の業績だろうか。

52%が税金を納めていないと言う低所得層の増大を、失業対策や税無し時間外労働で埋め合わせて行く事が出来るのだろうか?富豪層と底辺層の社会格差は思いの外大きい。

フランスには日産ルノーのヴェルサティしか高級車が無い。二輪車のパパラッチのTVカメラに手を振り呼びかけながら、窓を開けて若い嫁さんを横に走るサルコジ次期大統領が新鮮な風を送り込む。

就任後直ぐの訪問先ベルリンでメルケル首相との会談に挑み、ブリュッセルへと廻る。つい先頃シラク首相の親称で呼びあった別離の公式式典を終えたメルケルは、新しいフランス大統領と同様な関係を構築するべく会談に挑む。

さてサルコジ大統領がワイン街道のハムバッハー城を訪れるのは何時になるだろうか?

ロワイヤル女史の敗北宣言にあるように、この成果を引き続き活かして、今後は中道との連結を強化して行くのだろう。



参照:
ここにいたか、売国奴よ! [ 歴史・時事 ] / 2007-01-17
"Ségolène ist so schön reffiniert" von Jürg Altwegg, FAZ. vom 5.5.2007
民主主義の政治モラル [ 女 ] / 2007-05-05
東部前線での選挙動向 [ 歴史・時事 ] / 2007-04-25
サルコジ批判票の行方 [ 女 ] / 2007-04-23
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本試飲に備え予備試飲

2007-05-06 | 試飲百景
土曜日11時からのワイン試飲の予備試飲をする。予想に違わず大変興味深かった。

一つは、瓶詰め直後の事もあってか酵母臭が出ていたが、大変コンパクトで面白いと思わせる。その全く閉じた蕾の様な味覚が、どうにも関心をそそるのである。これは、ゲストには判断が難しいかもしれないが、金曜日に他のワインを試飲する内に、これがお互いに認識出来るようになるのではないかと思っている。つまり、味の説明が難しいだけでなく、評価は更に難しいのである。道理で、作った者が一緒に試飲して、感想を聞きたいと言っていたのが理解出来た。謂わば、三ヵ月後の発展すら予想がつかないほどの可能性があるのだ。

もう一つは、2005年産の物に比べて、本格的な辛口になっていて好ましい。これは砂地のような土地で栽培されているリースリングなので、その酸がストレートに出る。こちらの方は、今現在でも特徴に満ち溢れているが、香りなどは珍しくまだ出ていない。それでも、これは辛口リースリング愛好家には勧め易い。

さて、土曜日の本試飲の結果はどうなるのか?また、他の醸造所の同クラスのワインをこれと比較して、適当なアドヴァイスをする事が出来るだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義の政治モラル

2007-05-05 | 
火曜の晩、フランス大統領選TV討論会を観た。同時通訳のものを始めから30分後位してから、その後二時間以上観た。討論が終わったのは、11時40分ほどであった。

経済、労働、税の問題から、環境、年金・保険、教育、政治システムなどに仔細に討議された。司会者が余り口を挟まないのが特徴のようで、それでも二分ほどだけ攻めのロワイヤル女史が多く喋り、それを護りのサルコジ氏は構わないと認めた。

その主張の内容の「真実と嘘」は全く判らないのだが、基本姿勢は十二分に示せたに違いない。特にこの二人の政治姿勢の違いは顕著であった。

具象性に欠ける感のある女史が、ライヴァルの政策領域に踏み込み、また反対にサルコジが女性候補の信頼を失墜させようとした戦略は良く見えて、ドラマとしてのハイライトは、障害者教育問題に持ち越され、これが女史の強みを見せたか弱みを見せたのかは、聴視者の気質によって別れるのではないだろうか?

同時通訳の影響もあってか、サルコジの印象は大変悪かった。特に、誰もが普通教育の包容力を期待しながらも特別な早期教育の必要性を知っている障害者教育を、あれだけいとも簡単に特別教育の価値を切り捨ててしまう態度は、女史が怒る「モラル無き政治」に相違無い。

「目に涙する」とする状況をサルコジは突くが、政治とは実はこうした情動的なものであるとされているのではないだろうか?「怒っているだけで、正気を失っていませんよ」と言う女史の態度の方が、指導者に相応しいと思うがどうだろう?

北京オリンピックをボイコットぐらいの圧力も必要とする女史は、中国旅行を経験として示しながら、それでも司法制度に強く懐疑を示すのは当然であろう。一方、トルコを小アジアの立派な偉大な国として慇懃に持ち上げておきながら、イラクと国境を接するような欧州には絶対出来無いとするサルコジの主張は、サルコジを支持するバイエルンのシュトイバー首相でも発言しない理不尽な口調でこれには非常に呆れる。

その反面、仔細な議論の方法は、フランス文化らしくて、ドイツでは今やここまでイデオロギーをぶつかり合わすことはない。シュレーダーとメルケルの討論会は、イデオロギーをちらつかせたメルケルでは無く明らかにシュレーダーの勝利であったが、それは各々の政治姿勢が評価されたと言うよりも、指導者としての器量が判断された。しかし直接投票では無かったので、結局討論会で負けた方が女性首相となったが、それはそれでそのイデオロギーとは殆ど関係の無い大連立の調整役として上手に機能している。

それに比較して、今回はより基本の政治姿勢であるイデオロギーが前面に出ている。消費購買力を財政の基礎に置くサルコジに対して、公正な社会と労働力の再生を基礎に置くどちらもあまり現実的ではないとしか思われない。だから女史のように、大統領権限に対して国会の権力を強化する改正を主張しているのだろう。いづれにしても、EU経済圏内でその国家財政は厳しく監視される。

しかしキャピタルゲイン税や相続税などを使って、自由主義社会を容易に引き締めようとする社会党が、また教育の画一化と最低賃金付きの短い労働時間を主張するのに対して ― また京都議定書を満たさない国の製品をボイコットするのも良かろう ― 、サルコジ側が示すネオコンサヴァティヴな主張の対極化は、本当により良い議論の方法なのだろうか?ディベートと言われるただの技術的な方法でしかないのではないか?

「TVを観た視聴者は民主主義を習えた」とも評価される討論会であったが、対話よりも強引な方法を主張するサルコジ候補が勝利するならば、その評価には賛成できない。



参照:
EUROPE1
四苦八苦する知識人 [ 文学・思想 ] / 2007-05-07
東部前線での選挙動向 [ 歴史・時事 ] / 2007-04-25
サルコジ批判票の行方 [ 女 ] / 2007-04-23
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月の終りから五月へと

2007-05-04 | 
先日、夜中に電話が鳴った。夢の中で、夜中の二時三時だと思われた。暫らくして鳴り止んだ。深い眠りに居たので、そのまま続いて再び深い眠りへと戻って行った。

尋ねても、思い当たる節も無かった。一般的に真夜中の電話は良い知らせとは思わない。本日、近所の一人暮らしの老人に会った。心臓発作に見舞われて、夜中に病院へと車を走らせたという。

あの夜中の電話の主だった様子だ。数年前までは自転車で走り回っていたが、流石に最近は年を取った様子で、気にはかけていたのだが、終にやって来たかという感がある。

明日より三週間は、養生にサナトリウムへ入るという。聞く様子からそれほど酷くはなさそうであるが、流石に顔色は良くなかった。心臓をやられると誰でも最も死を意識させられるようである。

駆けつけている妹さんに紹介された。どうしても一人暮らしの心細さがあるのだろう。

メーデーには、いつもの様にが立てられた。90キログラムの丸太を町の裏道から運んで来て、11時の教会の鐘が鳴り止んでから、掛け声もアナウンスも無しに、それを一気に立てた。これは、生命力を意味するのだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

客観的評価を求めて

2007-05-03 | 試飲百景
来る木曜日に、日本からワイン街道にお客さんがみえる。コメント欄でもお馴染みの緑家さんである。BLOGでの交流から三月ほどで、お会いすることになる。ネットでの切っ掛けから対面した人は既に一名居り、またそれとは関係無しに未知の方をアテンドするのは嘗て頻繁に行っていた。

それは、勤め先や・職種などが分かっているビジネス上の人々であったが、全て研究所や現場で従事する人で、一般社会からは少し離れた人が多かった。むしろ、商業的な社交をしない人が殆どで、こちらもそれに違いないので、全く問題は無く、専門的な知識や現場の問題を知ることが出来てなかなか勉強になった。

さて今回は、所詮趣味の世界とは言っても、ワインの試飲を通して、遥かに内容が濃くなる。上記のような技術的な面でも自己を含めての他人の対象への理解度を察するのは最も重要な要素であったが、それと比較してワインの嗜好は遥かに複雑なのである。

自然科学や芸術や文学などに比べても、この世界は正否が存在しない。不味ければそれまでなのである。人が不味いものを美味しいに違いないとは言えない。そして、精々こちらが美味いと思っていることを説明することしか出来ない。しかし、相手が不味いと思うことを無視する事は出来ないのである。その逆も同様である。

ワインに話を絞っても、その享受の仕方や、食生活、ライフスタイル、気候、文化的な背景 ― 感覚から想起するイメージ ― の相違に加えて、それらから影響を受けている感覚と呼ばれるセンサーの機能が個人的に異なるのを認知するのがこうした交流の前提条件とすることができる。

要するに、そうした差異を強調するまでも無く、差異を確認して行く作業が、特に今回のようにその嗜好の傾向の差が比較的小さいとBLOGの記事で十分に確認されているので、通常以上に繊細を極めそうである。反対に、勘違いや思い込みも有り得るので、そうしたものを表面化するのも楽しみなのである。

要は、「俗に言われる客観的評価とか、評価基準とか呼ばれるものは、感じるものは皆同じとする楽天気質と何一つ変わらない」ことを言いたいのである。つまり、基準を拵えているのは、その主観が含まれる文化であって、これは主観が気がつかない内に偏向しているのが当然であり、最も客観から遠い。だからこそ、その偏向を見極めることこそが重要となる。

例えば、こうした試飲の場合、他の嗜好が観察出来るのと同じく、自己の嗜好も評価することが出来るのである。そうした目的から、些細な相違でも注意深く抽出することが肝要である。

そして、可能な限り自己の主観から対象に迫り、それを出来る限り正しく伝わるように如何に客観的に表現することが出来るかに掛かっている。これは、なんらかの制作品の受け手だけでなく、作り手においても同じで、受け手の反応こそ最も大切な判断対象なのである。

だから、書いたり表現したりしたもので何が伝わっているのか、それともいないのか、こちらからと同じように先方からの誤解は無いのかなどが、一同に会して意見を交換して、他者の上に投影することで、より深く判断出来るのである。謂わば、隠していたポーカーのカードを一斉にテーブルに広げるような感じなのである。

月曜に用件を兼ねて、醸造所で三種類のワインの試飲をした。三月七日に参加した試飲会と同じものとまた違うものを試飲出来た。その時の評価を覆すほどにワインは成長していたのである。これだけをみても如何に点数システムと言う評価方法が役に立たないか判るであろう。

先ず、二月ほど前には樽出し試飲であったウンゲホイヤーキャビネットが瓶詰めされて販売されていた。これは流石に素晴らしく、この土壌の重く重厚になり易い傾向を避けて、芯が通ったまるでストディヴァリの音質の様に、引き締まっているのである。このビスマルクが名付けたと言われる地所から、意外に出ないほどの質の高さを感じた。潜在力を感じた前回の試飲が正しかったことが証明された。

二本目には、ライターパァードを試した。この土壌は、雑食砂岩の特徴が出るとされるが、今現在その青リンゴの香りは最高である。これほどこの地所が印象に残ったことは嘗てなかった。

三本目にヘアゴットザッカーを試飲したかったのだが、丁度切れていて、来週ぐらいに新たな樽から瓶詰めされるようであった。またの試飲を楽しみにして、その代わりにお勧めのホーヘンブルクを飲ませて貰う。これも前回は炭酸が抜けていなくて否定的であったが、酵母臭さが残っているとはいえ、何よりもマイスターの繊細さが出ている。ミネラル風味が素晴らしいが、口蓋上部に残る白檀のような香りとイチゴのような酸は清々しい。

こうしてワインなどは、対象も変化するので、一定の客観的基準など役に立たないのが理解出来ると思う。実は、こうした困難性は多くの批判対象に対して成り立つ摂理でもあるのだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近代物理教の使徒の死

2007-05-02 | 文化一般
カール・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツゼッカー教授が土曜日にシュタルンベルガーゼーの自宅で亡くなったようだ。丁度「ナザレのイエス」を読んでいたので、その訃報を知って偶然と思った。

有名な大統領リヒャルトの兄で、自らも大統領候補に推薦されたドイツで最も有名な物理学教授であった。同時に嘗ては第三帝国のウランプロジェクトのメンバーでもあった。

特に大物理学者のハイゼンベルクとの関係は、この教授の肩書きにいつも添えられる。訃報の記事を読むと、コペンハーゲンで知り合って、哲学ではなく物理学の道へと勧められたとあり、その後ライプチッヒの大学で弟子となっている。また、ノーベル賞受賞のハンス・ベーテの太陽の核反応エネルギーの証明へのアイデアは、12歳の時の天体観察にあったと言うから面白い。

第三帝国下でのプロジェクト参加は、核分裂炉の研究で、核爆弾へのものではなかったとしているが、未だに議論の余地があるとされる。また、後年はシュタルンベルガーゼーのマックスプランク研究所のハーバーマス教授と、学生紛争や反核戦争運動に関わっている。

また、マルティン・ブーバーの「何を履行するか、何を行うか宣言しない限り、非合理な事への公的な要請は作用しない」とする研究者と政治の関係を基礎に、政治的啓発運動を行っている。その反面、その影で70年代には自宅の地下に核シャルターを作らせていたことはスキャンダル以外の何物でもなかったであろう。

最近までもラジオ等でこの老教授の話が流れることがあったが、その神秘主義的宇宙観を除いて、あまり興味の無い人物像であったことは偽らざる感想である。この訃報記事にもあるように、1966年の物理学会議で量子力学原理主義的世界観を提示して、同僚を煙に撒き、この哲学者は非難されたとある。

こうした物理原理主義が、あまりに非科学的なことは断わるまでもないが、初期の研究内容を除くと、想像するに後年のものの論文内容を調べると、どうにも批判せざるを得ないものであるに違いない。

それでも、老学者が最後にミュンヘンの弟子を訪ねた折り、「太陽のことより、物理学と言うものを一望したこと、これこそが私の最も重要な業績だ」と語り、「物理無き所に、政治なし、倫理なし」とぶちあげたらしい。そして、東洋の人生訓に従って、電気も電話も無い草原の小屋暮らしを愛する清貧の生活感を持っていたと言う。

まさに、これは、構造主義的に境界を取り払った自然科学の精神科学化であったのだろう。



参照:
ナザレのイエスを注文 [ 文学・思想 ] / 2007-04-22
皇帝のモハメッド批判 [ 文化一般 ] / 2006-09-16
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする