香道の講演会に参加した。ミュンヘンのシュテュレーブ女史の体験と研究をもとに話が進められた。
先ずは歴史的な香合わせから発展とスライドを使った今日の実践を二本柱として、殆ど知る者のない香道が紹介された。
日本の平均的な教育程度の者に、この香道を尋ねると、多くから源氏物語の香合わせが言及されるが、香道の中身を知る者は居ないと言う。日本人にとって、未知な道なのである。講師のインガさんは、日本滞在中に香道志野流に参加している。
志野流は武家遊びから発達していて、千利休も門下であったと言うから面白い。それに対して、三条家から発達した公家の香遊びを御家流と呼ぶらしい。
最も関心を持っていたお茶席における香の使い方やそのキリシタンの影響を受けると言う秘儀としての道であった。これは、インガさんも独自に調べたようだが、一切の関係が見つからないどころか、香道は茶道に比べると遥かに遊びが強調されていて、他にも出席者から質問があったが、瞑想などとは殆ど相容れ無いものと説明された。
また、ドイツ語では道を途と訳するが、これも興味深い。なぜならば、日本の道は途ではなくタウであると思われるからだ。すると、少なくとも香道においては実際は「道」であるよりも「遊」であると言うことになるが、一体ドウであろう。
確かに、スライドなどを見ていると、姿勢や無言の所作などに様式化した道の片鱗が見られるが、茶道における侘び茶に対する「名物」に相当するような香具が無いことも、上の否定を裏付けているようだ。その反面、ヤニとなった貴重なもしくは骨董的な香木が大変高価で価値があるとされる。
こうしたことから期待したような、香道の世界観としての「タウ」は兎も角、キリシタンの影響は否定されたが、それらの材料をオランダ人たちが東南アジアから運んで来たことは特記される。
我々に関心があるのは、香道はワインの試飲にも極近いが、なぜそこまで形式化されたのか、やはり判らないと同時に茶道に比べると様式化はそこまで至っていない。あらゆる外来文化の日本化の傾向と特徴は、ワインの試飲やそうした文化スクールにも表れていて、何れソムリエ流とか、セラー流とか、買い付け商人流とかの家元が割拠するのだろう。
ただ、インガさんが言われていたように、香りを覚える方法はどうもワインと殆ど同じで、特定の印象を回帰して定着・同定させながら分析的に嗅ぐ。これがシステム化されて概ねの年代を当てるとなるとソムリエ流となる。ワインの試飲でもそうだが、その辺りになると試飲の目的が不明瞭になって、お客様にお奨めするアドヴァイザーの手練手管が何時の間にか「道」になるのだろう。つまり、真剣勝負の出会いがなくなるのである。
また、あれだけの香りの中に浸かっていても惑わされなくなると、それは鈍感になったと言うことではないのだろうか?そうなると、どうしても道がつきながら遊びに徹している香道が不可思議で、ワインの試飲に遊び興じている内に、こちらは何時の間にか花園にひらひらする蝶々になっているのである。
「莊周夢蝶」
昔者莊周夢為胡蝶、
蘧蘧然莊周也、
自喻適志與!
不知蝶也。
俄然覺、
則栩栩然蝶也。
不知蝶之夢為莊周與、
莊周之夢為蝶與?
蝶與莊周、
則必有分矣。
此之謂物化。
香道では嗅ぐを「聞く」と呼び、「香が満ちました」と言って終わる。
先ずは歴史的な香合わせから発展とスライドを使った今日の実践を二本柱として、殆ど知る者のない香道が紹介された。
日本の平均的な教育程度の者に、この香道を尋ねると、多くから源氏物語の香合わせが言及されるが、香道の中身を知る者は居ないと言う。日本人にとって、未知な道なのである。講師のインガさんは、日本滞在中に香道志野流に参加している。
志野流は武家遊びから発達していて、千利休も門下であったと言うから面白い。それに対して、三条家から発達した公家の香遊びを御家流と呼ぶらしい。
最も関心を持っていたお茶席における香の使い方やそのキリシタンの影響を受けると言う秘儀としての道であった。これは、インガさんも独自に調べたようだが、一切の関係が見つからないどころか、香道は茶道に比べると遥かに遊びが強調されていて、他にも出席者から質問があったが、瞑想などとは殆ど相容れ無いものと説明された。
また、ドイツ語では道を途と訳するが、これも興味深い。なぜならば、日本の道は途ではなくタウであると思われるからだ。すると、少なくとも香道においては実際は「道」であるよりも「遊」であると言うことになるが、一体ドウであろう。
確かに、スライドなどを見ていると、姿勢や無言の所作などに様式化した道の片鱗が見られるが、茶道における侘び茶に対する「名物」に相当するような香具が無いことも、上の否定を裏付けているようだ。その反面、ヤニとなった貴重なもしくは骨董的な香木が大変高価で価値があるとされる。
こうしたことから期待したような、香道の世界観としての「タウ」は兎も角、キリシタンの影響は否定されたが、それらの材料をオランダ人たちが東南アジアから運んで来たことは特記される。
我々に関心があるのは、香道はワインの試飲にも極近いが、なぜそこまで形式化されたのか、やはり判らないと同時に茶道に比べると様式化はそこまで至っていない。あらゆる外来文化の日本化の傾向と特徴は、ワインの試飲やそうした文化スクールにも表れていて、何れソムリエ流とか、セラー流とか、買い付け商人流とかの家元が割拠するのだろう。
ただ、インガさんが言われていたように、香りを覚える方法はどうもワインと殆ど同じで、特定の印象を回帰して定着・同定させながら分析的に嗅ぐ。これがシステム化されて概ねの年代を当てるとなるとソムリエ流となる。ワインの試飲でもそうだが、その辺りになると試飲の目的が不明瞭になって、お客様にお奨めするアドヴァイザーの手練手管が何時の間にか「道」になるのだろう。つまり、真剣勝負の出会いがなくなるのである。
また、あれだけの香りの中に浸かっていても惑わされなくなると、それは鈍感になったと言うことではないのだろうか?そうなると、どうしても道がつきながら遊びに徹している香道が不可思議で、ワインの試飲に遊び興じている内に、こちらは何時の間にか花園にひらひらする蝶々になっているのである。
「莊周夢蝶」
昔者莊周夢為胡蝶、
蘧蘧然莊周也、
自喻適志與!
不知蝶也。
俄然覺、
則栩栩然蝶也。
不知蝶之夢為莊周與、
莊周之夢為蝶與?
蝶與莊周、
則必有分矣。
此之謂物化。
香道では嗅ぐを「聞く」と呼び、「香が満ちました」と言って終わる。