Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

エリートによる高等な学校

2014-11-03 | 文化一般
新年度の時期だからか教育関係の話が文化波で多い。今朝聞いたのは、OECD国との比較での高等教育の大衆化の話題であった。それによると、大衆化してきたと見えるドイツでも、順位は最低で、オーストリアやスイスとなると更に下回るというのである。

しかし、EUで最も高等教育率の高い英国と比較して失業率は半分ほどしかなくて、就業率が高いばかりではなくて、所謂社会流動性はずば抜けて高いというのである。要するに米国などの様に、皆が高等教育を受けるために苦労していても益々社会格差が広がっていくのと比べて、格差無い社会が実現しているというのである。これが東ドイツの住民を入れてあるというのであれば、とんでもない連邦共和国の成果である。

最近は日本も米国並みにマスター習得など職業への資格教育のようになってきているようであるが、当然のように米国の社会格差と同じように日本でも社会格差が拡大しているのは事実のようである。その背景には、戦後の社会の平均化と高学歴化によって期待されていた社会格差の減少と総中産階級化を通って、さらに次の段階として高等教育の大衆化と社会格差の拡大が進んだということらしい。

つまり、日教組などが政府とグルになるかのようにして丁度55年体制のように推し進めてきた平均化というとんでもない教育や「社会格差の是正」との名目は実は社会格差の増大を準備したということになるのである。実質的にはエリート教育の否定によってとんでもない支配層と米国の手先となるようなパワーエリートを養成したことにあったのだ。

その背後には、経済や金融社会の変化があるのは確かであるが、一方では連邦共和国はそれを見込んで高等教育よりも職業教育に力を注いでいたといえるかどうか?しかしそこには、ナチズムを経た継続よりも否定が前面に出た戦後の西ドイツの姿があったことは確かであろう。

我々はここでどうしても直接間接に文化的に大きな影響を与える劇場空間や音楽劇場などに関心が移ってしまうのである - これは劇場というものが教育の一環とされる連邦共和国では当然の思考である。特にこの夏に体験した東独のカストルフ演出「指輪」のギャグの数々などはそれが体系的な主張を打ち出さなかったことで余計にカウンターパンチとして徐々に堪えてきていることに気がつくのである。それはマルクス経済学否定の実証ともできるだろう。

ヴァークナーの楽劇のなかの通俗性と俗物主義は、確かに啓蒙主義の一面として表徴化されているものであるが、そうしたものがどのようにナチズムにおいて開花して、また戦後の社会において再び復興するようになったかなど、多くの論文が書かれる材料となっていることは周知のことである。その中でも「ニュルンベルクの名歌手」など職人賛歌のそれは国粋主義の劇場作品として大いに利用されたのだった。それは丁度ミートスとしての物語がパートスの説得力を発揮することでもあり、それは啓蒙主義の一面として合致するものではなかったのか。

しかし「指輪」においては、劇場効果という意味において慎重にパテーティッシュなものは厳選されていて、むしろエトースなる抑圧なりを俎上に載せる作業が行われているのだ。当然のことながら総合的な意味において交響作家グスタフ・マーラーなどに与えた影響がここにもある。

なにもここでアドルノやホルクハイマーやその後のハーバーマスなどの啓蒙への批判などを取り上げる必要も無く、劇場文化として、その創造としてここで扱われている世界観がナチズムによって歪められたような偏狭なものではなくて、近代どころか今回のような脱構造のアンチイデオロギーの流れの中での劇場体験としての存在するのである。

最初の命題に戻れば、社会格差を最小にするイデオロギーやそれ以上に市場淘汰を尊重するイデオロギーの対決としての教育行政を指し示すことが民主主義的な社会の構築などではないのである。それはディべートのロールプレーでしかないのである。そのようなことはどうでもよいのである。それ以上に連邦共和国の課題はエリートの育成であり、如何にこうした劇場文化を扱うかということなのである。それが民意の高さということになるのである。



参照:
向上心は悪くは無いのだが 2014-10-27 | 文学・思想
意味ある大喝采の意味 2014-08-06 | 文化一般
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
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