Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

想像することと体験すること

2011-01-16 | アウトドーア・環境
独日協会の新年会があった。神戸市出身の者が三人いた。偶々垂水の人と聞いて地震の話となった。当時は既に北区に引っ越していたようだが、玄関先が割れていたという。偶々話を聞いただけである。震災の日とは知らなかった。あの日は、同じようにマンハイムにいて、音楽学校の発表会に居たのだった。正直、今やそれ以上でもそれ以下でもない記憶となりつつあり、被災者との心理的な距離感は益々遠い。同じように、原爆の被災者であったり、虐殺の被害者であったり、空襲に焼け出されたりといった状況をどんなに想像しても難しいのである。体験することと、映像などを見て追体験することの隔たりは大きい。

要は、なかなかこうした感覚的なことは、高度な芸術やその他の手法を用いなければ、広く共通の認識としてのコミュニケーションの中身とはなりえないということでもあろう。

昨晩は、アルパイン協会の新年会で、今年の公式行事の説明会があった。1千人を超える支部所属会員の中の極一部の積極的な面々しか顔を見せないのだが、それはそれで久しぶりに顔を合わせる者もいて挨拶をするだけでも大変である。山登りの会の場合の古典的な悩みで、その活動の幅が広がれば広がるほど内々での意思の疎通が上手くいかなくなるのである。しかし、その規模も限られていて大都市のクラブではないので、そのあたりの見通しは良い。所謂都会的な疎外感がないのがとてもよい感じである。逆に、外から入ってきて根を生やすまでには大分時間が掛かるのである。大都市と中小都市の差がこうしたところに顕著となる。

更に以前からすると、私自身のように可也広い範囲でアウトドアー活動を行うようになると、少なくとも各グループ間を浮遊する気楽さが出来て、更にアットホームな感じになって来ている。特に今年はスポーツクライミングの初心者コースも設置されるので、そこから家族グループや青年グループとの人間関係が進展する予定である。さてどれぐらいの人が石切り場に集まるようになるのか、楽しみである。

さて、私の岩登りの三つ違いのライヴァルは計画の四千メートル級の登山に躊躇している。幾らかの経験はあるのだが、やはりシュタイクアイゼンと手袋でのコムビネーションの岩登りや高山の気象変化などに不安感をもっている。彼とは可也技術の限界域の岩壁を登っているので、そのどこか腰が引ける性格は重々承知している。もう少し、距離を置いて観察することにした。もう一人の候補者は奥さんの放射線治療などの進展で飛び入りしか出来ないようだが、明らかに前者の大男に比べると体力的にも技術的にも準備が十分に出来ないと難しいだろう。しかし秋の岩壁登攀には二人とも顔を揃えるに違いない。

いつもの森のトレーニングコースで雪の中、一度は後から追いかけてきたことのあるノルディックウェーキングのばあさんに年末に会った。あの雪の中を一人で歩くばあさんは特殊であり、可也いってしまっている ― こちらは雪の中を滑りながら走っているのだから更にいってしまっていると噂しているに違いない。恐らく嘗てはスポーツを本格的に行っていた人なのだろう。とても身が軽そうでいながら、足取りや走り方はどうも我々とは違うのである。

五月には再度60キロメートルハイキングが行われる。今回は靴も完璧で、トレーニング量も違うので、前回の雪辱を晴らすと宣言しておいた。これもとてもよいコンデションニングの目安となる。そして腹に脂肪が溜まってきたというリーダーらと健脚振りを競えるのが楽しみだ。挑戦状をぶつけて置いたので、リーダーもトレーニングに励むことだろう。

何事にも拘らずこうした良きライヴァルに恵まれることも機会に恵まれることもとても重要であり、こうした状況が十年前にあったならばと想像してみないこともない。その場合の現在の肉体状況や健康状況さらにライフスタイルは大分異なっていたように思われる。必ずしも幸か不幸かは判断出来ないが、今後十年先のことを考えれば持続性ということではもしかすると現況で良かったのかも知れない。失われた十年、失われた二十年、なんとなくバブル経済やそうした社会情勢にも関連しているようで、当然の事ながら全く自分の意思だけではどうにもならないことであり、自らを取り巻く環境の変化の中でしか、捉えることが出来ない事象であるのだ。

十年前、たらればを考えても仕方ないのである。体験することと想像することは全く違うのであるから。
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環境の一部である全人格的な行い

2011-01-16 | 文化一般
ピアニストのアンドシュ・シフがベルリンのフィルハーモニーの室内楽ホールで千五百人もの聴衆を集めてバッハの平均率第二集のリサイタルを開いた。その演奏会評が新聞に載っている。この現代を代表するピアニストの音楽を多少なりとも知っている者ならば、彼がどのようなバッハを奏でるかは凡そ想像がつくだろう。その魅力についても今更語る必要もないのだが、逆にそれ以上のものを期待する者は彼のリサイタルに態々足を運ばないかもしれない、またはその最新録音などの数々の名演を態々購入しないかもしれない。

つまり、新聞評が鋭く指摘するように ― 三つのペダルを駆使して古楽器の模倣など朝飯前であり、その可能性は遥かに大きいにも拘らず ―、濁らない対位法の線をまるでモーツァルトのように奇麗に描き出すこととと、バッハの音楽のこれまた重要な一面である不協和音のぶつかりやそのアタックの核を描き出すこととは異なるということ、つまりバッハの音楽のその歴史的、本質的な面を認識している聴衆にとっては、この名手が奏でるバッハはただのその一面でしかないことぐらいは皆知っているのである。

ワルシャワブロックが存在していた頃に西側で売り出された演奏家の中で定着した数少ない演奏家の一人であり、間違いなく我々の音楽市場に欠かせない一部となったその音楽性が、前述したようなものであり、我々がそれを強く支持していることには違いないのである。その賢明で多くの共感を集める音楽性について、それ以上ないものねだりをしても仕方がないのである。

それが今、ハンガリー政府の音楽行政をザルツブルクのあまりにも美しい湖畔地帯から批判したかどで、ハンガリーにおいて叩かれることになり、その反撃のあり方がハンガリーに根付く人種差別であるとして同地所縁の一流芸術家による署名活動として、ブリュッセルのEUへの直訴となったようである。この件に関しては、首唱であり高名な指揮者であるアダム・フィッシャーの追っかけブログ「クラシックおっかけ日記」に詳しいので、興味ある向きはその方で正しい情報を収集して頂きたい。

そこで我々このピアニストの音楽に接して尚且つそれを高く評価する者にとっては、そのプロフィールや信条などとは無関係に、なぜこうしたことになったのかと不思議に感じるのではないだろうか。まさにそれが我々が受け取っているこの演奏者の美学であり感性であり、それが創作者の場合の表出方法 ― その典型が大バッハの高度な修辞法に違いないのだが ― とは異なっていても、公に知られているこの芸術家像なのである。その意味から、先日のリサイタルの演奏評を読んで、また一般的な芸術の創造や表現を改めて考察して、興味深く感じるのは当然なのである。創造や表現とはその環境の一部としての全人格的な行いであることを前提と考えるからである。



参照:
Ein Bach für Studienräte und Stiftdamen, Jan Brachmann, FAZ vom 13.1.11
ハンガリーの人種差別の現状 (クラシックおっかけ日記)
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