Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

客観的評価を求めて

2007-05-03 | 試飲百景
来る木曜日に、日本からワイン街道にお客さんがみえる。コメント欄でもお馴染みの緑家さんである。BLOGでの交流から三月ほどで、お会いすることになる。ネットでの切っ掛けから対面した人は既に一名居り、またそれとは関係無しに未知の方をアテンドするのは嘗て頻繁に行っていた。

それは、勤め先や・職種などが分かっているビジネス上の人々であったが、全て研究所や現場で従事する人で、一般社会からは少し離れた人が多かった。むしろ、商業的な社交をしない人が殆どで、こちらもそれに違いないので、全く問題は無く、専門的な知識や現場の問題を知ることが出来てなかなか勉強になった。

さて今回は、所詮趣味の世界とは言っても、ワインの試飲を通して、遥かに内容が濃くなる。上記のような技術的な面でも自己を含めての他人の対象への理解度を察するのは最も重要な要素であったが、それと比較してワインの嗜好は遥かに複雑なのである。

自然科学や芸術や文学などに比べても、この世界は正否が存在しない。不味ければそれまでなのである。人が不味いものを美味しいに違いないとは言えない。そして、精々こちらが美味いと思っていることを説明することしか出来ない。しかし、相手が不味いと思うことを無視する事は出来ないのである。その逆も同様である。

ワインに話を絞っても、その享受の仕方や、食生活、ライフスタイル、気候、文化的な背景 ― 感覚から想起するイメージ ― の相違に加えて、それらから影響を受けている感覚と呼ばれるセンサーの機能が個人的に異なるのを認知するのがこうした交流の前提条件とすることができる。

要するに、そうした差異を強調するまでも無く、差異を確認して行く作業が、特に今回のようにその嗜好の傾向の差が比較的小さいとBLOGの記事で十分に確認されているので、通常以上に繊細を極めそうである。反対に、勘違いや思い込みも有り得るので、そうしたものを表面化するのも楽しみなのである。

要は、「俗に言われる客観的評価とか、評価基準とか呼ばれるものは、感じるものは皆同じとする楽天気質と何一つ変わらない」ことを言いたいのである。つまり、基準を拵えているのは、その主観が含まれる文化であって、これは主観が気がつかない内に偏向しているのが当然であり、最も客観から遠い。だからこそ、その偏向を見極めることこそが重要となる。

例えば、こうした試飲の場合、他の嗜好が観察出来るのと同じく、自己の嗜好も評価することが出来るのである。そうした目的から、些細な相違でも注意深く抽出することが肝要である。

そして、可能な限り自己の主観から対象に迫り、それを出来る限り正しく伝わるように如何に客観的に表現することが出来るかに掛かっている。これは、なんらかの制作品の受け手だけでなく、作り手においても同じで、受け手の反応こそ最も大切な判断対象なのである。

だから、書いたり表現したりしたもので何が伝わっているのか、それともいないのか、こちらからと同じように先方からの誤解は無いのかなどが、一同に会して意見を交換して、他者の上に投影することで、より深く判断出来るのである。謂わば、隠していたポーカーのカードを一斉にテーブルに広げるような感じなのである。

月曜に用件を兼ねて、醸造所で三種類のワインの試飲をした。三月七日に参加した試飲会と同じものとまた違うものを試飲出来た。その時の評価を覆すほどにワインは成長していたのである。これだけをみても如何に点数システムと言う評価方法が役に立たないか判るであろう。

先ず、二月ほど前には樽出し試飲であったウンゲホイヤーキャビネットが瓶詰めされて販売されていた。これは流石に素晴らしく、この土壌の重く重厚になり易い傾向を避けて、芯が通ったまるでストディヴァリの音質の様に、引き締まっているのである。このビスマルクが名付けたと言われる地所から、意外に出ないほどの質の高さを感じた。潜在力を感じた前回の試飲が正しかったことが証明された。

二本目には、ライターパァードを試した。この土壌は、雑食砂岩の特徴が出るとされるが、今現在その青リンゴの香りは最高である。これほどこの地所が印象に残ったことは嘗てなかった。

三本目にヘアゴットザッカーを試飲したかったのだが、丁度切れていて、来週ぐらいに新たな樽から瓶詰めされるようであった。またの試飲を楽しみにして、その代わりにお勧めのホーヘンブルクを飲ませて貰う。これも前回は炭酸が抜けていなくて否定的であったが、酵母臭さが残っているとはいえ、何よりもマイスターの繊細さが出ている。ミネラル風味が素晴らしいが、口蓋上部に残る白檀のような香りとイチゴのような酸は清々しい。

こうしてワインなどは、対象も変化するので、一定の客観的基準など役に立たないのが理解出来ると思う。実は、こうした困難性は多くの批判対象に対して成り立つ摂理でもあるのだ。
コメント (2)
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