Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

環境の一部である全人格的な行い

2011-01-16 | 文化一般
ピアニストのアンドシュ・シフがベルリンのフィルハーモニーの室内楽ホールで千五百人もの聴衆を集めてバッハの平均率第二集のリサイタルを開いた。その演奏会評が新聞に載っている。この現代を代表するピアニストの音楽を多少なりとも知っている者ならば、彼がどのようなバッハを奏でるかは凡そ想像がつくだろう。その魅力についても今更語る必要もないのだが、逆にそれ以上のものを期待する者は彼のリサイタルに態々足を運ばないかもしれない、またはその最新録音などの数々の名演を態々購入しないかもしれない。

つまり、新聞評が鋭く指摘するように ― 三つのペダルを駆使して古楽器の模倣など朝飯前であり、その可能性は遥かに大きいにも拘らず ―、濁らない対位法の線をまるでモーツァルトのように奇麗に描き出すこととと、バッハの音楽のこれまた重要な一面である不協和音のぶつかりやそのアタックの核を描き出すこととは異なるということ、つまりバッハの音楽のその歴史的、本質的な面を認識している聴衆にとっては、この名手が奏でるバッハはただのその一面でしかないことぐらいは皆知っているのである。

ワルシャワブロックが存在していた頃に西側で売り出された演奏家の中で定着した数少ない演奏家の一人であり、間違いなく我々の音楽市場に欠かせない一部となったその音楽性が、前述したようなものであり、我々がそれを強く支持していることには違いないのである。その賢明で多くの共感を集める音楽性について、それ以上ないものねだりをしても仕方がないのである。

それが今、ハンガリー政府の音楽行政をザルツブルクのあまりにも美しい湖畔地帯から批判したかどで、ハンガリーにおいて叩かれることになり、その反撃のあり方がハンガリーに根付く人種差別であるとして同地所縁の一流芸術家による署名活動として、ブリュッセルのEUへの直訴となったようである。この件に関しては、首唱であり高名な指揮者であるアダム・フィッシャーの追っかけブログ「クラシックおっかけ日記」に詳しいので、興味ある向きはその方で正しい情報を収集して頂きたい。

そこで我々このピアニストの音楽に接して尚且つそれを高く評価する者にとっては、そのプロフィールや信条などとは無関係に、なぜこうしたことになったのかと不思議に感じるのではないだろうか。まさにそれが我々が受け取っているこの演奏者の美学であり感性であり、それが創作者の場合の表出方法 ― その典型が大バッハの高度な修辞法に違いないのだが ― とは異なっていても、公に知られているこの芸術家像なのである。その意味から、先日のリサイタルの演奏評を読んで、また一般的な芸術の創造や表現を改めて考察して、興味深く感じるのは当然なのである。創造や表現とはその環境の一部としての全人格的な行いであることを前提と考えるからである。



参照:
Ein Bach für Studienräte und Stiftdamen, Jan Brachmann, FAZ vom 13.1.11
ハンガリーの人種差別の現状 (クラシックおっかけ日記)
クリスマスオラトリオの修辞法 2010-12-11 | 音
東での四人の識者の遣り口 2011-01-05 | マスメディア批評
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
目の鱗を落とす下手褒め 2008-10-07 | マスメディア批評
豚とソクラテス、無知の知 2007-08-14 | マスメディア批評
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春めいてきたこの一週間

2011-01-15 | 
留守の間に電話が入っていた。ミュンヘンの局番からである。夜八時半という時刻からして、仕事や業務関係ではなく、ただ一回の試みであるからやや遠慮がちの電話だったのだろう。ミュンヘンに事務所を持っているものはいてもそこに住んでいる友人はおらず、ミュンヘン旅行中に電話してきそうな者も心当たりがない。ありえるのは平素はドイツに住んでいなくて、ミュンヘンでの仕事があって、ホテルかどこかから国内の知り合いに電話してきたような場合だろうか。などと色々考えても、九割かた間違い電話であろう。

そのようなことで今年二度目の室内クライミングをしていた。水曜日に他所の町で疲れた挙句の運動であったが、筋肉が伸びて活性化していたためか、結構調子はよく、なかなか力が枯渇しそうにもなかったので良い傾向である。これでシーズンに向けてよい準備が出来そうである。世界選手権なども開かれるルートヴィヒスハーフェンのそれは壁に打たれている手掛かり足がかりの石がとても摩擦が効いて滑りにくくてぐいぐいといけるのだが、高度はあまりないが、兎に角力が入る分だけ腕力が堪える。それに比較すると、フランケンタールのものは地元のアルペン協会のものだけに安普請だけど背が高く、手掛かりが滑りやすく厄介である。

そうした性格の違いは、まさに岩質の違いの様でもあり、面白いのだが、集まる人々も若干異なり、協会員への価格も大分異なるのである。私自身、各々のホールに其々違うグループとして通っている。今週は週に二回となってしまった。水曜日に突然お誘いがあったからで、結果からすれば両方に行けて良かった。冬としてはありえないほど雨が降っていて、外での運動は制限されて、各地で河が氾濫しているのは周知の通りである。マインツやハイデルベルクで土豪が積まれていたようだ。ローレライに近いザンクト・ゴーアで横倒しとなっている硫酸入りのタンカーも引きあがるにはまだ数日かかると言われている。

気温も二桁と高いのだが、また寒くなったら氷を登りに行く準備をしている。それでも春らしいのはそれはそれで嬉しい。
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財政再建無ければ未来も無い

2011-01-13 | 歴史・時事
独第二放送で近未来スリラー・ドキュメンタリーが放送された。TVは観ないので内容は新聞に書いてある通りだが、2030年のドイツ社会のドキュメンタリーである。高齢化社会での若者の強制収容所行きとその暴動が描かれている。久しぶりに子供の頃に聞いたことのある当時の新作映画「ソイレントグリーン」のタイトルをみた。

今後の政治に減税を求め、年金や医療や介護の保険の安定などを求めても、更に給与の上昇どころか低下しか期待出来ず、政治が振り分ける行政の財源である経済成長による自然増収もあまり期待出来なくなって来る現実から、上のような近未来が演繹的に描かれる。

上昇志向のある若い出来の悪くない少年が、高等教育で鍛えれば何とか「使い物」になるような一般的な少年が、公的費用では賄えなくなったその高等教育費用を稼ぎ出すために、挙句の果ては警官に足を銃で撃ちぬかれて、病院に運ばれてもそのような人間を治療するスタッフも何もないという訳である。

要するに現在十歳の子供がそれ相応の年齢になったときに、現在のつけがそのまま上のような現象を作り出していくと言う按配である。高齢化により働き手はますます減少して、その一方社会保障を受けなければならない年齢の不労者は爆発的に増える。働けど働けど、わが身は立たずが、今の子供たちの将来なのである。

財政再建や徴税の簡素化は、EUにおける最重要課題だけでなく、世界の工業先進国が同じように希求する政治課題であり、将来を生き抜くただ唯一の道でしかない。社会のセーフティーネットの完備もそれが前提となるが、その一方で完全崩壊を向える前に、簡素な社会保障や税出の縮小を図るために可能な限りの小さな政府と自由市場の活用しかないのは議論の余地のないところである。

友人の大学病院の外科部長の仕事振りを思えば、その延命効果の経済効果としてのCPは別として、そこまでやるかと言う医術の施しが可能となる。健康保険で同じように生活意欲のある者もない者も同じような治療を施されると言うのはある意味不条理なのではなかろうか?まさにそうした生の意志こそが命であるのだから。年金や社会保険制度と、社会として不可欠なセーフティーネットは全く別物である。



参照:
2030-Aufstand der Jungen, ZDF
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廃校間近のガイセンハイム

2011-01-12 | ワイン
ドイツワイン愛好者なら139年の歴史を誇るプロイセンの専門学校ガイセンハイムの名前を聞いたことがあるだろう。ヴィースバーデンの高等専門学校の一つの分校扱いとなっているが、実はラインラントプファルツ州の援助を受けていた。そのことをもって我々は訝しく思ており、実際ノイシュタットのムスバッハの専門学校に今後は集中して投資する環境が整ってきた。そしてラインラント・プファルツ州が百三十万ユーロの支援を打ち切ることにすることは、昨年十一月にその対抗馬であるムスバッハの専門学校を訪れた仲間などからも改めて情報を得ていた。

そして、その財政の穴を埋め合わすべきヘッセン州は、高等学校の再編成などから、一方で徴兵制度の廃止による受け入れる高等専門学校生の増加に対応出来ない、ヴィースバーデンの本校自体の縮小を考えている。特にガイセンハイムでの教育はワイン大国プファルツで実践として活用されることになっており、ヘッセンにとっては意味を成さない一方プファルツにとっても財源の集中した投資が望まれることになった。

来週には議論会などがそのOBを集めて開かれるようであるが、2011年にガイセンハイムのその歴史は終わりを告げる予定である。既にノイシュタットの方では予算が投下されており、そのガイセンハイムの教育機関としてへの新たな利用法は限られている。近隣だけでも、ノイシュタットのみならず南ワイン街道にもワイン栽培の研究施設が充実しており、ドイツ一番と言われるヴィルヘルム・ヴァイル一行がヴァッヘンハイムを訪れる事実だけを見ても、今やガイセンハイムにて技術を磨くよりもミッテルハールトで研究する方が地形的にも合理的なのである。

しかしながら、ガイセンハイムからそれ程遠くないヘッセン州立の醸造所が立派な地下の醸造所を完成させて、更に最新の技術でリースリングを醸造し始めた矢先に、こうした基礎となる研究機関との共同作業がおろそかにされないかと些か人事ながら心配になるのである。広義な意味で、ミッテルハールトのワイン栽培や醸造は他の栽培地域よりも五年から十年ぐらいは先行しており、私自身地元研究機関や最新の研究成果を鑑みながら熱心なヴォランティアーのテスターとして叱咤激励のフィードバックこそが、住環境の維持・向上しいてはドイツの農業政策の将来へと自己の身に切実に降りかかってくるものと承知している。今まで以上に嫌な顧客として、現場に影響を与えていく所存である。しばしば、あまりにも不安定感さえ感じさせる「リースリングの飲み頃の山と谷の認識とその情報の伝達」に関しては、まだ多くの売り子への「教育的指導」が必要であると考えている。まさにこれが、コーラワインには絶対ありえない、世界中のリースリング愛好者が狂わせてしまう「女心と秋の空」なのである。



参照:
„2011 entscheidendes Jahr für Forschungsanstalt“, FAZ vom 14.1.2011
モーゼの杖が導びく環境認識 2010-08-19 | ワイン
グランクリュ解禁の秋の旅 2009-09-13 | 暦
大馬鹿者たち-試飲百景 2005-06-18 | 試飲百景
ヴァイル御一行様のご相伴 2010-10-01 | 試飲百景
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スポーツと呼ぶ不健康なもの

2011-01-11 | 雑感
最近日本にも進出したらしいレッドブルというスポーツコーラ飲料水の雑誌が新聞折込に入っている。既に十冊分を数えて、捨てていないものが手許に残っている。そもそもその製造元のオーストリアのオーナが、F1グランプリのニッキー・ラウダの航空会社とは反対方向へと、スポーツスポンサーとして、ザルツブルクのサーヴスTV局のメディアから更に手を広げており、シュヴァルツネッカーカリフォルニア知事などにも共通するバイエルンのそれとは違う如何にも山国らしい野卑な雰囲気を十分に醸し出している。

さてその雑誌は、最初から最後までエクストリームスポーツの数々が扱われており、我々が見てもこんなことが可能かと思わせる反面、これがスポーツだろうかと思わせるような写真や演者がひっきりなしに登場する。しばしば有名人としてクリント・イーストウッド監督などがその公式なドイツ系の伝記記者と登場することがあっても、殆どは上昇気流にあるスポーツ選手が殆どである。

その中に読売巨人軍の坂本選手への取材の成果は何度にも分けて特集されていた。その持ち物リストとか野球道具がそのルールとともに説明されていて、プロ野球の応援や各球団のサポーターの状況なども紹介されていた。日本市場進出ゆえか筍族の後釜なども紹介されていて、あまり普通の人は知らないような若者の新風俗までが取材されている。

全体の記事の中でスポーツ的な活動紹介として、スタントウーマンでもあるシティーフリーランナーやマウンテンバイクやフリーライドスキーに並んで、オーストリアのヴェトナム系のプロフリークライマーも紹介されていて、彼はYOUTUBEでも御馴染みである。

最新号では、改めてアルペンスキーのトニーザイラー亡きあとのキッツビューエルのハーネンカムの滑降ルートが紹介されている。そのスタート直後の滝は私が滑ろうとして断念した所である。滝の上部は何処の滑降コースでも同じであるが、そこは飛び越えるようになっているので、着地場所に比べて傾斜が強く斜面が整備されていないので普通に滑るようには、全く考えられていないのである。

それにしてもコーラも健康に害であるが、こうしたスポーツの類もこうして見世物となるときに殆どサーカス化していて、命知らずのその危うさと、観衆のストレス発散が商業構造のなかで合致するようになっている。なるほど喫煙や飲酒もそうした側面が少なからずあるが、体を使うから必ずしもスポーツが健康というものではないことだけは確かである。スポーツも害毒であればスポーツ飲料もそうである。しかし、白ワインが内臓の治療に用いられていたのも、害のない薬は存在しないからである。良薬は口に苦し。決して甘くはないものなのだ。
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末恐ろしい夕刻の舟歌

2011-01-10 | 雑感
気温急上昇のためが頭が痛い。この傾向は元旦からあったのだが、なかなか完全に治らない。風邪なのだろうが、全く頭の芯のカリフラワーの切り落とすぐらいのところが、結構ピンポイントで傷む。床に入って、目を瞑ると、白く原光が射すぐらいであるから、なにかのお差し向けか、それとも脳腫瘍か?はたまた悪いピノブランを飲んだためか?そのような按配で、夕方一眠りした。新聞記事を追ううちに瞬く間に、深い眠りに落ちた。

相棒と隠密捜査に当たっているようだったが、毛馬のこうもんから宇治川とか堂島川とかあまり馴染みのない旧淀川を海の方へと向けて、細い舟に二人が横になって身を隠しながら、川を流されていくのである。そこに待ち受けるのは、なぜか瀬戸内海ではなくて大海原なのである。

道頓堀川などからの合流地点は、川というよりも阪神環状高速の合流点といった按配だ。ベートーヴェンのピアのソナタが舟歌のように盛んに流れる。結局河口近くまでいって、いよいよ海へ流されてしまうという手前で任務を完了した。その小船は高さ五十メートルもあろうかというクレーン車に吊り下げられて、上流へと移動させられる。

その上流の支流のどちらへ入るかで、船の中で身を寄せる二人は先を危ぶんでいる所で目が醒めた。汚れの厳しい、道頓堀のような所へは行きたくなかったのである。

あまり意味の分からない夢であるが、自己判断してみる。あまり所縁のない場所との繋がりや、それらが暗示していることである。意外に簡単そうに解けた感じがするが、その一方興味深いのは、名映画監督のベルイマンあたりなら間違いなく、舟歌に流されていたのはむしろ霊柩馬車に揺られる細い棺桶であったに違いない。

午前中には幾らか用を果たしたが、まだ昨年暮れからの流れが切れずに、謹賀新年とはなかなかならない。そうなったときには既に二月になって仕舞っているかと思うと、末恐ろしや。
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安心で健康に良い冷たい食事

2011-01-09 | 料理
クリスマス前に備蓄した食糧が殆ど底を突いた。そうである明日から肉屋も再開する。それでもまだもう一回分のザウマーゲンは残っている。そんなこんなで、先週はシュヴァールテンマーゲンのサラダを作った。

一般的にはハムサラダとして親しまれているものと変わらないが、燻製の掛かったシュヴァールテンマーゲンは、それ程ソースの味はしみないが、肉やにこごり自体に歯ごたえがあり風味がある。古くなってきた野菜と混ぜ合わせた。それよりも何よりも年末に購入したパンが固くなりかけていたのであった。ちなみにごひいきのパン屋が開くのはまだ一週間先なので、なんとなくまだ松の内である。実際、クリスマスツリーが残っている。

チーズは、ストラスブール風にはその中に入れずに、分けて食した。ワインは何を開けえたか覚えていないが、恐らく2009年物のPCクラスであったろう。

冬場の冷たい食事は、夏の野外やバルコンで食するそれのようには美味くはないが、十分に暖まった部屋で一杯引っ掛けるには最高である。それに七草の鏡餅のように熱くて喉に引っ掛ける心配も無いので、安心である。
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雪よ、山よと彷徨いてしまう

2011-01-08 | 雑感
ダークダックスの訃報からYOUTUBEへと迷い込んだ。「山の歌」と来れば、日本の山々が出てきてしまった。特に記しておかないといけないのは、文部省が企画した「岩登り技術、岩登り技術基礎応用編」という教育映画である。当時の技術を伝えるだけでなく、若き日の重廣恒夫なども映っていて、後にEBシューズ姿でしか知らないが、流石に若いだけに身のこなしがしなやかである。剣岳のチンネと呼ばれる岩峰を登るときに、双子ザイルの使い方と二重ザイルの使い方を混合しているのは珍しい。現在ではハルプザイルの使用は一般的であるが、当時はドッペルザイルが全盛期であったからだ。1974年の撮影であるが、丁度技術や用具が変わる時代であった ― 例えば、道具以外にも確保の技術やザイルの結び方は大分変わってきている。特に基礎編3でのアッブザイレンの末端の処理は現在では二本別々に、止め結びにすることが推奨され、最も単純な止め結びが全盛である。

現代のクライミング基礎技術らしきもの、フランスの場合、フロリダの場合、英国の場合、ドイツの場合。

序に面白い練習風景を見つけた。宝塚で五月にシュタイクアイゼンと手袋をつけて登っているTさんと呼ばれる方、まさに当時からの技術を受け継いでいる人のようである。なにか用具も、毎年欧州に遠征していると言う割には、当時のまま古色蒼然としていて、まるでタイムマシンから抜け出てきたようだ。その経験度からして、何十年も伝統技術を継承しつつ、今もアルプス登山には必要な技術を絶えず磨いているのだろう。映像では結構長く中間確保を取らずに登っているが、もし爪が滑ったら痛い目にあいそう。

現代のクライミング入門者は、ロックとアイスのクライミング技術を各々洗練させてから、経験を積んで行くことになるのだろう。どのスポーツ分野に於いてもトップアスリートの技術から逆算して効果的な育成方法が考えられているので、細分化した現代の方法の方がやはり合理的に違いない。

そのアルプスにおける技術の到達点の一例として、先日紹介した昨年秋のアイガー北壁のジョン・ハーリンルートをフリー化したロジェール・シェーリの同じ西壁裾のロートシュトックでのフリー化の映像が出てきた。やはり聞いているように、石灰特有の岩質で全然悪くはない。この人の練習風景を見ているとどこかアルペン風で、体は重いのだろうが体力がありそうだ。

1999年のアイガー北壁登攀ライヴ放送の一部を見つけた。スイス放送も共同制作していたことは忘れていた。極一般的なクラシックルートの登山風景の一例としてそれを観る。ラムペ上部の中途半端な氷は嫌らしい。リュックサックがあると大変だ。生中継の記憶通り、この年は大分乾いていたようだ。

冬の登攀。どうも氷雪の状態さえ良ければ、冬の方が安全そうである。アイガー西壁?のスキー滑走

ウューリ・ステックは、二時間五十分を切る速さで北壁を登りきったが、頂上に出てきても足元が通常のの登山者よりも確りしている。なるほどヒマラヤを一泊で登りきってしまうにはこれほどの体力と速さが当然なのだろう。集中力は、その時間なら誰でも保つが、それまでに疲れ果ててしまう。マッターホルンも二時間以内、グランデジュラスを三時間以内。

滑落して親父さんが登れなかった北壁を登るジョンハーリン三世

1959年に二年間北壁で曝されたステファーノ・ロンギの遺体を回収した活動の映像発見のニュース

今日は外気温14度と暖かく、三十分ほど散歩をする。



参照:
夢を叶えるプラットホーム 2010-12-22 | アウトドーア・環境
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政治課題としての環境認識

2011-01-07 | マスメディア批評
菅首相のネット番組への出演を観た。同番組前回のものだろうか宮台氏が金と政治に関してマキャベリズムに既に言及しており、その点をどのように展開するかに興味があった。要するにロビー活動のあり方が問われているのか、不透明性が問われているかの問題であり、宮台氏などは「欧州がロビー活動自体に否定的」としていたが、その見解が必ずしもアクチュアルではないことはここで何度も扱っており周知の事象である ― さもなければブリュッセルに世界中からガイドライン情報を求めるためだけに人が集まるまい。問われているのは当然のこと透明性である訳で、なにも菅首相に踏み絵させなくても良いもので、まさにそれは小沢氏にこそ質問して貰きたいものなのである。まさに立法者による法の網を抜けるような不透明性と不明瞭な決算のアンフェアーな行いこそが有権者の不信感を煽っているのであろうから。しかしそれ故に十分考慮された番組構成のようで、司会の神保氏と共に宮台氏が、官房長官更迭後の心許ない首相の一人立ちに心強い手を差し伸べるように、本人に肝心な点を言明させる見事なインタヴューとなっていて殆ど前回から伏線が張ってあったかのようですらある。そもそも仙石なんて代議士を知らない。まるで日本の人文学者のような可也古臭い理念を燻らす政治家 ― 道上洋三の番組のネット配信でインタヴューを聞いただけで、まともな日本社会党の代議士でもなかったそうだ。それでは社民連の菅の方が素性が分かっている。 

番組中マックス・ヴェーバーの引用や古典への言及が多いのは社会学者としては当然であろうが、それゆえか偶々リンクを見つけて番組を無料視聴するときには、ここでの話題が氏の発言主旨としばしば重なることを経験している。今回もここ暫くその百年前の社会学者の近くで眠っている指揮者のハイデルベルクの墓地を遥か遠くに眺めつつ、フルトヴェングラーにおける社会学的な見地からのその美学や美学史を考察していたので、番組でビスマルク統治下のドイツ市民の民意の問題とその教育、つまり古典教育に言及されると、まさに私の関心ごとがそのまま重なるのである。

先ずはキーワードだけでも書き留めておくと、トーマス・マンなどがアンチ教養小説として描いた市民の教養と、そのギリシャ哲学へと遡らなければいけない教養こそが、否更に仏教までへの回帰がドイツ国家社会労働党を導いたのであり、それがまさに教養主義の、自由主義の徒花として開花した証であった。同時にそれは、その教養の大衆化であり、その指揮者が1936年に定義つけている「形の定まらない、意思の無い聴衆(民族)とそこに含まれる批評(ジャーナリズム)」である十九世紀の大衆が、芸術家(芸術)によって対話を交わすことによってはじめて「価値」をそこに見出すことが出来たとしている指摘に、この指揮者の発言当時の社会への的確な環境認識を重ね合わせられる。

もう一点上の番組で興味深かったのは、自由経済圏への参加問題であり、それは今や主義主張や鳩山前首相が押し出したような理念と言ったものでは全くなくて、そのもの環境なのであるから、工業大学で自然科学を学んだ菅首相が語るようにそれを現象として、それ以上の代案がない限りは、政策運営を勧めていくしかない問題なのである。農政の問題も、耕地面積は少なくともあれだけの十分な国土があり世界有数の原生林を有し、北海道を含めて恵まれた気候の農地を保持している日本が、競争力の無いドイツや輸出国フランスのそれ以上に解放に問題がある訳が無い。そもそも経済的に帳尻の合わない水稲農政からの脱皮と、その他のより健康な穀物や野菜などへの転換を図れば良いだけである。

菅総理が、とても取り組む余裕の無い個人的関心の強い政治課題として環境問題を漏らしたが、まさに耕地や森や海に囲まれての日常生活こそが現代における高い生活水準そのものであり、将来の社会の指針であるに違いない。



参照:
菅首相生出演!総理の言葉はネットに響くか (マル激トーク・オン・ディマンド/ビデオニュース・ドットコム)
Wilhelm Furtwängler und sein Buch "Gespräche über Musik"
ビデオニュース・ドット・コムの映像&アリストテレスについての簡易メモ (たるブログ)
大粒の食べ応えがある茨城の納豆です。 (saarweineのワインなどに関してあれこれ)
寿限無 食う寝る処に住む処 2010-12-13 | 文化一般
批判精神無しに何を語っても 2010-06-04 | BLOG研究
VDPプファルツへの期待 2008-01-07 | ワイン
絵に画いた牡丹餅 2007-03-18 | BLOG研究
柔らかいゴムの心地よさ 2008-11-08 | 暦
構造への全幅の信頼 2005-10-12 | 雑感
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出歯の亀太郎の初夢日記

2011-01-06 | 
色っぽい初夢だ。本当に初夢かどうかは疑わしいが、ここに来てやっと頭痛も消えて、体調も回復した。昨晩から本日まで零下六度から六度まで摂氏十度以上の気温の上昇があり、屋根の雪も殆ど消えた。まさに新春である。

それは、どこかのホテルに泊まっており、サウナかなにかへの着替えなどの部屋で偶々若い女性と一緒になって二人だけで、幸運にもご一緒することになった夢である。なんだかんだで、シャワーを浴びている後ろを通ると、少々照れながら通路の場所を開けて呉れる。当方は何時ものようにトイレからの帰りなので脱衣はしていないので ― いつもこの手のシチュエーションで私は覗きの出歯亀のように ― 具合の悪い思いをお見せすると言うか、親愛なる女性方の怒りを買うのであるが、そこで一言いつものように「よく見せて頂きましたよ」と声を掛けて立ち去ってしまうのである。もちろん、それはその腰周りの張りのあるウェストラインからヒップへの長く伸びたプロポーションを拝ませて頂いたということである。その美しさからして両腕で上手に隠されている胸元は改めて言うまでも無かろう。しかしどうしても顔が思い出せない。

脱衣場所にまで来て、しまったと思った。なぜ、「もう一つ十分には拝見出来ませんでした」とか言って、折角場所を開けてくれた横で、シャワーを使わなかったのだと焦る。そこで目が醒めた。一月六日六時であった。まるで寅さんのオープニングシーンのような相変わらない今年を暗示するようなシナリオであった。
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品質の向上となるような基準

2011-01-05 | アウトドーア・環境
ダイオキシン騒動では、家畜飼料の汚染がその材料からきているらしい。つまり脂肪酸の生産元によると工業向きに、バイオディーゼルから生産されたもので、食品への利用は目されていないとなる。資料の生産元である原材料調達の製品コントロールが十分でないということで、繰り返される汚染の輪が断ち切られていない。年末から、食品スライサーのすべりが悪くなったので工業用のグリースを塗ったが、食品用のそれを態々入手するほどのこともなく、食品に接触しないということで使っている。脂肪酸という意味ではその原料にも差異があるのか。

どちらにせよ、半世紀前と比べると遥かに安全になったにも係わらず、政治家も行政も食の安全ではBSE騒動以来色々と繰り返し学んできている。問題は規制強化というよりも、複雑な流通機構の中での指導や教育の問題であるのだろう。品質管理が最終的に品質の向上となり市場の拡大となるような産業でなければいけない。

自動車クラブADACの機関紙の新春号に、メルケル首相の挨拶の前に、例のユーロNCAP-クラッシュテストの比較リストが出ている。2010年には連邦共和国の交通事故死が三千人を初めて下回り、事故負傷数も六パーセントも下がっていることに密接に関連しているであろうか。先ずは発売基準を満たしたと言われている中国産の「陸風」とBMWの5シリーズの極端な差を発端に、その中間にある他の車通しの結果が比較される。中国産とドイツ産のその品質の違いは車のクラスの違いを超えて、胸部に強い障害を与えかねない車と、正面衝突しても致命傷が避けられそうなその点数差は比較しようがない。更に通行人に対しても、ボンネットが浮き上がりクッションとなるBMWの78点に対して、中国のそれは31点しかない。更サイドエアーバックやヘッドエアーバックの有無だけではなくて、カロッセリーの枠が内側に強くひしゃぐ強度不足は甚だしいようだ。

同じ意味では比較的成績の良い日本車の中で下駄履き自動車の手軽さで人気のある日産ミクラの点数は、同じ極東からのKIAなどよりも遥かに点数が低く、二つ星の五星紅旗の車を除いて、五つ星が取れずにこれだけが四つ星である。むち打ち危険もありそうで、VWのピックアップ車と同じような程度である。シトロエンC4もよくないが、アルファロメオのジュリエッタやスズキスイフトが可也良さそうである。

ABSでは無くESPの標準装備を主張してきたADACがその成果としてEUでの今年十一月に発効の法的新基準を挙げている。冬タイヤにおいてもマッドアンドスノーではない襞の刻まれた冬タイヤかオールシーズンタイプへの基準設定が更に日程に挙がっている。
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東での四人の識者の遣り口

2011-01-05 | マスメディア批評
年末に古新聞を片付けておいた。横にのけてあったその記事に目をやった。2007年の新著紹介の記事で、二冊ともヴィルヘルム・フルトヴェングラーに関する新著である。社会学的な考察が盛んにされており興味を引いた。それ故に一冊はマルキズム的な考えが通奏低音として流れているようであるが、今や歴史化した事象がそれらで捉えられているのが面白い。これに関しては改めて述べる。

クリスマスから、今や東方の三王(三識者)の日までも間近である。この期間ミュンヘンでは大きなバッハのクリスマスオラトリオの上演が四つもあい続いたようである。一つはエリクソンの弟子ディクストラの指導でベルリンの古楽アカデミー、一つはアムステルダムのカペレとコンソートが共演したもの、もう一つは、ハンスイェルク・アルブレヒト指揮バッハコレギウム、もう一つはツ・グッテムベルクとクラングフェアヴァルテュングのものである。二つ目の合唱団は私が聞いたものに近い演奏であったと想像する。

FAZにレナールト・シェックは書く。エリクソンの弟子が、神学的にも音楽的にも核に当たる五部の三重奏「Ach, wann wird die Zeit」でも、音響を崩さぬ姿勢はその師匠とは大いに異なると批判する ― あのエルクソンの自然倍音の激しさを知っている者ならその意味は明白だ。それに比較するまでも無くアムステルダムの楽団のそれは第一部から三部それに五部のバスが弱いそれは導入から明白であって、トリオソナタに還元できるのは明白であったと。アルブレヒトが冒頭の合唱を世俗曲のオリジナルの歌詞で歌わせたのに対して、その男爵ツ・グッテムベルクは第八曲のバスアリア「偉大な主、強い王」でトランペットのシンコペーションはご多分に漏れず巧く寄り添わないが堂々と響かせ、一方アルブレヒトは北ドイツのプロテスタント風に控えるとなる。そして男爵は最後の響きに重ねて、クリスマスおめでとうと叫び、聴衆を凍らせたらしい。記者の結論は、結局はこの曲は機会音楽でしかないとなり、記者が体験したのは些か気の毒な四回の演奏会であったようで、まことにご愁傷様としか言いようが無い。

明日、子供たちが角付けにやってくるかもしれないと、自分がなめても良い少し甘めののど飴を買い置きしておく。



参照:
So recht, ihr Engel, jaucht und singet!, Lennart Schneck, FAZ vom 4.1.2011
クリスマスオラトリオの修辞法 2010-12-11 | 音
寿限無 食う寝る処に住む処 2010-12-13 | 文化一般
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天候の急変のような日食

2011-01-04 | 
部分日食である。欠け始めは気温の低下などを感じたが、霧の中であまり特異な現象は感じなかった。ウェッブカムの霧の上の映像も殆どかわり映えしなかった。十何年前だったかの殆ど欠けたときの状況とは全く異なる。

三分の一の欠け方では、予め知らされていなければ天候の急変としか思えないであろう。再び満ちてくる時刻には雪が降り出したのがご愛嬌だろうか。
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長過ぎる買い物・出費リスト

2011-01-03 | 生活
今年の買い物・出費リストは結構長い。見通しが利かないと不安である。

健康関連では、新規眼鏡と親知らずの抜歯で、前者は全額、後者は半額負担となるので、可也の出費である。不慮の疾病や事故の際も保険の自己負担額は必要となる。これらを全て入れると、最悪五千ユーロ近くとなる。

その他の事故とか何とかの可能性を除いても、バイロイトのヴァーグナー音楽祭は選が外れたようだからよいが、例年以上に必要なのは事務椅子とシーツとパジャマにジーンズ、それにカジュアル靴と室内靴ぐらいだろうか。あとはノートブックが壊れないでいることを願いたいが、その他に遥かに古い電化製品が殆どであるだけに騙し騙し使いたいものである。家庭電化はせめて四半世紀はもって欲しい。

今使用しているシーツは、英国のデパートメントで購入したものだが、一生ものの次の二十年ものを購入した筈で、なるほどそのような感じで破れて来た。椅子は既に十年近く使っていると思うが、これも皮のなめしが悪いようで消耗が激しい。枠が確りしているだけに惜しい。

部屋のカーペーットや壁など改修は長く懸念事項となっているが、これは費用だけでなく手間が掛かり将来的な計画も加わるのでなかなか手が出せない。

上のようなリストの長さと予算の大きさから、またた体力養成プログラムの関係から、自転車購入は先ずは断念した。当然二輪車などに手を出す余裕は全く無い。

ツアースキーの靴を整えるだけで千ユーロ、その他にリュックサックを場合によっては大小二種類、登山用ヤッケを一着、クライミング安全ベルトを一着、クレッターシューを一番、シュタイクアイゼンの留め金で、更に千ユーロ以上となる。両方併せて二千ユーロ。

〆て五千ユーロから最悪一万ユーロ近く、余分に出費できる予算があるだろうか?
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新雪雪崩を起こすのは貝毒だ

2011-01-02 | 生活
富士山での滑落事故などの話題から、山梨県警の登山情報のリンクを覗いた。なかなか良く出来ていてお役所仕事以上のものである。冬富士登山は、いつか日本でやりたい目標の一つであるが、狙っているスキー禁止などが明記されていた。なるほどあの谷筋の積雪量と風では新雪雪崩が起き易い状況で、スキーやボードなどがそのきっかけになることは容易に想像できる。

富士山だけでなく、北岳や甲斐駒など危険箇所と称して素晴らしい航空写真や山小屋情報なども付けられていて、日本でもこのような充実した山岳サイトが作られるようになっているのだと感心させられた。どこかで読んだこともありそうだが、北岳のバットレスの崩壊は酷いようで、四尾根から頂上へと直接上がる中央尾根だったかの脆さは体が覚えている。大きな岩が動いていた。なるほどあの程度の崩壊となると幾らアイスで氷化されていてもコンクリート化されて快適に登れるというものではないだろう。また甲斐駒の摩利支天峰の岸壁などを見ると、当時まだあまり登られていなかったアイスクライミングで谷を詰めて頂上までのルートを辿る機会を逃してしまったが、なかなか見事な岩壁であることは航空写真から再確認できる。

どうも貝毒が頭に来たような感じである。記憶の喪失のような神経系に来たような独特の感じがある。言葉もなかなか出て来ない。ある友人が貝毒にやられた話を書いたが、その話を思い出した。まあ、風邪引きのようでもあり、飲み過ぎのようでもある。内臓に来ていないので逆に不思議な感じがした。しかしそれにしても急に酔いが廻ったように感じたのはどうしたことだろう。飲酒で記憶が薄らいだことは一度も無い。何時も覚えていないのは運転中のことだけである。明日からの社会生活がこなせるものか不安になって来るのである。



参照:
貝毒なんかに負けてたまるものか 2010-02-10 | 料理
寝正月で会得したことなど 2011-01-02 | 料理
コメント (4)
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