Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

謳歌するための自然

2014-11-16 | アウトドーア・環境
一連の比較試飲が続いている。15ユーロ相当のリースリングが俄然注目された2013年産である。この価格帯の主力はラーゲンヴァインつまりPCであるが、高級な醸造所ではオルツリースリングに相当する。前者はハッキリくっきりと土壌と気候のテロワールを描かなければいけない。後者は、それに比較すると個性は弱くなるかもしれないが高品質であることが更に求められる。そのほかカルタヴァインや土壌別リースリングなどが存在する。

今回再登場するのはナーヘのモンツィンゲンにあるシェーンレーバー醸造所のフリューリングスプレッツェンであって、どちらかといえば赤色系のスレート土壌に近い。2013年は2012年のように貴腐抜きの健康な葡萄が収穫できなかったことで、品質は落ちるのだが、旨みは最初からあり嬉しいワインであった。その傾向は今も衰えないが、熟成の限界からか新鮮味が落ちてくると締りが若干無くなってきている。

要するに高品質で次ぎすまされた感じはないのだが、それでも他の醸造所のロートリーゲンスや赤スレート土壌のものからすると清潔感があって悪くはない。しかし、二日目までは気が付かなかったアルコールの飛びと酸化で三日目は残糖感が出てきてつまらないワインになっていた。基本的にはワインはいくら栓を〆ても三日も冷蔵庫に入れておくものではないが、まさしくこの糖が貴腐由来のものであり、アルコールが飛ぶことで葡萄ジュースの黄昏感が漂うのだった。

ヒーターが入ってから三番目だろうか。ヒーターを止めて就寝した。前日の目覚め感が悪かったからで、布団を脱いだ感じで風邪をひきそうになったからだ。寒いほどではなかったがしっかりと体温で暖まっていると深く眠れた。医学的にも証明されていることでるが温度が低い方が脳の細胞の再生に繋がり、眠りの価値を高めることができるのである。

以前はヒーターの具合などに不安がったので、冬中は薄く入れたままにしていた寝室のヒーターを完全に切ることで、ヒーターが全くない夜を過ごすことになる。早朝必要ならば素早く暖まってくれれば全く問題がないわけである。日差しがあるときは出来るだけそこで日向ぼっことして、自然に合わせて室内の生活も営むのである。



参照:
決して悪いことはないのだ 2014-11-11 | ワイン
眩暈しそうになるまで 2014-11-10 | ワイン
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安倍が解散に打って出る話

2014-11-15 | マスメディア批評
日本の総選挙の記事が載っている。安倍が解散に打って出る話である。その目論見が説明されているのだ。支持率は低下している今、解散するのは先四年間の政権を維持するための最高の方法であるということだ。経済におけるアベノミクスは ― 株価の上昇はドル換算にすれば全く上昇していないのである、つまりこれで本当に儲けれるのキャリートレードなどが可能な国際的な存在であり、決して一般日本人ではないのである ―、実質所得を下げていて既に座礁に乗り上げ、財政再建の国際公約を反故にしたとしても、選挙に際して消費税の第二次切り上げを先送りすることで大勝利できるというのである。

この機会を逃せば、来年早々の過半数が反対している原発再稼働や集団的防衛権などの実施を控えて、更なる支持の低下を迎える前に選挙に打って出るというのである。こうした説明は、夏以降山本太郎議員が各地で演説して回っていた図式そのものである ― 彼以外がそのような声を上げることなく、思惑として隠しており、選挙民には十分に伝えられていなかったことに留意すべきなのである。信用に足る政党など存在しないということなのである。

それでも政党支持率からすれば自民党が圧倒的な強さを保持していて、最新の調査でも36.6%もあり、選挙協力がままならない民主党の7.9%を大きく引き離し、それに共産党と国粋主義政党群の3.5%が続いているのだという。これからすれば政権与党の過半数圧勝は揺るがないものの、圧倒的多数の浮動票の行方に関心が集まっているというのである。

この記事を読んで、如何にも選挙というものは気分次第であることが読み取れるのだが、ここには沖縄知事選の行方などは触れられていない。勿論、その選挙結果の程度やその後の展開の速度感などは分からないが、選挙民の気分などまでは想像がつかない。マスメディアの取り上げ方などにも左右されるので、寧ろ天災や事故などのその他の制御出来ない事柄の方が心理に与える影響は大きいのかもしれない。



参照:
Alles auf eine Karte, Carsten Germis, FAZ vom 13.11.2014
待たされても感じる温もり 2014-11-13 | マスメディア批評
部分否定即ち全否定の阿呆 2014-09-19 | マスメディア批評
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成果を挙げて摩耗する

2014-11-14 | 生活
トレイルランニングシューズを修理した。左足の踵の外側にある外側から左右に支える箇所がはがれたからである。左右に一対横に張っていて、足がくねらない様になっているのだが、その一か所が離れた。

なるほど最近くねり勝ちになると思っていたが、関係があるのだろうか。これで二足目であるが、そこが離れるのは初めてである。もう数か月だけは使いたいので靴用の接着剤で張り付けた。底のプロフィールも大分摩耗しているが、雪道でも使ってみたい。氷河行はしなかったが、アルプスの石灰の大渓谷でも使いやすかった。新モデルはどうなるのだろう。

修理して翌日走りに出かけた。その差異を走り心地で感じるほど敏感ではないが足を捻るような状況にはならなかった。その代り足が極端に疲れた。自宅でも感じていたのだが、峠まで23分3631歩走ると、土踏まずから脹脛までが突っ張っているのを感じた。

このような感じは最近では初めてなので気になった。爪先立ちで走るようになって数年経つので、今更そうした無理が出るとは思わないので原因が分からなかった。しかし走りながら考えてみると、ここ暫くの走行距離が明らかに伸びているのだ。週末日曜日の頂上往復、火曜日の沢沿い往復、木曜日の峠往復、合わせて約20KM、140分、標高差750Mほどの量は多い。以前ならば長い距離走行の合間は身体ならしで終わらせていたのだが、時間があり無理なく距離が伸ばせれるようになったので、次々と走行距離が伸びているのである。

腱でも損傷させてはいけないのと、今年の大成果である走行距離の上昇を確立させるためにも慎重に解析分析が欠かせない。靴の状態はそれほど変わっていない。但し足元が悪い場所を長く走ることになっていること、気温が落ちてきている中での運動など、様々な要因を挙げていくことは可能だろう。

ベルリンでさよならコンサートがあったようだ。指揮者アーノンクールのベルリン最後の指揮であったようだ。ベルリン出身とされる指揮者がどこに住んでいるかも知らなかったが、ベルリンには育ったグラーツから四十過ぎになって戻って来てマスターコースを開いたとある。十月のコンツェルトムジクスのモーツァルトに続きヴィーナーフィルハーモニカーとのシューベルトで最後を飾ったようである。

この指揮者の録音や実演での音楽体験を思い浮かべると、モンテヴェルディのオペラ「ポッペア」公演以外にはあまり記憶がないのである。コンサートもオペラもそれ以外にはあまり思い浮かばない。録音も大分持っているのだが、やはりモンテヴェルディの「オルフェオ」のLPやTV映像など、キャシーバーベリアンの歌が入っているものや、あとはハイドンの交響曲などがあるが、結局レフェレンスとして生き続けるであろう制作は、最初の大成功作「イドメネオ」などだろう。交響曲や宗教楽やオペラセーリアと古典派音楽の専門で、それ以前の音楽となると権威を獲得することのなかった音楽家だったのだろう。音楽活動を終えたわけではないようだが、この後に何かを期待できるというようなこともないだろう。

いつものように目玉を突き出した写真が載っているが、まさしくその通りの音楽は、独特のアーティキュレーションの強調によって、緊張感を齎して新たなサウンドを展開した反面、音楽的なその瞬間はソリストなどの技量と音楽性以上の成果を上げていなかったかもしれない。当日の会場のコンツェルトハウスは、通常は無料で同地の管弦楽団を聞けるという立ち席まで完売していたということである。



参照:
消えた踵のエラ張り 2014-01-31 | 雑感
燻し銀の音楽談義の一時 2010-02-05 | 音
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待たされても感じる温もり

2014-11-13 | マスメディア批評
ヒーターがついた。今年初めての暖かさである。なにも修理されていないが、人が来て、取り換え箇所を撮影、計測して帰った。明朝にでも修理されればよい。そして、ネジが止められているのでお湯が回っていないこと指摘してそれを緩めて、暖まるようにして帰った。私自身でそれに気が付かなかったのが癪だが、手暗がりでその箇所がよく見えなかったのだ。ネジがついていることに気が付けば、この寒い二週間寒い思いをしないでもよかったのだ。なによりも風邪をひかなかったことが素晴らしいが、これで急に気が緩んで寝込みそうだ。

これでようやく冬籠りである。沸かしたコーヒーをヒーターの上に置いて、暖かい屋根裏部屋で寛ぎ、食事をして、仕事をするのだ。この住居で暮らしたいと思った理由の一つがこの屋根裏部屋での過ごし方への期待であったのだ。しかし現実にはリフォームされたばかりの建物の部屋はなかなか快適ではなかった。皆は夏の暑さを気にしたが、それは新たに棟上げされた屋根組の中のBASFの断熱材の厚さに守られて全く直射日光の影響を感じなかった ― 当初は窓も陽射し除けをつけていたのだが、それが破れてから取り外しても全く不都合を感じなくなっている。理由は分からないが、夏季は階下に居るからだろう。

肝心の冬季は、ヒーターがなかなか不調で、ここ数年になって初めてその成果を上げることができるようになったのである。そして、2011年以降は節約生活にこの屋根裏部屋生活がとても大きな意味を持つようになったのである。この二週間以上ヒーターが無い生活を送れたこともとても良い経験となった。一軒家などに住むことになればヒートポムプと調理の熱などを上手に使いながら、直火の暖炉を優先して生活するべきだと悟ったのである。それで充分である。

保坂正憲著「秩父宮」を春に入手して直ぐに読み終えた。期待していた登山に関する記録的な記述は少なかったが、その人脈などいろいろと参考になるものはあった。これに関してはもう一度目を通して、整理整頓してみたいと思うが夏の間は時間がなかった。それよりもこの書物は、むしろ全体的には大正・昭和期における天皇家のあり方が上手に描かれていて、秩父宮を尊敬するといわれる現在の天皇のその立場もよく分かるような内容となっている。311以降注目されるようになった天皇のリベラルな姿勢が決して戦後の進駐政策の成果だけではないということである。たとえば、直接は触れられていないが、裕仁天皇がヒトラー政権との三国協定を叱ったというその意味合いもこれを読めば十分に想像できるのである。

新聞にある日中両首脳の対面に関する社説が面白い。その映像は見ていないが、安倍がカメラの前で習が出てくるのを待って、語り掛けようとしてもシカトされたとある。不機嫌な顔の写真は一面のトップ記事であったが、そこまで酷かったとは知らなかった。小泉が北朝鮮を訪れたときに似ているのだろう。

勿論外交的には中共の大勝利で、安倍の「先の戦争に関する無感覚な態度」が支払った大きな代償とされて、一方中国がこのような場合決してそうした機会を逃がさないことを皆に示したと、尖閣列島問題を認めさせた中国国内向けの成果も挙げられる。そしてそれだけでなく、ヴィザの簡略化など加速する米中友好関係を視野においたその外交方針に適うものと評価される。要するに、北朝鮮の行方不明者帰還も解散・総選挙への切っ掛けと出来ずに、アベノミクスも最終段階を迎えたとされる第二次安倍政権の地に落ちた姿を客観的に描いているのだ。米国にとっても安倍などの連中はもはや使い物にならないのだろう。



参照:
Tauwetter?, Peter Sturm, FAZ vom 11.11.2014
部分否定即ち全否定の阿呆 2014-09-19 | マスメディア批評
不可能が可能になるのは 2014-08-09 | アウトドーア・環境
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熱いシャワーの美学

2014-11-12 | アウトドーア・環境
相変わらずヒーターの無い室内で暮らしている。ここまでやれば、2014年度の光熱費支払いを拒否する意志が揺るぐことはなくなる。そもそも十数件のアパートメントの全体の光熱費の二割強をその居住面積案分から私が支払っているので、先の冬に使用していた支払いたくない光熱費も二割以上負担することになるのだ。

ヒーターの無いことでどうしても床に就きがちになり、タブレットとの付き合いが増え、ワインの消費量が伸びるが、一方で暖かい部屋では味わえない愉悦もあるのだ。これは、HIFIファンならば知ってるように、スピーカーからの音質が向上するのである。機械は時間をかけて温める一方、室内温を下げることでより素晴らしい音が煌めくことになるのである。これはなにもHIFIに限らない物理現象であり、当然のことながら録音される場所の空気も温度が低ければ低いほど録音の音質は良くなる。文学的に「澄んだ空気感」と呼ばれるものなのだ。

そうした環境で、先日購入したCDからマーラーの交響曲などを鳴らすと、驚かされるものがある。シカゴ交響楽団でのアバド指揮によるマーラーの録音シリーズは馴染みのものであったが、デジタル録音は七番しか所持していなかったので今回追加購入して改めてビックリした。アナログ録音では聞き取れなかった細部やダイナミックスの絶妙さなどが究極の美しさであり、西欧化した磨かれた美しさに唖然とするのである。

録音の1980年ごろは、マーラールネッサンスのバーンスタインの指揮やシカゴの交響楽団を鳴らし切るショルティー指揮などの極め付けがあったのであるが、このシリーズも比較的早くレフェレンス録音として扱われていたことも思い出す。今回、新しい再生機でこうして鳴らすと、当時の管弦楽団録音の頂点であったことが確認されるのである。同時に、バーンスタインが日本などで披露したマーラー解釈実践の強烈な印象の呪縛から ― その解釈実践の説得力は権威でさえあった ― ようやくこうした録音芸術の美学で解放される思いなのだ。

しばしば陽射しがあった。沢沿いをキュロットとフリースで走る。往路13分2208歩、往復27分4438歩であった。沢の奥では陽射しが届かなかった摂氏6度ほどであったが、結構汗を掻いた。部屋にヒーターが無くても陽射しがあって、汗を掻いて熱いシャワーを浴びれば幸せだ。バルコンの内側で、膝に乗せたノートブックが温かい。



参照:
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
原音再生を意識させるCD 2014-08-08 | テクニック
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決して悪いことはないのだ

2014-11-11 | ワイン
パン屋に行ったが閉まっていた。二つ目の日曜日を誤解していた。二日の日曜日が正しかったのだ。そこでパンを諦めて車で家の前を通り反対方向へと、頂上への道へと向かった。朝九時を過ぎていたが寒かったので、そこに車は停まっていなかった。ゆっくりと時間を考えずに進んで、42分6440歩で頂上、降りてきて70分10900歩であった。これをどう見るか。

冬シーズンの始まりとしては、前回は万歩計を忘れたので、標準記録としてよいのではないか。無理をしなかったので、心肺系のトレーニングにはなっていないが、短パンとフリースでの走りとして、少なくとも良い全身運動になった。前回とは違って霧はなかったが、下りにつんのめるような走りではなくて、腕と脚の回転を軸に前傾姿勢で走り下りてこられたのは素晴らしい。これならば全く膝に負担がかからない筈だ。それにしては28分経過していて心外だが、距離の長さも示している。如何に登りで30分を切るのが難しいかを語っているのではないか。

こうしたジョギングテムポでどんな坂でも幾らでも走れるようになると、毎週走ることも不可能ではなくなる。この冬シーズンはこの高度差を何度もこなすことになりそうだ。そして一時間以上走り続けることが習慣になる。帰宅すると71.4KGであった。先日を服を着ていたが、76KGを超えていたのに比べると良い傾向である。

2013年の出来を調べるために、ザールから二本目のワインを開けた。一本目はアルテレーベンだったが、同じファン・フォルクセム醸造所のシャルツホーフベルガーである。例年は二種類の高級リースリングが発売されるのだが、2013年は健康な葡萄があまり収穫されなかったから限られた高級辛口ワインである。

その一つがこのシャルツホーフベルガーであるが、これもグランクリュクラスにはなっていない。それだけの品質に至っていないという意味だろう。試してみると、何よりも典型的なのは鋭い酸で、どれぐらい分解しているかは分からないのだが、ミュラーカトワール醸造所のそれとはまったく次元が異なる。その酸が前面に出ると全く糖も感じさせなかったので、いつものこの醸造所の分厚い感じはなくて、とても清涼感のあるものだった。時間がたつと変化もあって、徐々に重みが増すが、その前に十分にこの土壌のミネラルを感じることができた。それほど魅力のある土壌ではないが決して悪くはなかった。なによりも2013年特有のスパイシーな果実風味とミネラルの抽出は、ザールにおいても決して悪い年度ではなかったことを示している。



参照:
思いがけない請求書 2014-10-10 | ワイン
スレンダーながら多層的な23歳 2014-10-16 | ワイン
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眩暈しそうになるまで

2014-11-10 | ワイン
ボールダー課題である。今年中に終わらせたい課題がまだ解決しない。最後の乗り越しへの繋がりが完成しないのだ。再びそこだけを両手にぶら下がって、左足を庇の下に押し付けて、そこで体の軸を作って、右足を庇の上に乗せるのだ。乗せる時に足先をピシと伸ばして、平行棒の選手のようにすると右足先がしっかりと棚に引っかかる。その伸びた足を下に下げていくことで、腰が浮いて、最上部の棚に手が届くのだ。ぶら下がってから、問題なく三回ほど出来た。

それでも手前からそこへ繋げていくと右足が先にかかっているので、左足を上手に押し付けることが難しい。そこで右足を一度外して両手でぶら下がろうと思うのだが、これが結構厳しい。それでも、その前の段階で足を棚の間に挟む方法がとてもシャープに出来た。理由は分からないが、どうも足先まで神経が行っている感じが良いようだ。バレーリーナのような足使いである。

結局手前の場所を二三回もやると、今度は最後の足かけ動作が出来ないほど疲れてしまっていた。三回ほどしかできない運動は、筋力を百パーセント近く使っている証拠であろう。これを続けているので筋力がついてきている筈だが、まだ解決しない。しかし、疲れていなければ完全にできることが分かったので、次は最初から続けて試してみよう。上手くいけば一回目で出来るかもしれない。

それでも座ったスタートからでなくとも、前半から始めるとその最後の流れの前でかなり疲れている。心臓がバクバクするほどの筋力を使っているのだ。要するに技術的には殆ど完成したが、筋力がまだ足りないようだ。ヒーターが無いので、摂氏一度ほどになるととても寒かったので、12時間以上床の中にいたが、久しぶりに陽射しがあったので夕方登りに行ったのだ。

前日にPC「ゴールトベッヒェル」を開けた。2010年の古びたものを飲んだので、2013年のものも気になったのだ。開けてみてよかった。なんといってもスパイシーな香味が2010年の熟成香を完全に忘れさせてくれた。朽ちた木材の香りは、通常のリースリング香ではないが、天然酵母から湧き上がるそれは凄い。言い方を変えれば、このような香りを醸し出す培養酵母など売っているのだろうか?

ミュラーカトワールのなど15ユーロ前後のリーズリングを試してきて、ここでもうひとつ上のランクを試してみると、その質の差に愕然としてしまう。天然酵母であるとか木樽の割合とか以上に、そのリースリングの複雑さと繊細さは2013年に於いて一層明白な差として表れた。

ビュルクリンヴォルフのPCに於いてもその個性には大差があるのだが、最も単純な辛口と思われているこのゴールトベッヒャエルは、瓶詰め半年近く経って本領を表した。最初は、辛口のキュートな果実風味を楽しむだけのワインであったのだが、ここに来て強烈な個性を示しだしていて、この土壌からの最高傑作に仕上がっている。もちろん糖も抑えられているので瓶熟成を考えないが、隣の土壌のゲリュンペルの将来性を考えると眩暈しそうになる。

2013年産にどれほど期待してよいか分からないのだが、その減酸していない十年に一度も無い良質な酸と、ミネラル豊かでスパイシーな香味のリースリングは、ものによっては2001年を超える最高のワインとなるかもしれない。若干買い足しても良い気がしてきた。50ユーロもするグローセスゲヴェックスでなくてもPCで十年ほどの瓶熟成が期待できるからだ。



参照:
思いがけない請求書 2014-10-10 | ワイン
三つの醸造所を比較する 2014-11-04 | ワイン
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ワインの特別であるお話し

2014-11-09 | ワイン
サントリーのシングルモルトが世界一のウィスキーとして選ばれたと新聞にあった。原料を選択して経費を掛けなければ可能なので決して驚かない。スコッチでそれほど余裕のある蒸留所など無いのではないか?

これがワインの醸造所とは異なるところである。ワインは自分の地所で自分の手で収穫して、醸造しない限り高級ではなくなる。一貫した仕事が必要だからである。どんなによいテロワーからでも葡萄が健康で熟成していなければ幾ら手を掛けても高品質のワインとはならない。

自身の土壌の葡萄であるから、摘み取り時期から最初の扱いまで全て管理して醸造が行えるのである。こうした状況はワインの特徴であって、毎年天候などによって変わるのがワインであって、同じ高品質のワインなど存在しないのである。

二十年ほど前までは、シングルモルトのスコッチがいつも、特に冬場は手元にあったのだが、最後に購入したのは何時のことだったろうか?思い出せない。一つには肥満ではなくなったので、強いアルコールで食後を洗い流す必要もなくなり、そもそも強いアルコールが必要でなくなったのである。

アルコール比で考えれば最高のスコッチやブランデーもワインに比較すると安価である。それでも水割りにしても強いアルコールを飲みつけると体に良くない。ワインは、葡萄以外の何物も使わずに飲み物となる自然食品の極地である。なるほど高級ワインは高価であるが、食事との相性や味覚の洗練ではこうした高アルコール飲料とは全く意味が異なるのである。

2014年の収穫について報告が続く。一つはザールのザールシュタイン醸造所からのもので、五週間も懸けて十月中旬まで摘み取り作業を続けたとある。つまりに続きの長雨の後まで収穫を見合わせたのがアルテレーベンのようだ。なんと糖比重が100を超えている。もはやドイツの一流醸造所やグローセスゲヴェクスではありえない高糖価である。今でもモーゼル流域は陽に恵まれなくて、細く青白く北国特有のリースリングを収穫していると信じている向きが少なくないが、この報告がその迷信を完全に覆している。

勿論貴腐を選り分けて摘み分け作業が必要になったというが、酸に関しては一切の記述がない。これではまるで酔っぱらいの強いアルコールを求めてしまう姿勢とほとんど変わりない。摘み分けをしても2013年や2012年とは違って大収穫だと喜んでいるのを読んで、全てを理解しなければ通ではない。明らかにコンセプトが間違いであり、たとえVDPの新しい格付けに順応してオルツヴァインなどを出してもその質やコンセプトがVDPとは益々離れつつあるのだ。五週間も懸けた理由に今年からオェクスロワ品種を初めて収穫したとか、もはやVDP入れ替え対象になるようなことを漏らしている。

一方、プァルツからはゲオルク・モスバッハ―醸造所の報告である。先ず一週間前の降雨の前に収穫を終えている。当然である。それで四週間目というから、摘み取りの始めは同じ週であったことを物語っている。開花が早かったから当然であり、それでも暑い夏と夜の冷えで問題ない収穫が出来て、黄金色の葡萄が摘み取れたということだ。その結果、2013年の魅力ある香味の効いた果実風味の弱いアルコールに比べて、柔らかな酸のハッキリした果実風味の2014年産となる。

巷で言われたような、赤ワイン葡萄畑のようなドロソフィアスズキー蠅の異常発生と被害はなかったようである。因みにこのショウジョウバエは、1910年代にカンザワさんやマツムラさんによって発見された種のようである。



参照:
門前の小僧、高級ワインを語る 2005-03-19 | ワイン
高品質にありがちな滑らかさ 2014-09-05 | 試飲百景
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パンツとシャツで走り廻る

2014-11-08 | 歴史・時事
フィリピンでの米軍協定が問題となっている。米兵がルソン島のゲイを便器で窒息させたが、その罪が問えないからである。二十年前に一度は解放されたフィリピンであるが、中共の猛威から再び駐留した米軍との関係は、日米のそれと同じように、社会問題となっているのである。その殺された人物が来月ドイツ男性と結婚することになっていたようで、一際話題となったようである。

それよりも状況の悪い沖縄で知事選がある。二週間もしないうちに日本は大きな転換をそこで迎えるかもしれない。米国の諜報部などが盛んに活動していることは間違いないが、日本政府の対応次第では沖縄独立運動もスケジュールに上るとあって、今年最大の日本からの話題どころか、台湾などとの連携の仕方では極東の地図が変わるかもしれない。独立運動への動きは、中共にとってはなにがなんでも認めることが出来ない自主独立の動きなので黙ってはいないだろうが、愈々日本解体へと大きく歩みを進めることになるのである。日本人はここから初めて自主独立の精神を学ぶかもしれない。

ゆっくりと流して3400歩23分で峠に着いた。気温は摂氏9度ぐらいだったが、久しぶりに陽が射していたので、思い切ってパンツとシャツになって走った。北側斜面の陽が射さないところは寒い。まるで裸のようだ。わずかな陽射しも運動量も汗を滲ませるほどで峠に至り、下りの南側斜面も寒かった。便意を催すほどであまり快適ではなかったが、流石に降りてくるとそれなりに体は温まっていた。

ヒーターが無いので今のところは陽射し以外にはシャワーの温もりだけであるが、筋力が付いてきているからか結構耐えられているのだ。これで風邪さえ引かなければ素晴らしい。しかしワインの消費量と食事量は大きくなっている。

ミュラーカトワール醸造所で購入した三種類の三本目のPC「ヘーレンレッテン」を開ける。ミネラルの感じは、黄土と石灰の堆積の特徴である。だから鋭い感じがあるのだが、丸くなるのも早いに違いない。近辺では、土壌としてはモイズヘーレなどが近いだろうか。しかしそれとは違って土壌は軽く、地所の高度があるので、酸がより強くでる。2013年産は何種類試飲したか分からないが、この酸が最も鋭い。どれだけ分解しているか分からないが、酢酸臭もあるのである程度の割合なのだろう。

香りも沸き立ち、ビュルクリンヴォルフを想起させるほどだが、もちろんここでは培養酵母が上手に使われているのだ。香味はそのミネラルも含めて複雑さもあるのだが、酸が前面に立ちはだかるので吟味し難くなっている。それでもこの土壌感からすると、二年も寝かすとふにゃふにゃになりそうなのだ。コンセプトは間違っていないが、テロワーの限界があるので価格設定と、2013年のような良年が続かないことを考えると、同価格帯のシェーンレーバー醸造所の「フリューリングスプレッツヘン」のような位置を確保できるかどうかである。



参照:
三つの醸造所を比較する 2014-11-04 | ワイン
なんと内容の濃い試飲会 2014-10-29 | 試飲百景
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「神々の黄昏」再生

2014-11-07 | 
「神々の黄昏」のLPを流している。八月のバイロイト体験前に準備として、色々と聞いていたが、その時点でもこの楽劇の特殊性と、大人の立派な音楽を奏でるフルトヴェングラー指揮の音楽の紙芝居的な面に気がついていた。今回改めてその放送録音を聞いてみて、この指揮者がこの楽劇を十分に咀嚼し切れていない面に気がついた。

調べてみると、晩年にマンハイムの国民歌劇場のために「指輪」の演出を試みているが、その劇場と初めてバーデンバーデンで1917年に公演するころには、この楽劇の問題点を語っているのである。それは、「ヴァークナーの誇張されたロマンティック」として四部作として批評されていて、アンティヴァークナーの子供のときからの筋金入りのものであることを再確認したのだった。

こうしたこの指揮者の姿勢を見れば、晩年にはヴァークナーの楽劇等で成功も収めるのだが、一部の最高傑作群においても指揮者の理解の濃淡が少なからずあり、「指輪」に関しては特に晩年まで時を待たなければいけなかったことが分かる。当然のことながら、現在の聴衆がこの第三夜に関しては音楽的な成果として周知しているのとは裏腹に、この指揮者にとっては扱い難い音楽であったようだ。

立派なドイツの音楽的な解釈と実践が、この楽匠のそれもある意味集大成的なこの楽劇において上手くいかなかったのは、その音楽的な構造に起因しているのは言うまでも無い。ある年齢に達さないと理解できなかったものとしての言い訳がそこにあるようだが、「神々の黄昏」の展開とその音楽に注目するとフルトヴェングラー式の「有機的な音楽的構造」よりもプリングスハイムの言によれば「あまりにも突発に動機が飛び移る」ハッチャケた進行が味噌になっているので、どうしてもその理解に限度があったことが推測される。

私自身、長年のヴァークナーとの繋がりにおいても、バイロイトでこれを体験することで初めてその音楽的な意味合いと構造が理解できたぐらいであるから、ベートヴェンのソナタ構造を最も有機的な音楽と信奉する音楽家においては可也劇場的であまりにも大衆的な作品であり過ぎたに違いないのである。

ここで、改めて当時のヴァグネリアンであり名指揮者クナーッパーツブッシュが録音する筈であった、カルショー制作のショルティー指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの名盤を聞いてみる。この対極にあるような演奏実践と録音で誇張を伴って鳴り響くところこそが、実は楽匠の真意であったと悟るのである。初期中期のロマンティックなオペラでの誇張は、マイスタージンガーの明朗さやトリスタンにおける進行を以って、全く異なる劇場効果がここでは目的とされている。

フルトヴェングラーがイタリアの上演で「ドイツ語も分からないのに」と評する言葉の問題もコンサート形式で演奏を好んでしたことも、1936年に一度バイロイト祝祭劇場での経験していた筈のその音響バランスの真意に関連していることだったのだ。杮落とし時にもあまり評判の良くなかった音響もそしてその音楽的効果も実はこうした「神々の黄昏」における創作の真意として理解されるのである。

これらをして、このカルショー制作の録音の価値とギャグの連続となったカストルフ演出の百年の記念上演の価値を再確認するのである。初演138年後になってリヴァイヴァルするような劇場作品とはどうしたことか、それは偶然であるとは容易に言えないのではないか。

なかなか興味が収まらないので序にドレスデンで録音されたCDを皿に乗せた。ブリュンヒルでが弱いといわれている録音でもあるが制作録音であるから正確に余裕をもって歌っている。指揮者ヤノヴスキーの演奏解釈が超一流ところとは比較できないといわれるのであるが、何も意味あり気なアーティクレーションや有機的な流れに留意しても困難な「神々の黄昏」においてはダイナミックに丁寧に鳴らしていることからショルティー指揮のそれのように比較的成功しているのではないだろうか。オーソドックスな録音なので劇場的な感覚は狙われていないが、ドレスデンの座付き管弦楽団精妙な表現も聞ける。但し、テムポなどは全体の流れの中で設定されているようで、あるときはせかせかしたりと本来の効果が生じていない部分も少なくないようだ。なによりも言葉が聞き取れて、まるで室内オペラのようで面白い。



参照:
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
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責任が及ばない敗戦研究

2014-11-06 | マスメディア批評
新聞に北京発で北朝鮮の話が載っている。CSUの政治家が訪朝するなど関係強化が進んでおり北京に負けないようにベルリンと平城が太いパイプを築こうとしているようだ。日本以外の欧米にとっては核開発中止だけが解決すれば経済援助が再開される。人権問題も課題として北朝鮮は認めているようであるから、意外に早い時期に国際的な立場を築くようになるかもしれない。

北京が何はさておき連邦共和国をEU内のパートナーとしているように、南北朝鮮は分断されていた東西ドイツを同一視しているようであるが、それは参考にはならないと明白に表明されているのは当然であろう。

推測するに若い三代目は体制が崩壊した後も無事に暮らせるようにと画策しているのだろう。身を隠していたときに盛んに話されていたように実質的には集団指導体制がとられているとする考えると、その間に起こった柔軟な対応や老獪な感じに若い指導者の匂いがしないことの合点が行くのである。

北鮮の十分に見識のある指導層ならば旧大日本帝国のような元首に責任が及ばないような敗戦を研究しているのだろう。一方の当事者である安部内閣が理想とする政治行政形態がそうした責任逃れの構造であって、そうなるととても同じような思考構造であって面白い。ただし、対独への関係強化への道など明らかに北京との疎遠を補いつつ、中共に対して牽制するような政治的な動きとなっていて、日本の外務省のそれとは違って遥かに実質的で老獪な外交姿勢が示されている。あれだけ粛清されても平城は本当のエリートが指導していることがこれで分かるのだ。



参照:
必要な改革への粛清? 2013-12-15 | マスメディア批評
日本も普通になりたがっている 2014-07-16 | マスメディア批評
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夜長をタブレットで観劇

2014-11-05 | マスメディア批評
ヒーターを点けていないので - 点けたいのだがメーターが故障していて止められてしまっている -、夜は八時過ぎに床に入る。となると、ベットで映画などを見る時間ができる。残念ながら読書とならないのは、読書はもう少し快適な環境が望まれるからである。そこで観たのは前回の「逃亡者」に続いて「刑事コロムボ」シリーズである。これも新しいシリーズはドイツ語で古いシリーズは日本語で観ている。今回観たのは「セックスと既婚刑事」と称するエピソードである。見覚えが無かった。

やはりその筋運びや見せ方などが見事だと思った。これも逃亡者や寅さんシリーズと同じでパターンや時間運びは決まっているのだが、殺人犯の刑事の視線と第三者の視線が交差するようになっていて視聴者をあきさせない。科学的証拠や監視カメラになれた現在の我々からすれば荒唐無稽に見えるような犯罪や捜査が展開するのだが、この台本作家の真骨頂は犯罪心理を描くことにあるのだと改めて気がつくのだ。

その昔も二国語放送の初期にチューナーを購入して観た記憶があるのだが、今回改めて観ると、LAが舞台でも各界有名人の殺人犯の台詞がとても魅力的なことに気がつく。流石にハリウッドの歴史や人材がこうしたところに活かされているのだろう。かつて英語の勉強と思って試みていたときには筋を追うのがやっとで分かりようも無かった台詞回しである。そもそもこのシリーズは何語で観ようと筋もややこしくて全体における意味をつかむのが難しいように出来ているのだが、もともとそこに力点が無いとすれば敢えてそのように拵えてあるのだろう。だから、有名俳優が演じるそれがお茶の間で楽しめるというのが売りでもあったのだろう。

コロムボを演じるピーター・フォークもいかにも馴れ馴れしいイタリア系移民らしい感じであるが、毎回のように主役が変わるというのが凄い。その後に「スパイ大作戦」のピーター・ブレーブスの中頃のシリーズを観たが、ジム・フェルプスの銀髪(プラチナブロンドとは呼ばれていなかった)ほどには強い個性が無かった。「スタートレック」の船長のウィリアム・シャトナーが出ているエピソードであったが、騙されて過去に戻るような情景の演技はまるでスタートレックのタイムマシン効果と同じ演技で、まるでそれを専門としているようで面白かった。

先日亡くなったジェームズ・ガーナーの「ロックフォードの事件簿」や「新聞記者コルチャック」など、クリント・イーストウッドの「ローハイド」までは戻らないでも多くの観たいシリーズがYOUTUBEに盛沢山である。

一夜明けて、週明けの一走りは沢沿いを奥までつめた。往路13分2200歩に対して、往復26分で5350歩の少ない歩数が興味深かった。登り主体のはずだが、往路の短いピッチが影響しているのだろう。



参照:
証人喚問を終えて摩訶不思議 2014-07-24 | 生活
先駆けの合理的判断 2014-05-24 | 文学・思想
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三つの醸造所を比較する

2014-11-04 | ワイン
注目のミュラー・カトワール醸造所のワインを他のものと比較する。先ずは、プファルツで名声を獲得したレープホルツ醸造所の我が愛飲リースリング「オェコノミラート」である。2013年の最後の一本である。予想通り時期を過ぎていた。糖を絞っている分、バランスが悪くなっていた。かなり早めに収穫したのであろう。上位のもののように蜂蜜感などは全く無く、酸は効いているのだが分離したような感じであまりよくない。これならば現時点では、ミュラーカトワールのオルツリースリングの方が上である。なるほど土壌感は素晴らしくても飲み干してしまわなければいけないワインと、まだ先が少しありそうなワインでは価値が違う。要するに15%増しの価格設定はここでも証明された。

さて次は、2010年のグロースゲヴェックス「ブロイエル」との比較に、これまた愛飲のビュルクリン・ヴォルフ醸造所のPC「ゴールトベッヒャエル」2010年である。除酸の影響をあまり受けていなかったミュラーカトワールのGCと比較して、どのような経過をたどっているかが興味があった。通常は一年も経たずに飲み干しているワインであるが、2010年の酸の変化を知りたくてパイロットとして保存しておいたものである。

結果は、単純なドッペルザルツ法ではなく手を掛けたにも拘らず、石灰の影響を受けていた。色も黄色くなっていて、その丸くどんよりとした味筋は全く石灰土壌のそれなのだ。さらに可也の辛口に拘わらず残糖感までがあって、瓶完熟していない現時点としても不満足である。そもそも寝かしておくリースリングではないのだが。これならばミュラーカトワールの方が上手な処理をしていることになる。このPCに関しては全くどうでもよいのだが、この様子だと上位のグローセスゲヴェックスなどの瓶熟成にも不安を覚える。現在のところ2011年も難しいと聞くので、なかなか当たりが出ないことになる。

要するに減酸処理は、その他の天然酵母や木樽の加点要素以上に、風味を損なうという意味ではマイナス影響が絶大だということになる。そもそも天然酵母を利用しているからといって本当に偉大な瓶熟成をなすかどうかはまだ分からない。天然酵母は、正確にそのテロワールを表出するに留まるとしておくべきだろう。的確な培養酵母のほうが思いのままの発酵に至るという利点もありえるかもしれない。

味筋としては、全く好みではないビュルガーガルテンの「ブロイエル」と好みの「ゴルトベッヒェルの価格差は小さくない。だから直接には比較できなかったが、いろいろな意味でプファルツの名醸造家ビュルクリン・ヴォルフやレープホルツと比較できるだけにミュラーカトワールの品質が上がってきている。このレヴェルのダイデスハイムの醸造所はもはや存在しない。

土曜日に続いて、今度は峠まで走った。ゆっくりとしたスタートであったが、峠に21分、3040歩はまずまずである。降りて来て、36分5800歩は前日の疲れがあったにしては十分だ。それほど早く走れるほどには回復していないのだ。



参照:
ミュラーカトワールの楽興の時 2014-10-31 | 音
名人芸における本質的なもの 2014-10-28 | 文化一般
ライフスタイルにそぐわない 2014-10-25 | ワイン
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エリートによる高等な学校

2014-11-03 | 文化一般
新年度の時期だからか教育関係の話が文化波で多い。今朝聞いたのは、OECD国との比較での高等教育の大衆化の話題であった。それによると、大衆化してきたと見えるドイツでも、順位は最低で、オーストリアやスイスとなると更に下回るというのである。

しかし、EUで最も高等教育率の高い英国と比較して失業率は半分ほどしかなくて、就業率が高いばかりではなくて、所謂社会流動性はずば抜けて高いというのである。要するに米国などの様に、皆が高等教育を受けるために苦労していても益々社会格差が広がっていくのと比べて、格差無い社会が実現しているというのである。これが東ドイツの住民を入れてあるというのであれば、とんでもない連邦共和国の成果である。

最近は日本も米国並みにマスター習得など職業への資格教育のようになってきているようであるが、当然のように米国の社会格差と同じように日本でも社会格差が拡大しているのは事実のようである。その背景には、戦後の社会の平均化と高学歴化によって期待されていた社会格差の減少と総中産階級化を通って、さらに次の段階として高等教育の大衆化と社会格差の拡大が進んだということらしい。

つまり、日教組などが政府とグルになるかのようにして丁度55年体制のように推し進めてきた平均化というとんでもない教育や「社会格差の是正」との名目は実は社会格差の増大を準備したということになるのである。実質的にはエリート教育の否定によってとんでもない支配層と米国の手先となるようなパワーエリートを養成したことにあったのだ。

その背後には、経済や金融社会の変化があるのは確かであるが、一方では連邦共和国はそれを見込んで高等教育よりも職業教育に力を注いでいたといえるかどうか?しかしそこには、ナチズムを経た継続よりも否定が前面に出た戦後の西ドイツの姿があったことは確かであろう。

我々はここでどうしても直接間接に文化的に大きな影響を与える劇場空間や音楽劇場などに関心が移ってしまうのである - これは劇場というものが教育の一環とされる連邦共和国では当然の思考である。特にこの夏に体験した東独のカストルフ演出「指輪」のギャグの数々などはそれが体系的な主張を打ち出さなかったことで余計にカウンターパンチとして徐々に堪えてきていることに気がつくのである。それはマルクス経済学否定の実証ともできるだろう。

ヴァークナーの楽劇のなかの通俗性と俗物主義は、確かに啓蒙主義の一面として表徴化されているものであるが、そうしたものがどのようにナチズムにおいて開花して、また戦後の社会において再び復興するようになったかなど、多くの論文が書かれる材料となっていることは周知のことである。その中でも「ニュルンベルクの名歌手」など職人賛歌のそれは国粋主義の劇場作品として大いに利用されたのだった。それは丁度ミートスとしての物語がパートスの説得力を発揮することでもあり、それは啓蒙主義の一面として合致するものではなかったのか。

しかし「指輪」においては、劇場効果という意味において慎重にパテーティッシュなものは厳選されていて、むしろエトースなる抑圧なりを俎上に載せる作業が行われているのだ。当然のことながら総合的な意味において交響作家グスタフ・マーラーなどに与えた影響がここにもある。

なにもここでアドルノやホルクハイマーやその後のハーバーマスなどの啓蒙への批判などを取り上げる必要も無く、劇場文化として、その創造としてここで扱われている世界観がナチズムによって歪められたような偏狭なものではなくて、近代どころか今回のような脱構造のアンチイデオロギーの流れの中での劇場体験としての存在するのである。

最初の命題に戻れば、社会格差を最小にするイデオロギーやそれ以上に市場淘汰を尊重するイデオロギーの対決としての教育行政を指し示すことが民主主義的な社会の構築などではないのである。それはディべートのロールプレーでしかないのである。そのようなことはどうでもよいのである。それ以上に連邦共和国の課題はエリートの育成であり、如何にこうした劇場文化を扱うかということなのである。それが民意の高さということになるのである。



参照:
向上心は悪くは無いのだが 2014-10-27 | 文学・思想
意味ある大喝采の意味 2014-08-06 | 文化一般
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
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修辞法の積み重ねの表現

2014-11-02 | 文化一般
文化欄に、作家のエステルハージ氏の写真と並んでアルフレード・ブレンデルの写真が載っている。ヴァイマールの図書館での催し物のようである。そこでは、修辞法の一分野である嘲笑や笑いの文化について語られている。欧州文化におけるこの手の修辞は近代の欧州文化の粋であると言えるかもしれない。

音楽におけるバッハの修辞法やベートーヴェンの修辞法に関しては語りつくせるものではないとしても、指揮者のヘルヴェッヘやブレンデルのこの面での功績も決して過小評価されるべきものではない。こうしたところにギリシャ文化などを源ともする欧州文化の粋があることが、ジャーナリズムや芸術文化活動の質として表れていることも間違いないであろう。

比較的最近ネット映像で落語家柳家小三冶の落語を見てから、その後勲章などが賞与されたと聞いた。なるほど師匠のそれよりも名人芸が展開されていて当然の受賞だと思った。嘗ての音楽雑誌などでよく顔を出していたときには、どこか線も細くこれほどの芸をするようになると思っていた人は少ないに違いないがどうなのだろう。古典芸能であろうが、ジャーナリズムであろうが、基本はこうした修辞法の積み重ねであって、表現そのものに違いは無いということなのである。

京都にレーダーが施設される件は、ポーランドなどの例では国を挙げての最大級の外交政策であり、それによって合衆国との関係を利用するというEUやNATO内においても最大級の事件であった。現在のウクライナ政権もポーランドを手本とすることで、初めて西欧や合衆国の手下にもなることなくロシアの衛星としての重力圏を初めて利用することが出来るようになるのである。それが外交であり自主独立ということに他ならないのだ。

しかし京都の例を見るまでも無く、こうした重要な案件がなんらの政治的な課題として扱われること無く、一部の利権を代表する形で粛々と進められている様子は異様でしかないのである。やはりそこには、メディア以前に表現としての創造力や想像力が彼の国の文化には欠乏しているとしか思えない。

今週は、一度しかボールダーに行けなかったが、結構走ることが出来た。火曜日の短い距離の沢沿いの往復に続いて、木曜日には長い距離を往復した。往路は12分2010歩ほどで、往復で25分4050歩とまたもや25分を切れなかった。理由は分からないが、もう少し早めにスパートをかけないといけないようだ。金曜日は休日の前日であり買い物によってから、近所のいつもの場所に繋がる谷を久しぶりに辿った。道を間違って隠れたボールダーのある場所に向きを変えた。ボールダーとしては試してみないと分からないが、車から2キロ先と遠すぎる。帰り道にいつものところで出会うオヤジ達の走るルートの辿って帰ってきた。暗闇になっておぼろ三日月頼りであった。土曜には、パン屋が休みであるから頂上を目指して高度差500Mほどを駆けた。万歩計を忘れたのでゆっくりと上がったが、往復66分はやはり疲れる。上部は陽が照っていたが、降りてくると小雨交じりのような霧の中だった。Tシァツと短パンで雲の中を舞い降りるように手足を最大限伸ばして走り降りる感覚は、そのたしたことが無いタイム以上に素晴らしい気持ちであった。走ることがこのように楽しい感覚であるのは珍しいことだ。



参照:
とても そこが離れ難い 2008-11-28 | 音
全脳をもって対話(自問)するとは? 2010-04-05 | 音
洗濯してみないと分らないが 2014-07-04 | 生活
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