左から輪を持ったアレクサンドリアのカタリーナ、本を携えたヨハネス、マリアとニコメディアのバルバラが十字架を囲んでいる。1431年に作られた石像で、地所の名からグラインの像と呼ばれる。シュパイヤーの大司教区の管轄地であるダイデスハイムの歴史的記念物である。
14護神の聖人とされるカタリーナは、マクセティウス皇帝時世に轢死刑を受けるとその車輪を壊し、最後は首を撥ねられたとされる。言語障害における守護神とされる。同じくバルバラは、自らの父親に攻めを受けて首を撥ねられたとされ、雷や火事に対して、探鉱、建築、鍛冶、砲兵、地質関連の守護神とされる。
マリアはさておいて、その後の初期キリスト教を考えるとき、ヨハネは重要である。その福音書や予言等で有名なここに具象されているその福音記者に、ヨゼフ・ラッツィンガー博士は、新著「ナザレのイエス」の中で、光を当てている。
なによりも一体誰がこの四つ目の福音書を編み出したのか?と大きな疑問を紐解いて行く。そこで、前世紀の後半の研究成果である、ルドルフ・ブルトマンの「この福音書は旧約聖書やユダヤ社会よりもグノーシス的な内容となっている」とする見解を挙げ、ヘロデ王時世の上流階級のヘレニズムの教養からこの編者を吟味する。
― さてシモン・ペトロスともう一人の弟子は、イエススについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエススと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入って行ったが、―
特にこの18章15のそのもう一人の弟子に注目して、その正体に迫る。そして主題である、一体編者は?を答えるに、この福音書の受難書としての性格から、19章35における「目撃した者」がこの弟子であり十字架の前に立っていた事を振り返る。
― その弟子が、イエススの胸元に寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですかと」と尋ねると、―
― いまだにかつて、神を見た人はいない。父のもとにいる独り子であるイエスス・キリスト、この方が神を示したのである。―
つまり、この証言こそが洗足の事象を掘り下げて、さらに13章25にあるような胸元により掛かる弟子の様子が、1章18が「胸元」となって対応しているのだとする。その福音家は、イエスが神の子であるように、イエスの傍にあるとしている。
それでは、この弟子は一体誰なのか?ヨハネについては隠されている。預言者と福音家もこれに近いにも拘らずなぞのままである。そこから、ウルリッヒ・ヴィルケンスの「最も愛されている弟子は、史的な人物像では無く、信仰の構造である」とする見解と反対に、それを具体的な証人とするとすべての福音書は無に帰すとする。
そして興味ある事にフランス人の研究から、長男が客の右に座り、胸に頭を埋めるのがユダヤ人の習慣であったと言う。そして、これらをすべて見たとする事から、ヨハネスクールと言うものの存在を考え、そこから長老ヨハネと言う存在を演繹する。(続く)
14護神の聖人とされるカタリーナは、マクセティウス皇帝時世に轢死刑を受けるとその車輪を壊し、最後は首を撥ねられたとされる。言語障害における守護神とされる。同じくバルバラは、自らの父親に攻めを受けて首を撥ねられたとされ、雷や火事に対して、探鉱、建築、鍛冶、砲兵、地質関連の守護神とされる。
マリアはさておいて、その後の初期キリスト教を考えるとき、ヨハネは重要である。その福音書や予言等で有名なここに具象されているその福音記者に、ヨゼフ・ラッツィンガー博士は、新著「ナザレのイエス」の中で、光を当てている。
なによりも一体誰がこの四つ目の福音書を編み出したのか?と大きな疑問を紐解いて行く。そこで、前世紀の後半の研究成果である、ルドルフ・ブルトマンの「この福音書は旧約聖書やユダヤ社会よりもグノーシス的な内容となっている」とする見解を挙げ、ヘロデ王時世の上流階級のヘレニズムの教養からこの編者を吟味する。
― さてシモン・ペトロスともう一人の弟子は、イエススについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエススと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入って行ったが、―
特にこの18章15のそのもう一人の弟子に注目して、その正体に迫る。そして主題である、一体編者は?を答えるに、この福音書の受難書としての性格から、19章35における「目撃した者」がこの弟子であり十字架の前に立っていた事を振り返る。
― その弟子が、イエススの胸元に寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですかと」と尋ねると、―
― いまだにかつて、神を見た人はいない。父のもとにいる独り子であるイエスス・キリスト、この方が神を示したのである。―
つまり、この証言こそが洗足の事象を掘り下げて、さらに13章25にあるような胸元により掛かる弟子の様子が、1章18が「胸元」となって対応しているのだとする。その福音家は、イエスが神の子であるように、イエスの傍にあるとしている。
それでは、この弟子は一体誰なのか?ヨハネについては隠されている。預言者と福音家もこれに近いにも拘らずなぞのままである。そこから、ウルリッヒ・ヴィルケンスの「最も愛されている弟子は、史的な人物像では無く、信仰の構造である」とする見解と反対に、それを具体的な証人とするとすべての福音書は無に帰すとする。
そして興味ある事にフランス人の研究から、長男が客の右に座り、胸に頭を埋めるのがユダヤ人の習慣であったと言う。そして、これらをすべて見たとする事から、ヨハネスクールと言うものの存在を考え、そこから長老ヨハネと言う存在を演繹する。(続く)