Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

習っても出来ないこと

2018-01-17 | マスメディア批評
小澤征爾登場のNHKの朝番組を有料で観た。ベルリンに登場することになっていたが、誰も期待していなかった。前回のデジタルコンサートすら見ていない。ラディオ放送の内容で充分だった。しかしこのインタヴューには興味を持った。

小澤の語る拍子の難しさは、まさしく「とんとん拍子」と戦っている天才日本人指揮者の永遠の葛藤であり、喜歌劇「こうもり」序曲のニ分の二拍子の打ちは、今キリル・ペトレンコがミュンヘンで「コルセットの紐を締めるように」課題として指示しているものと関連していて、今し方聞いたバイロイトからの中継録音でも気が付いたことにも相当している。

なぜ先日の「ラインの黄金」であれだけ時短をしながらも反対にゆったりとしたリズムを刻めているかのまさしく歌手のアーティキュレーションを超えた音の流れでもある。それは後者では、「ヴァルキューレ」一幕で歌っているのは亡くなったボータであり、今週登場するカムペなのだが、カムペのまさしくテキストのデクラメーションと同じくする謡いぶりの相違でもある。要するにメトロノームは大切なのだが、それはただの基準であって、それだけで決まるのは大枠だけでしかない。

ヨハン・ボータを生で聞いてからもなぜあれほどに有名なのかは全く分からなかった。なるほど声もその質も役に合うのかもしれないが、既に2014年でも必ずしも充分ではなく2015年の録音も威力もない。なによりもここで話題になっている歌詞のそれがそこまでには至っていないので、言葉も聞き取り難く、カムペのそれと比較するまでもなく逆に自由度が全く取れていない。小澤が「度胸が要り、日本の音楽家などはおとなし過ぎる」と言うことになる。この場合は言語が絡んでいるので特に判断しやすいと言うか、それ以外にはないと言うことになり、オペラにおける歌手と指揮者の合わせ方の聴き所でもあり、ヤホの歌でも話題として触れた点でもある。まさしく、「オペラは、歌手の歌が上手いこと以上に、管弦楽が大事。」とする小澤の発言を奇しくもここ暫くここで触れているのだ。

しかし小澤ほどの才能があり乍らも、まさにトウサイ先生の下でその楽譜の読み方を修行しても、未だに苦慮して、それでも儘ならぬことが存在するのだから「天才の世界」であるというその通りなのだ。凡人はこうした芸事にはそれも職業として手を出すべきではない。教えて、習ってどうにかなるものではない。

「ヴァルキューレ」一幕の録音なども聞き始めた。NHKホールでのそれは、持ち歌の声とは違うのかもしれないが、クラウス・フォークトのそれは格別素晴らしかったと思う。あれほど立派に歌うパントラーコーヴァのそれがその領域まで行かないことと対照的だった。なによりも言葉のリズム感が違うので、ドイツ語の特にホッホドイチュの小気味よい感じが出ない。まさしくツェッペンフェルトの良さもそこにある。それが管弦楽にフィードバックされるのだが、そこはまさにヨーナス・カウフマンがペトレンコを指して言うように「ちょこちょこっとやってしまう」能力が驚異なのである。なるほどボータのそれは演出的にも受け身で、能動的なジークリンデがリズミカルに切り込んだのと対照的だったのだが ― 恐らくそこがパスキエ女史のアーティストプロデューサーとしての腕の見せ所だったのだろう ―、今回はもう少し丁寧に更に制御されたカムペの歌唱が聴けるのではないかと期待する所だ。

Gipfeltreffen #conductors #sejiozawa #kirillpetrenko #bunkakaikan

Ein Beitrag geteilt von Lars Jakob (@lars_jakob) am <time style=" font-size:14px; line-height:17px;" datetime="2017-09-17T05:15:55+00:00">Sep 16, 2017 um 10:15 PDT</time>




参照:
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
とんとん拍子でない帰還 2016-04-10 | 文化一般
WalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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引けてから一直線

2018-01-16 | 雑感
パン屋が開いた。気温も下がったが今年初めて沢沿いを往復した。それはそれで気持ちが良かった。その前に燃料を入れた。ミュンヘンの往復704㎞で残りが殆ど無くなっていたからだが、金曜日に出かける前にもう一度満タンにしなければいけない。今回もナヴィのCDRも発見されておらずシステムが上手く動かなかったが、帰りにはニムフェンブルク城に近づく感じで昔のようにアウトバーンにアプローチ出来た。結局シュパルテンビーアの工場の前を通るようでないと、どうしても北へ北へと導かれてしまうので北側のリンクに出てしまう。中央駅前を通ってと混雑時には走り難いのだが夜中は信号もあまりない。距離的には有利で、往路のようにダッハウワーシュトラーセからどこかで北寄りに侵入してくる必要もない。兎に角、右折右折と度々北側へと導かれるのだが、シュパールテンを通り過ぎるまでは直進して我慢するのである。漸く土地勘が出てきた感じがする。以前はもっと簡単だった。

それでもアウグスブルクを抜け切るまでに一時間ほど経過していた。21時前に駐車場を出て、帰宅したのは零時前だった。比較的早く走れた。駐車料金も先払いで14.80ユーロと安くついた。但し土曜日の夕方で駐車場が混んでいたので階下まで降りて停めると、隣の車でごそごそしていた。親爺とばあさんだった。明らかに劇場に出かける前に準備していた。カーテンコールの最後まで居て、引けてから戻ってくると、隣の親爺とかち合った。ナムバープレートから「ヴュルツブルクまでですか」と聞くと「三時間以上掛かる」ということだった。「プファルツで、こちらは3時間半で少し遠いな」と答えて、「また来週」と言うと、「またここに停めるか?」とか話していた。

先方さんは上着を脱いでセーターに着替えてという感じで、全く世の中には似たような感覚の人がいるものだなと思った。ばあさんの方も靴をビニール袋にいれたものを履き替えてといった感じで、「あんたも好きね」と思った。引退している感じでもなかったので、何とか師の感じだが、態々四回来るだけの時間と気持ちがある人なのだ。自身は、最近は帰りはそのままで車を動かすことの方が多い。以前はネクタイを緩めて、お隣さんと同じように上着を脱いでと儀式があったが、これだけミュンヘン往復になれると必要あり無しがよく分かり、先ずはアウトバーン、アウグスブルク、ウルムまで、そこまで来ると残りの燃料、喉の渇きなどを鑑みて、走らせながらのバナナやお茶などを取って、帰宅までを計算する。今回は道路も乾いて、週末の交通でとても走り易かった。冬タイヤでの最高時速走行も暫くありで、その割には何とか無給油で帰宅も可能となった。それでも夏タイヤと冬タイヤの燃費はやはり違うようだ。

バイロイト祝祭の場合は殆どがお泊りなのでまた違うのだが、遠方から四回通勤はもう一つきつい数寄者である。なるほど前夜祭では並びに一つ空きがあったが、「ヴァルキューレ」ではお休みはないだろう。「ラインの黄金」のハイライトについても書かなければいけないのだが、楽譜に目を通さないといけないので、そして「ヴァルキューレ」の準備で一日一幕づつ進めても時間が掛かるので、始めなければ間に合わない。昨年の日本での一幕上演の録音も詳しく聞きたい。



参照:
ペトレンコが渡す引導 2018-01-14 | 文化一般
ポストモダーンの波動 2018-01-15 | 音
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ポストモダーンの波動

2018-01-15 | 
承前)忘れないうちにメモしておかないといけない。前夜祭「ラインの黄金」は一幕もので休憩がないのだが、上演時間の二時間半近くは結構長く感じた。端の席に座って不自然な姿勢になっていたのも原因だが、バイロイトではどうだったか?あまり記憶にない。当夜は暗い中を宿まで車を走らせたようだが、終演までの時間が経つのが思いのほか早かったと思う。一つには上へ下へのカストルフ演出の次から次への動きに忙しかったためもあるかと思うが、二年目のキリル・ペトレンコのテムポも当日の実況放送の通り早かった。それに比較して、今回のクリンゲンブルク演出のます体操の動きはあるのだが、抽象的な動きとなっていて時間が比較的ゆっくりと進む。そしてテムポよりもリズムにもその時よりは余裕のある指揮で、決して滞ることはないのだがせかせかした印象は全くなかった。一つ一つの音符を拾って行くだけでも、簡単に飛ばせない。 ― スペイン語で書いている人が、初日とツィクルスAの双方のタイミングを計っていて、一回目2時間16分、二回目2時間13分としている。因みにバイロイトでは2014年が2時間16分30秒、2015年2時間15分24秒だった。全く印象とは反対でテムポは段々早くなっている。

その最も顕著な響きは、バイロイトの時に沈没しそうになった流れの渦は大きくうねることはなく、寧ろ方々で岸まで至って小さな渦が消えて行くような塩梅で、そこに剥き出しの音が飛び交うような演奏であった ― 要するに蓋無しの演奏実践となるのだろう。それでも演出に従って、いつの間にか始まるような太古の目覚めにおいても粒よりの揃った響きで始まると同時に、リゲティ作曲「ロンターノ」のようでもあり、そこにオーボエソロなどが乗っても小節を利かせたりとはならずに粒が揃ったままなので、バイロイトでのように大波に飲み込まれるようなことはない。そうした効果が一掃されることで、大味に音型が奏されて戯曲的な大げさなバロック的な効果ではなく、やはり舞台からすればポストモダーン的な効果へと傾く。同時に管弦楽の音量がとてもよく管理されることとなり、歌詞の律動やそのアーティキュレーションが伝わりやすい。管弦楽が寄り添おうが他の声部を受け持とうが声との間での連綿とした楽劇となっているのである。

実は往路の車中では、2014年にレフェレンスとして残りを揃えたヤノフスキー指揮のドレスデンでの「ラインの黄金」を流していて、はじめはバカにして久しぶりに聞いていたのだが、そこでの歌手陣の巧さとその叙唱風の歌などのデクラメーションの巧妙な演出に関心していた。なるほどこれならばドイツでも標準版として売れる筈だと思った。その反面このオペラ指揮者が振ると千両役者が歌うところの伴奏と、それ以外で管弦楽鳴らすところとかがブツブツと断片にされているようなのだ。要するにオペラ劇場の奈落から聞こえる凡庸な音楽がそこにある。

それに比較するまでもなく、比較的重要な動機などが出て来ては繋がりの流れが見事に収まるのは、そうした歌声を楽器の声部と同じように扱うからこそで、それは新聞評にもあったようにまさしくコルセットの紐で締め付けるような窮屈感を生じるものだろう。例えばラインの黄金のハ長調のファンファーレが流れる印象的な黄金の輝くところでは、弦は漣ではなくこれはクリムトの金箔のように光り、三人の乙女が照らされる訳で、通常の浮遊感のある聴き所よりもぎっしりと殆どシェーンベルクの光景のようにそこに収まる。こうした効果は全くバイロイトではなかったもので、クリーゲンブルクの演出だから音楽的に現出したものかもしれない。声の無重力感か、その場の波動を描くのかの系の相違とも言える。これこそがバロック表現とポストモダーンの差異であろうか。

因みに音楽とは関係がないが、「バロック風演出での白塗りも」と考えた件は、この演出を見ると当たってはいなかった。そして舞台でゴルダ・シュルツを見るとそれなりに地肌の色が表れていたので不自然な白塗り感はなかった。もしかすると少しファンデーションの扱いを変えたのか、それともそれがポストモダーンの演出としても最適だったのか判断がつかない。個人的には、演奏の響きとその舞台を見ているとどうしてもマンハイムの劇場で経験したジーメンス作曲のオペラを思い出してしまった。演じるラムぺの傾斜にそこでゴリゴリと鳴る音楽はまさしくそれを思い起こさせる。

コンツェルトマイスターには若いシュルトハイスが任を得ていた。あれだけの演奏となると経験するだけで座付き管弦楽団としてはとても貴重な体験だろうと思った。オーボエとフルートのペアーも山賊兄弟ではなかった。なにか出し物によって人選が決まっているようでとても面白い。(続く)



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
また泣いちゃったよ 2017-12-25 | 女
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ペトレンコが渡す引導

2018-01-14 | 文化一般
承前)ミュンヘンに行かずにドレスデンに行く人の気持ちが分かった。キリル・ペトレンコは益々オペラから遠去って行く。もはや戻れないところに来ていると思う。自ら意識していると思う。十年もすれば口の端に上るだろう、「ペトレンコってオペラを指揮していたの、信じられない」と。今回の演奏を聞いてそれでも「キリル・ペトレンコはオペラの指揮者だ」なんて言う人がいるならば連絡して欲しい。

声楽と管弦楽の絡みだけでも、オペラという世界ではもはや無理な領域に入っていた。だからバイエルンで新聞評を書いているマルクス・ティールが1月11日の初日を聞いて「極度の分析で殆ど遣り過ぎ」とツイートしてそして新たに「コルセットで締め付けられているような一場二場で、更に空気が薄くなっていた」と私と同じような投稿をしているが、私は自身の座席での響きから「スーパードライ、絞ってももう何も出ない。」と表現しよう。

オペラにおいてこれに近い印象を得たのはクラウディオ・アバド指揮の「シモン・ボッカネグラ」でしか思い浮かばない。あの文化会館の響きのようなミュンヘンの劇場なんてありえない ― まだ自身の席のアコースティックの影響さえ疑っている。よくも低弦も管楽器もあんな音を出せたなと思う。しかし歌は前記のカプッチッリやギャウロフのようなあの枯れた渋い声を出せる人は一人もいなかった ― あれはあまり言われていないイタリア語の響きそのものだ。これではオペラにならない。そもそも楽劇はオペラだろうか?

私などはどうしても想像してしまうのである。先月のプッチーニで特にヤホの歌であまりにもウェットになったものだから、音楽監督としては「このままでは劇場にカビが生えてしまう、徹底的に乾燥させよう」と無気になったような感じさえ思い浮かばせる徹底さである。

勿論、この四部作の前夜祭「ラインの黄金」はレティタティーヴらしきものが完全に音楽になっていて所謂楽劇にはなっているのだが、まだまだ管弦楽の響きと僅か乍ら殆ど地科白のような「魔笛」を継承するところもあって、その管弦楽と声楽の関係が一筋縄ではない。

それに関しては改めて纏めるとしても、キリル・ペトレンコの求める厳しい音楽はもはや完全にオペラを超えていて、声楽付きの管弦楽曲であり、ネットには室内楽的と書かれてもいたが、私に言わせれば丁度リヒャルト・ヴァークナーが作曲しつつ誰かに歌わせてピアノ伴奏で試演をしている時の響きそのものだった。室内楽の枝葉ではなく、殆ど骸骨のような音楽だった。創作者の指から出て来る響きだった。

しかしキリル・ペトレンコの音楽を指して「冷たい」と書いた向きも2015年のベルリンでの選出時にあったが、冷たくは決してない。寧ろその響きは密度が高くエネルギー量は高い。それとスーパードライとは全く異なる。寧ろ所謂「クール」で、そのドライ度はもはや危険領域に達している ― ムラヴィンスキー指揮の音楽よりもリズムなどは遥かに厳しい。正直第一夜「ヴァルキューレ」が恐ろしい。そして「神々の黄昏」のフィナーレは2015年暮れのような少し憂いた趣きとは違うものが予想される。ニーナ・シュティンメのそれを聞かずにはもういられない。

到底予想がつかなくなった。2015年の新聞評は全くあてにならなくなった。二日目の上演になったAツィクルスでの会場の反応は熱気に富むものだった。聴衆の中にはバイロイトの常連さんも多そうだったが、終演後もとても熱気があった。歌手陣ではアルベリヒ役のルンデュ・グレーンとエルダ役のフォンデアダメロウに喝采が集まっていたのをみてもヴァークナー聴衆が多かったようだ。それとキリル・ペトレンコへの大熱狂は全く変わらなかったので、とても不思議なのだ。なぜならば、あれほどドライなヴァークナーはバイロイトには存在しない。どこにも存在しない。オペラ劇場では存在しないドライさである。

詳細は後回しにして、この夜の上演で、もはやキリル・ペトレンコはオペラ指揮者ではなく、夏にベートーヴェンをどのように振るのかしか思い浮かばなかった。一つ一つ一振り一振りとオペラ劇場に引導を渡しているようにしか思えなかった。(続く



参照:
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
音楽芸術のGötterFunke体験 2017-08-14 | 文化一般
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Crazy soprano!!!

2018-01-13 | 
燃料は結局昨日と同じ130.90セントで満タンにした。現状としてはベストだったろう。走りながらいくら違えば残り量からどれほどの差額になるかなどを計算していた。二回に別けたことで、その差額は大した額にはならなかったのだが、昨日と同じ価格まで下がってよかった。シャツ回収の序に、久しぶりに峠を攻めた。結局頂上攻めは時間的にも精神的にも余裕がなく一度しかやっておらず、月曜日にパン屋が再開するので、日曜日にしか機会がない。全ては前夜祭「ラインの黄金」の興奮度合いだろうか。

承前)一回目の公演はやはりキャストも良かったという評判のようで、カーテンコールも想定よりも賑やかだったようだ。一場のラインの乙女の場面を調べていると、それこそ指示動機に気持ちを奪われていると、肝心の繋がりが分からなくなる。歌芝居でも台詞芝居でも同じだが、そこに至る流れや経過こそが聴き所、見所なので、迂闊にもラインの流れに気を奪われているうちに、楽匠の匠を聞き逃していた。するとその次のフリッカの愚痴の場面も気になりだした。今晩は食事を遅らせてでもこれに集中しないといけないかもしれない。

カーテンコールの写真などを見ていて、直ぐにフライヤ役のゴルダ・シュルツが識別出来なかった。理由は役に決められているブロンドだけでなくファンデーションで色が白塗りされているからだ。そして彼女のインスタグラムなどの最新映像を観ると、これをネタにしていた。日本では先頃黒塗りが問題になったと知ったが、これは丁度反対の白塗りである。これは勿論クラシックな楽劇の役柄としての判断での白塗りであり、ブロンドと同時にある意味定まったようなものではあるかもしれないが、勿論肌の色は白くしないでもあり得たかもしれない。この辺りは判断次第だろう。ラインの乙女のジェニファー・ジョンストンも彼女のインスタグラムなどでブロンド鬘をネタにしているように、メーキャップも演出としてもキーポイントで、まさしくバロックだ ― 因みに2015年暮れには中村恵理も「神々の黄昏」のラインの乙女を歌っていたことを付け加えておこう。

少なくとも本人はこれをネタにしたということで、合衆国の黒人歌手ラッセル・トーマスのような「黒人のための黒人の上演」までの明確なメッセージはないのであるが、少なくとも注意を向けたことにはほかならない ― そもそも上記のカーテンコールでの疑問に答えている。確か「ばらの騎士」のソフィー役はそこまでしていなかったと想像する。またニューヨークでのコンツェルタント上演には、先輩格のハンナ・エリザベート・ミューラーが歌うことになっている。

新聞の文化欄にパパーノ指揮のセントチチーリア管弦楽団ドイツ公演の評が載っていて、ドイツ音楽で勝負するその指揮者の意識が伝えられている。イタリア人歌手のもとに英国に生まれた指揮者で、オペラの世界では超一流とされている指揮者である。そしてオペラを知らない交響楽団を再びそのオペラの演奏実践から交響楽実践へと伝統を導こうとしているらしい。その録音などでの指揮風などから大体分かっているつもりなのだが、アンネ・ゾフィー・ムターとの共演がなかなかいいようでと読んで、急いでバーデンバーデンのサイトを見ると、残念ながら29ユーロの席は売っていなかった。彼女のヴァイオリンを聞こうと思うと通常はその額では無理なのでお得だと気が付いたのが遅かった。やはり地元だけのことはある。



参照:
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
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ぼちぼち週末の準備

2018-01-12 | 生活
ぼちぼち週末に出かける準備をしている。ミュンヘン往復だけなのだが、少しでも無駄無く通おうと思うと燃料費一つでも大きい。1,309ユーロは安くはないが先ずは20Lだけ入れた。残りは前日まで待って一番安いところで満タンにする。

白いブリーフを新たに下した。何時購入したのが記憶にない。最近は違うタイプのものを多く使っていたので使わず仕舞いにおいてあった。調べると少しタイプが違って、先月穴だらけのスポーツ用を捨てたものに近い。これならばその代わりに使えるかもしれない。

何も「指輪」四部作に出かけるのに新しいブリーフは要らないのだが、四回通うとなると衣服のことも考える。出来れば同じシャツで通したいが、四回とも同じ顔ぶれが周りに座るのでそれも少し気になる。前回「三部作」の時に着用していたシャツは洗濯屋に出したので、これも回収に行って予備に置いておきたい。

エンジンオイルもまあまあだから、なんとか問題なく移動可能か。あとは18時始まり20時25分終了なので、遅くとも零時半には帰宅可能だ。ブランチを摂ってからゆっくり走れると思うのだが、休憩がないものだからやはりピクニックの用意はしておくべきだろう。なにを車に乗せていくべきか?兎に角、疲れが残らないように配慮しないと翌週がしんどい。

今回は再演にも拘らずキリル・ペトレンコ指揮最後の「指輪」ということだけでなく玄人筋の関心も強いのだろう。前回の上演が2015年3月のようであるが、当時の初日の批評などを読み返すと歌手が弱く、ポストモダーンの演出が気に入らなく一層のこと幕が壊れて開かなかったらよかったというようなことをヴィーンのプレス紙が書いている。大して参考にならないその新聞らしい程度の低い批評であるが、メムバー表を見ると、玉石混合のようなキャスティングになっていた。クリーゲンベルク園主「神々の黄昏」を観た感想からすると、四部がばらばらの印象という評も記憶にあり、まさしくバロックオペラ風「ラインの黄金」はそれでよいのではないかと、密かに舞台を期待しているのである。

2012年初日シリーズのキャスティングを見るとやはり弱い。因みに「ヴァルキューレ」はフォークトとカムペがペアーを組んでいた。「神々の黄昏」には、グールトとシュテムメがペアーを組んでいて、映像が残されていることから凄いキャスティングと思っていたが、初日シリーズの期間が離れているので今回のように統一した配役とはなっていない。その点からしても今回はツィクルス上演形態になっている。実際それがバイロイトと同じような効果があるのかどうなのかは経験してみないと何とも言えない。分かっているのは、最後になると四日も通ったな感慨深く思うだけだ。

日本からの訪問者が同じような時期に行われるドレスデンのゼンパ―オパーに出かけるとあったので、なぜ態々と思ったが、なるほど一週間ほどの間に四部作を立て続けに行うようになっていて旅行者向けになっている。如何にも地元の聴衆よりも世界からの音楽旅行団からの経済が重要な劇場らしく、その構造は東ドイツ時分から変わらないのだろう。ヴィーンに比較すると西ドイツからの国内観光団が主な対象になっていることが異なるかもしれない。一年前から発券していたようだが、一日足らずで売れたようで、旅行社が特別価格で買い付けているのだろう。それにしても価格がミュンヘンの倍以上する。因みに今回の四部作には一晩当たり11ユーロしか払っていないのに、舞台への視界付きのロージェの椅子が付いている。駐車料金が倍近くになる。

二国の料金が安くない ― 着工前は二国と呼ばれていたと記憶していて、その建設予定地を覗いた覚えがあるが、今は相撲場のように新国と呼ぶらしい ― と書いてあったので、HPを見ると27000円までとなっている。換算して235ユーロとしてもなるほど高額だ。昨年秋のNHKホールでの「タンホイザー」公演の60000円も高いと思ったが、足台を別にして倍以上の価値があったのは当然だろうと思う。それからしてもゼムパーオパーのそれは旅行者向け価格になっている。

週末にお湯が出なくなったお陰で体調を壊した。あれぐらいと思っていたが体温を調整するために血圧が上がったりしたのだろうか、気温が高くなると更に体調管理が難しくなって、喉がぐずぐずするようになった。



参照:
「ラインの黄金」のお勉強 2018-01-11 | 文化一般
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
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「ラインの黄金」のお勉強

2018-01-11 | 文化一般
承前)クリーゲンブルク演出「指輪」再演である。いつものように夏休みの宿題のようにやっとネジが掛かってきた。「ラインの黄金」一場が終わってその続きである。一場づつ進んでいたのでは、今度は翌週の第一夜「ヴァルキューレ」を勉強する時間が無くなる。その時にならないと気が付かないのはいつものことだ。如何に逆算とは遠い人生を歩んでいることか。

一場に続き二場である。カストルフの演出では一幕のゴムプールに続いてスタンドの風景だと記憶するが、今回は大広間のような感じだ。その内容も音楽もバロックオペラを彷彿させるが、この合唱の無い前夜祭でも様々な組み合わせの歌が面白い。二人の巨人族にヴォータン、フリッカ、フライヤ、フロー、ドンナー、ローゲが絡まる。

ケントナガノ時代のヴィデオを見ると、ヴォータンのヴォルフガンク・コッホが一場でアルベリヒを歌っていたようである。相変わらず交響楽的に巨人族の登場から景気良く鳴らしていて、如何にもライトモティーフ効果が強調されているようで面白い。そうした指導動機と呼ばれるようなものを待ち構えるような理解の仕方はどうしても漫画の理解のようになる。なるほど楽匠のコンセプト自体が、高いテノールのローゲのシテ役に見られるように、そうしたパロディー的な要素も確かにある。

三場のニーベルンゲン族の地下へ降りるときは金床の動機が流れて、再び上へと三場から四場へと反対方向へと進む。再びヴォータン、ローゲ、そしてアルベリヒ、ミーメの絡みで、更に小人のミーメが高い声を出して、一方でヴォータンとアルベリヒの絡みとなっている。その間に「隠れ兜」の流れがありととてもコムパクトに纏まっている。

2015年の録音を聞くと、3月にジャーマンウィングスの犠牲になったオレグ・ブリラックに代わってこの年からドーメンがアルベリヒを歌っていて、ヴォータンとの絡みもよいが、ローゲとの掛け合いも上手く行っている。さて今回はこの辺りのアンサムブルに期待したいがどうなるのだろう。管弦楽も腕の見せ所である。それにしてもこの三場の声と管弦楽の音域が興味深い。

四場のアルベリヒの呪いの歌が上の録音では迫真の歌唱であるが、後半に入るときのハ長調への移行の下降旋律に今まで気が付かなかった。後半で再びフライヤが出て来るのだが今回はゴルダ・シュルツの歌が来ると思っていたら、あまりにも歌わない。これももう少し歌う役と思っていたがその音符の少なさに初めて気が付いた。道理で、ご本人はサムブレラを被って遊んでいる写真をアップしている訳だ。最後の呼び出しでのドンナーはアイへが歌うのでこれは期待が出来る。因みに2015年はダニエル・シュムッツハルトという歌手が歌っていて2017年にはパン屋のフォークナー、フォアアールベルクで若い声で「さまよう若者の歌」を歌っている。

それにしてもこの2015年のバイロイトでもクラウディア・マーンケが八面六臂の活躍をしたようだが、ここでもフリッカを上手に熟していて、先日の「三部作」でもとても評価が高かった。とても得難いわき役である。

兎に角、休憩も無しに一挙に流れてしまう前夜祭であるから、全体の流れと細部を抑えておかないと一挙に終わってしまう。

Golda Schultz✦Portrait über die südafrikanische Sopranistin

Festspielinterview_17_Golda Schultz

Golda Schultz & Rolando Villazón✦♬ "Pata Pata" by Miriam Makeba

Golda Schultz⭐♫ "O mio babbino caro"/Gianni Schicchi v. G.Puccini



参照:
ストリーミングの昨日今日明日 2017-08-20 | 文化一般
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
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初茹で豚で芯から温まる

2018-01-10 | ワイン
漸く陽が射した。何日ぶりだろうか?初買い物に出かけた日の小雨の時にしか記憶がない。前夜は初豚煮肉の極上の味わいに、蒸し塩ジャガイモとキュウリの酢漬けを付け合わせて食した。ご相伴は辛口のリースリングに尽きる。昨年春の試飲会以来その酸にやられてきたが、ここでどうやらそれが落ち着いてきたようだ。12本購入して残りは4本ほどしかないレープホルツ醸造所の2016年「オェコノラート」である。毎年ドイツのリースリングで最も辛口の最左翼リースリングである。

酸が表に出ていたので売れ行きは悪かったようだが、今ここで楽しむことができて幸せなのだ。やはり信用してよかったと思い、改めてこの醸造所の一貫したコンセプトには頭が下がる。酸が少しだけでもその鎧を綻ばせると、そこから何と表現しようか、趣きに富んだ味わいに溢れるのである。所謂ミネラル風味というものであるが、直截なわらとか何とかよりもう一つひねてい乍ら純度が高いのである。石灰の混じっていない雑食砂岩特有の味わいなのだが、これは糖を落とすことで始めて味わえる愉楽なのだ。立ちはだかる鎧のような酸にめげずに付き合ってきたご褒美である。

これだけの質が確認されるとその上位の「フォムブントザンドシュタイン」や「ガンツホルン」の熟成への期待がより一層膨らむ。前者は6本購入してまだ5本ある筈だが、じっくりと二年を待つのが一苦労である。どうしても手が出てしまうからである。

年末年始の食材で期限切れにしてしまったものが見つかった。一杯入っていて完全に忘れて気が付かなかった。27日までのチーズであるから、クリスマス前に購入したものだ。一口も食していないので包装ラップの内側に青カビが生えていた。もともとは青カビがついていない筈である。開けて切ってみないと分からないが、これは駄目かなと思った。切ってそのままごみ箱行の可能性が強い。食料品を腐らすことはまずないのだが、これは仕方がない。

半年前ぐらいからノートブックの充電が不安定になっていた。充電ラムプが長く点いていたり、電源を外すと落ちたりするようになった。充電可能でその都度使えるので充電池買え替えの必要は感じなかったが、将来を考えている。HDDをSSDに取り換えてPCオーディオ専用に使うとなると電池駆動も欲しいような気もするからである。純正品は高価でありそこまでの価値があるのか、モデルタイプは質が悪いと決まっているので、SSDの価格を考慮するとそれほどフラッシュアップには投資出来ない。

木曜日から「指輪」再演が始まる。前夜祭「ラインの黄金」からである。ツィクルスAは土曜日からである。急いで一場だけを聞いた。2015年バイロイトからの中継録音である。そこで気が付いたのはラインの乙女たちの歌が若干行き詰まりの感じになっていて、あの動き回る舞台からするととも思うのだが、作曲家がその歌に何を求めていたかを見るとやはり詰まり気味になっていると思う。

個人的に昨年のオペラ上演でのゲルハーハのタンホイザー三幕の「夕べの星」とヤホの「修道女」フィナーレの歌唱はオペラ上演のその音楽的可能性を改めて感じた場面であって、後者のイタリアでの批評にも「インテムポのペトレンコが珍しくテムポを」とあり、前者の「ペトレンコにしては超低速」とあったのと対応している。実際にはテムポの問題ではなくて拍子どりの間やタメなのだが、このバイロイト公演では若干息が短くなり過ぎている。なるほどパーヴォ・ヤルヴィ指揮の不自然に窮屈な過呼吸のような息使いとは異なるのだが、もう少し歌手の留意しているアーティキュレーションを活かすと更にテキストの表現がその音色と共に拡大するのは、前記二回で確認したことである。特に蓋の無い奈落と精妙に合せてくるとなると、その結果として言葉の明瞭さと共に声の表情が活きて楽器との色合いがとても出て来る筈なのだ。

最近はキリル・ペトレンコリスナーとして予めその演奏を予想するようになって来ているのだが、まさしくそうしたところが聴き所であることも間違いない。録音されたものから二年以上経って、蓋の有無に関わらず、その間の東京などでの公演記録も加味すると、我々大凡人でさえも、ここはこのようにというような新たな期待が生じてくるから不思議なものである。



参照:
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
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スキー宿をキャンセル

2018-01-09 | 雑感
未明から走ることは出来なかった。前日はお湯が出ていなかったから仕方がないが、ここいらで体を動かしておかないと病気になる。結局15分ほど走っただけだ。ワイン地所の上辺をぐるっと回ってきた。それでも全然違う。季節外れの降雨量の泥濘に足を取られて膝が疲れた。復路が塗装路だったからだろうか。降雨量と言えば久しぶりにモーゼルが沈みそうになっている。水位が上がっているからで、また一部の醸造所の蔵が浸かってしまう危険が迫っている。ハイデルベルクのネッカーも水位が上がっているようだ。

承前)プッチーニ「三部作」12月30日公演の批評が出ている。エルモネーラ・ヤホのリツイートでそれを読んだ。やはり私の想像したように公演日によっての差異を自覚しているのだろう。イタリア語のオペラ専門の「オペラクリック」と称するBLOGで、結構詳しく評している。イタリア語なので行間までは分からないが、この筆者もヤホとペトレンコの間の音楽的緊張関係に留意していて、恐らくオペラ通としてはなんともそこが面白さなのだろうと思う。既に述べた通りだ。私もミュンヘンに住んでいたならば初日シリーズに通ったかもしれない。オペラフェストもカメラを入れても面白いだろう。

そしてマエストリを大書きしているのはよく分かる。そしてシュスターの歌が続く。そしてワーストに再びヴェストブロックが批判されていて、場違いの配役とされている。劇場生中継では押さえていたから更に良くなっていたかと思えば、やはりあの荒っぽい歌唱に批判が集まり、その響きとその中心のハイC域でも不安定な歌唱だとされている ― 流石にあの手の歌唱はオペラ業界でも受け入れがたくなって来ているのだろう。今回の中で唯一傷となったその歌唱であるが、あの体格で声があるのだから、せめてレオニー・リザネックのような名人芸のヴィブラートぐらいをマスターしていなければ少なくともドイツでは成功していなかった歌手だろう ― 如何にサイモン・ラトルが二流のオペラ指揮者で二流の歌手と仕事をしているかとなる。一本調子の歌唱のヤンフーリーはまた管弦楽と音量勝負をしていたようだが、こちらにはあまり批判が及ばないのも如何にも昨今の器楽的な正確さを期待されるオペラ界らしくて面白い。

三部作を読み別けつつ、一夜に描くということで、ペトレンコは、管弦楽に一部毎の音の響きを意識させたという。響きを弾き別けさせるような示唆を与えたという。この事も第三夜に女性陣を集めたことなどと共にとても興味深く、将来とも語られる公演になったようだ。

年初めに2014年産グローセスゲヴェックスをもう一本開けた。ミュラー・カトワール醸造所の「ブロイメル」である。その格下の「ビュルガーガルテン」が話題のリースリングであったのでこれにも期待した。最後の一本となったが前回開けた夏頃よりも更に瓶熟成が進んでいた。やはり二年経つと通常のグローセスゲヴェックスは飲み頃になる。ミネラルの出方は若干弱いが開いた感じが良かった。但しこの先の瓶熟成を考えるとやや重くなってくる感じがした。20数ユーロのリースリングとしては十分ではなかろうか。

どうも暖か過ぎる。「ラインの黄金」への準備も出来ていないので、金曜日にスキー場に泊まる宿はキャンセルした。雪も無く、天候も冴えないとすれば態々足の悪いところに泊まっても仕方がない。なによりも時間的余裕が無さそうだ。



参照:
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
はんなりした初夢心地 2018-01-03 | 暦
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二種類目のヴィデオ

2018-01-08 | 雑感
土曜の朝から配湯の調子がおかしかった。自分が一番高いところに住んでいるので、いつも最初に気が付く。今回も恐らくそうだが、ヒーターだけでなくてお湯の問題だったので誰かが気が付いて手配をするものだと放っておいた。寒い週末を過ごすことになった。気温は高めとはいいながら、暖房が無くて暮らせる訳ではない。更にお湯が無いと温まりようがない。

「タンホイザー」のヴィデオを落とす序に2015年の新制作だった「ルル」のファイルを落とした。これは初日に劇場にいたので、ストリーム放送のコピーしか持っていないのだが、十分な音質のそれをもっていなかった。MP4で音声が160kbしか出ていなかった。もう一つは126kbしか出ていないが映像はFullHDで3GBを切っている。今回見つけたのは10GBを超えていた。どうも世界中で発売されたDVD二枚組のようだ。画像はてっきりブルーレイをイメージしていたので失望したが、音声はPCMが組み合わされていたので良かった。

この商品が販売になった経過は知らないが、この画像の質からするとそのまま劇場のアーカイヴが使われているようで、Arteの制作とは無関係なのだろう。確かArteかARDが中継したのは「影の無い女」、「南極」と「タンホイザー」しかない筈で、それ以外のこの制作に承諾が得られたのは興味深い。指揮者のキリル・ペトレンコ自身も当初は再演を振る予定が無かったぐらいであるから、この収録日辺りで一先ず完成形と考えていたのだろうか。

詳しくは改めて聴き通さないと駄目だと思うが、前後や中番組は異なる以外に映像のカメラアングルも中継ものとは違う。それも近接遠景などが異なるものやカメラアングルが異なるものが多い。どちらが芸術的な価値があるかは一部では判断出来ないが、それにしてもこれをリッピングしてアップロードした人の判断かもしれないが、なぜ画像がFullHDでないのだろう。これならば画像は上の3Gb切れるファイルの方が遥かに良い。何かこの辺りにもその商品化への事情があったのか、それとも違法コピーのアップロードでのトラブルへの配慮かもしれない ― 否、三時間超をFullHDで二種類の音声を入れるとなると二枚組では収まらなかったとなると、DVDのメディア自体がネットに比べて時代遅れになっている。いずれにしてもこれも生中継ストリーム版と編集版との二種類が存在することになる。後者のオーディオの編集個所は細かく聞いていかないと分からない。

手洗いに行くとお湯が出ていたのでそのうちに急いでシャワーを浴びた。もう一つ通常の量感がないが、少なくとも土曜日のシャワーの生温さは無くなっていた。ようやく通常に戻るかと思ったがヒーターに温かさが戻るまでに小一時間掛かっていた。諦めがちに厚着をして、熱いショウガ入りの餡かけでもと作っているとヒーターが温まってきた。これで助かった。シャワーが出ないので頂上まで走れなかったが、明日は天気も良くなるので、肉屋に行く前に一っ走り出来るかもしれない。

この暖かさではミュンヘン郊外でのスキーは難しいかもしれない。週明けにでもキャンセルを判断しよう。兎に角、「ラインの黄金」のお勉強が出来ていないので時間がない。



参照:
録画録音した中継もの 2017-08-31 | 音
腐臭と紙一重の芸術 2018-01-04 | 文化一般
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様々な角度から再吟味

2018-01-07 | 文化一般
NHKからの放送を聞いた。昨年五月の新制作「タンホイザー」の初日の中継録音だった。その初日の生中継とこの放送の両方を聞いた人はどれほどいるだろうか?両ラディオ放送は聞けていないが、両ネットストリーミングと前者のベルリンからの再放送ストリーミングを聞いている。少なくとも今回の放送の音質は全く異なっていた。理由は分からない。生放送の再放送は、フランクフルトのARDアーカイヴのネット経由での放送だと思うが、今回もそこからのネットのものかどうかは知らない。ただし音声データー自体が異なっている様に響く。

細かくは楽譜を見ていないので確認しておらず、印象としては音楽的な編集はしていないと思われるが、所謂劇場の雑音などは押さえられていたと思う。それ以上に舞台と奈落の管弦楽が上手くバランスしていて、音像からすれば殆ど劇場での制作録音のような感じである。実際にこれだけの出来上がったアンサムブルを録音した制作録音も思い当たらない。初日の生中継はいつものこと乍らそのダイナミックレンジも安定しないので、どちらかと言えば雑音も多く、落ち着かないばかりか、音像がハッキリしない。その両面が補正されている。ダイナミックレンジのヘッドスペースを最小にすれば事実上拡張したような感じになって今回のように響く可能性もある。若しくはMP3などの圧縮を使うことで、可聴外の響きの会場の音像を切り除くことで、ズームインしたようなこのような効果が出ることもある。

但しNHKFMのストリーミングがそれほど悪くはないのはNHKホールからの中継録音でも経験しており、またミュンヘンの方でそのような音源を提供することもない筈で、実際に今回の放送の集中した音像はある面あの劇場での生の響き感じをも想起させる箇所もある。要するにファイルのデジタル処理ぐらいの差ではないようにも感じた。その一方ダイナミックレンジの上限が合わせられていて、チェロの一本一本や木管の一節までが聞こえるように前に張り出してきている。しかし前記の再放送録音をアップサムプリングしたようなものを聞くと高弦の響きも解放されて自然なのに対して、今回のストリーミングは如何にも中域のバランスが高くて押し出しが強い。

ドルビーデジタル5chの放送は聞いたことが無く、生放送時の位相のずれ感や発散した集中しない音像の感じはその際のステレオへのトラックダウンに原因があると思っているのだが、バイロイトの中継などではそうした悪影響は感じられない。劇場のストリーミング放送でもその影響は無く、バイエルン放送局が協力しているArteの放送時にもそれが感じられない。すると今回の放送のトラックダウンが異なるようにも感じた。

放送技術に関しても詳しく情報を集めなければ分からないのは楽譜を見乍らでなければ音楽的な詳細が分からないのと同じだが、音響効果としては声や楽器の発声が明晰になって、和声的に定まった印象が強くなったので音楽的な印象が単純明確になっている。要するに分かり易くなっている。ティムパニ―の叩きなども劇場の場所によっては同じような印象であり、昨年の日本公演でのペトレンコ指揮での評価に強い音が出ないというような頓珍漢なものがあったが、この録音放送は全く正反対な印象を与えただろう ― 兎に角、そうした演奏実践に対する単純な印象に関しては自らが楽譜に当たってみるしかその個所で何が起こっているか確認する方法はないのである。

今回も放送をAudicityで録音してみたが、早朝の仕事で同じノートブックを恐らく弄っているところで肝心の一幕で何度か音飛びをさせてしまっていた。やはり24Bit48000kHz録音は負担が大きいようだ。先月の「三部作」ではpdfの音譜を捲るぐらいでも、一部「外套」だけには音飛びがあった ― なぜだろうか。

また七月の上演のArteの画像の大きなのがネットに落ちていたので拾ってみた。容量が7GBを超えていて、HPからDLした3.47GBの倍である。中身を見るとフランス語字幕だが、画像の大きさが1920x1080でFullHDであり、音声はAACながら576 kb/sまで伸びていることになっている。内容自体はHPのものとまた異なる。最初の序曲からして奈落が映らない。要するに乳出しの方にフォーカスが当たっている。これで劇場ストリーミング生放送と二種類のArte放送分が揃った。つまり今回見つけたのはArteの生中継カットということになりそうだ。つまり前後は異なっても劇場の生放送に準拠している。劇場物との最も大きな差異は画像の質で乳出し女性らの下半身の下着が否が応に目に入るエロさだろうか ― ヴァーギナの中が覗かれる一幕二場で、詳しく見ると放送日には下着の着脱が他の日とは異なっている部分もあったように思うが、そこはやはり完全にポルノ仕様になっていて、そこが明白でないとやはりカステルッチ演出の真意が分かり難いかもしれない。

但し録音も演奏もとても落ち着いていて、とても優雅な感じは初日の演奏にはなかったものだ ― ゲルハーハーの歌う「夕べの星」に顕著だ。恐らくこの日の演奏が残されている録音で圧倒的に優れたものであることは間違いないが、歴史上も最も完成度の高いこの曲の上演ではないかと思う。今回こうして高画質の気が利いたカメラアングルで観ていくとやはり演出共に美学的に可成りな制作であったことが理解出来るようになった。歌唱も演技も可成り程度が高い。



参照:
旧ビジネスモデルをぶっ壊せ 2017-08-05 | マスメディア批評
殆んど生き神の手腕 2017-07-13 | 音
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どうも初走りだったようだ

2018-01-06 | 生活
どうも初走りだったようだ。降雨が続いて頂上往復が出来ないとなるとなかなか走る機会が無かった。洗濯に出したワイシャツを取りに行くのと、もう一つの余所行きシャツを出すのとを兼ねて、銀行に寄ってからいつもの森へと車を走らせた、閉まっているパン屋の前を通って。

洗濯屋に走らせる車中のラディオで、マルティン・シュタットフェルトの弾くシェーンベルクのマーラーを送る曲作品19‐6に続いて、アルバン・ベルク作曲未完のオペラ「ルル」が流れた。興味深かった逸話は、例のツェルハによる加筆への流れの中で、早死にしたベルクの未亡人ヘレーネは、作曲家の死後43年間、この曲の補筆完成を求める要請に対して、その都度他界した作曲家に尋ねるとして霊媒師を通じて判断を求めたというのである。この話しは知らなかった。判断しかねる未亡人としての苦悩の様なものは浮かぶが、現生の金儲けを考えれば、完成させて「ヴォツェック」並みに早めに人気レパートリーになっていた方が良かったのかもしれない。しかし現実にはなかなか容易で無かったのもこの番組の不協和音特集に係っているのかもしれない。

そのパリ初演のLPは重要な文化財だと思うが、その時にドイツ首相だったヘルムート・シュミットが訪問滞在を伸ばして、ジスカールデスタンと共に初演に臨席したとは知らなかった。以前ならばこの録音やヴィデオはなによりもの資料であったが、その音楽に関してはもはやキリル・ペトレンコ指揮の2015年のミュンヘンでの新制作とは比較にならないように、歴史的な価値は変わらないがその芸術的価値が半減した。

大晦日以来運動していなかったので、こうして身体を動かすとスッキリした。運動量が減ると食事量などは減るのだが、やはり体に張りが無くなるだけでなくて気分が冴えなくなる。気温が高く、再び雨が振り出して体が濡れたが、シャワーを浴びてその後の体の張りが気持ちよい。週末も同じように雨が一休みしそうなので、頂上往復出来たら嬉しい。月曜日からは新鮮な肉類が楽しみになる。



参照:
初買いでの野菜の高騰 2018-01-05 | 生活
はんなりした初夢心地 2018-01-03 | 暦
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初買いでの野菜の高騰

2018-01-05 | 生活
夕方に初買いに行った。強風で雨が吹き付けるような合間にスーパーと八百屋に立ち寄った。購入したかったのは白菜などだが、年末年始ゆえか野菜の値上がりが激しかった。通常の二倍ほどするものも少なくない。そのなかで通常の価格で購入できたのは三色ピーマンぐらいだった。八百屋も同じで、フェルトザラタぐらいで、同じ価格ならイタリアンパセリを購入しておいた。ジャガイモは変わらない。まあ、これで来週になれば落ち着くだろう。

そもそもクリスマスから年末年始で食材が溜まっている。どこの家庭でも同じようなものなのだろう、だからそれほど緊急の買い出しはなかったのだが、シャワーのための水石鹸が無くなっていた。これが無いと通常の薬用を使うことになり無駄になるのでどうしても必要だった。その他ではコーヒーの紙フィルターがあまり残っていなかったので補充した。肉屋もパン屋も開いていない限り朝食に不自由なのでバナナやヨーグルトも購入した。

昨晩にリースリング煮凝りとグローセスゲヴェックスを合わせたので、続けてトリフとヴィールのミニザウマーゲンとしたいと思ったから、コール類を探したのだがヴィルシングもなく、初日は獅子唐ぐらいで誤魔化しておこう。場合によっては、バルサミコソースで、シュペートブルグンダーを開けてもよいかなと思っている。二回目から少し炒めるようになったら、ピーマンを付け合わせばよい。三回は食せるので週末で片づけられるだろう。

昨日新しいジーンズを下ろした。一年ほど寝かしておいたことになったが、サイズが更に小さいので太もも当たりのフィット感が何とも言えず気持ちよい。やはりジーンズは少し引き締まった足にフィットが一番良いのだなと改めて感じた。胴回りを絞っただけでなくて、走りこんで太ももが痩せたお陰だ。

金曜日にNHKから「タンホイザー」の初日の中継録音が流されるようだ。初日の生中継の一幕だけは録音が上手く行かなかった。その原因は先日分かった。バイエルン放送協会のストリーミングで、準備している前番組のままそのまま続けて再生していると、ある程度の時間が経つと再び再再生してしまうことが分かった。つまり生中継の時は前番組から本番組に変わるときにリロードしておかないとリピートしてしまうことが分かった。実際には開演前のナレーションが緊迫してくるところなので忘れて仕舞いがちとなる。そのようなことから生放送の一幕は駄目だったので、その後にオンデマンド以外にもベルリンからの再放送も録音したのだが、音質的に生放送には敵わなかった。NHKのものがどの程度になるか試してみようと思っている。どうせ朝早くから仕事を始めなければいけないようなので、夜中に起きて準備可能だ。初日のものはAudacityでは残していないので丁度良い。ハイレゾ録音の価値がある受信ができるだろうか。

承前)ミュンヘンのプッチーニ「三部作」初演シリーズが終わった。誰かがフランス語で書いたものによると最後は再び第二部のヤホの歌が中心になっていたとある。そうなのかと思った。今回の大成功したプッチーニ公演を見ると、これでプッチーニの新演出は打ち止めなのだろうと感じた。残りの「トリスタン」意外にはヴァークナーの新制作もないだろうから、あとの可能性が限られてくるだろう。ロシアものかスラヴものがもう一つ来るかもしれない。

兎に角、湿った空気が入って来て、気温が急上昇し、可成りの降雨量になっている。到底山登りコースを走るところではないと運動量が落ちていて、気温の変化とともに過ごしにくい。頭も重く、眠気も上手く取れない日々となっている。



参照:
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
ビオデュナミへと根回し 2014-07-09 | アウトドーア・環境
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腐臭と紙一重の芸術

2018-01-04 | 文化一般
来週末の宿をとった。キャンセルするかどうかは分からないが、前乗りでミュンヘンに入って、前日はスキー場で宿泊して、「ラインの黄金」後に帰宅するという計画である。33ユーロほどの宿泊で、問題は雪の状況とリフトなどの価格次第だが、金曜日の午後に少しだけ滑って、ゆっくり休んでが叶えば、こちらから行って往復するよりも帰りが眠くならない筈だ。まだ金が落ちていないのでもう少し調べてみよう。先ずはお勉強だ。

ノイヤースコンツェルトのサイトを見ると以前は再放送は3SATと決まっていたが、今はZDFで生中継後に一月中はオンデマンドになっている。つまり、TV受信機愛用者層と通常のネットとの二つの層が明らかに別れていることを示しているのかもしれない。なるほど幅広い大衆以外にもTV受信愛好者にはドルビーサラウンド愛好者もいるだろうから、ネットで配信されていないものが受信出来るということなのだろう。ただし映像はあんなものを大スクリーンに映しても何も感動するようなものではない。

そうした社会学的な視座にも係るものとして、またまた重慶から面白い話を聞いた。それによると親戚がヴィーナーフィルハーモニカーのコンサートに先日出掛けたというのである。勿論それはノイヤースコンツェルトで、ヴァルトビューネのベルリナーと同じように、世界一価値のあるものとしてシナでも有名なブランドである。要するに市場価値が出来ている。そこで気が付いたというのである。ヴィーナーは重慶などにはツアーを組んでいないと、そして調べてみるとドナウフィルハーモニカー、ヴィーンというのだ。つまり最初の维也纳爱どころか、ドナウまで有り難くついているのである。そして券の価格は同じようにとても高いというのだ。間違いなくこれは詐欺行為だとそのシナ人は騒ぐ。

どこかでハンガリーの関係でこの名前は聞いたことがあるので調べてみるとこれまた面白い。勿論オーストリアどころかドイツやハンガリーやスロヴァキア人で構成されている。そしてその慎重なドイツ語のプロフィールや活動を読むとまた面白い。最も笑わせてくれたのは、敢えて煩わしい書き方で、ヴィーナーフィルハーモニカーの団員の教えを受けた団員などそのアカデミーの若者などともあって、このブランドはどうしても出さなければいけないのは、この手のハンガリーの二大帝国の遺産の様なもので、それだけで稼いでいる人たちが少なくないということだろう。その指揮者つまり寄せ集めの声掛け人の様なものだろうが、ホルスト・シュタインなどの下でアシスタントをしていたような所謂劇場上がりの人で、そこに共演する謂わばドサ周り楽団の専属歌手のような人のプロフィールがまた素晴らしい。

例えば、若手のソプラノでヴィーンの音楽学院で学んで「ミュンヘンでラボエームを好演」と書いてあるものだから、まさかあのゴルダ・シュルツと同じように扱われてはたまらないなと思って調べると直ぐに実況中継ヴィデオが出てきた ― 当然ながら国立音大とか国立劇場とかは一切書いていない。その通りミュンヘンのビアホールかどこかなのだろう。要するに程度の悪いキャバレーである。まさしくこうした芸人も同じように存在する芸の世界は本当に恐ろしい。もう一人は、今度はミュンヘンの国立劇場とかマンハイムとか書いてある。こちらはなるほどカーティスで学んだ学歴もあり上等なキャリアーを歩んでいるかにみえるが、そのヴィデオを見ると全くキャリアーを積む可能性はないと思わせる歌唱力である。典型的な名門マンハイム市立劇場やカールツルーヘ国立劇場のアンサムブルの程度である。なんと大胆にも2013年にヴァインベルクのオペラが実況録音してあって ― ライヴの三枚組で36ユーロはないだろう、録音したSWRマンハイムにいくら払った? ―、 「彼の有名なご当地のアンサムブルの響き」がネットで聞けるのである。指揮者が変わろうが何があろうが同じようなアンサムブルを展開していて、私にとってはドイツの名門劇場の典型的な響きである ― だからこそ私だけでなく、器楽奏者の多くがオペラなんてと嫌悪しているのである。そう言えば上のドナウフィルハーモニカーも当時のオリジナルな響きを追及するとか古楽器奏者の様な事を書いている ― 恐らくポルタメントなどをアンドレ・リュウ顔負けにツィンバロンなどと一緒に奏でるのだろう。
Puccini, La Boheme - Musetta - Astrik Khanamiryan

Mahler - Der Einsame im Herbst


今度は先方の重慶大劇場のサイトを調べてみると、残念ながら12月のアーカイヴは残っていなかったが、1月に徳国何とかがあったので開けてみるとハムブルク交響楽団とあった。「ケント・ナガノが」と一瞬思ったので調べてみると、ローカルの交響楽団で今はベルリンのフィルハーモニカーを首になったブラウンシュタインが顔になっていて、正式名称はシムフォニカーハムブルクらしい。こちらは上のドナウとは流石に違うようで、その実力通りに最高800人民元最低40元だから100ユーロから5ユーロほどの徴収となっていて良心的な価格設定だ。しかし上の詐欺紛いの楽団は最高額1200人民元ほどを徴収していたのだから、その法外な要求額が分かる。一月に一度ほどのお仕事らしいがここハイルブロンの近くでも演奏会を開くというから厚顔の兵揃いである。

そのような典型的な響きとは少し異なるからヴィーンとかドレスデンとかはそれが当地の音楽劇場のブランドを形成しているのだが、ひょんなことからそこの「指輪」上演ストリーミング放送の予告サイトにヴィデオを見つけて笑ってしまった。同じような下手な演奏を恥かしげもなく出しているのはゼンパ―オパーも同じだったが、このヴィーンのそれも負けずである。更に次には出てこないニーナ・シュテェムメの映像まで使っているから質が悪い。これでヴィーンのブランドで銭を取ろうとする商売は卑劣だ。
Richard Wagner: "Das Rheingold" (Trailer) | Wiener Staatsoper

Richard Wagner: "Die Walküre" (Trailer) | Wiener Staatsoper

Richard Wagner: "Siegfried" (Trailer) | Wiener Staatsoper

Richard Wagner: GÖTTERDÄMMERUNG (Trailer) | Wiener Staatsoper


先日のノイヤースコンツェルトの恐らくドナウ右岸のワイン地所の映像が流れていたが、あの雑種栽培のようで如何にも程度の低い栽培風景と同じで、こうしたガタガタごてごてしたものを聞くとその程度こそ違え上のドナウ何とかなどの活動などと紙一重の感じがする。なるほどオペラ劇場なんて所詮その程度の娯楽でしかなく、訳の分からない外国人やそうした観光客にブランドとして高く売りつければよいというのアルプスの小国の経済として理解する。しかし、芸術においてこうすることでドナウ何たらのような腐臭を放つものと紙一重なのである。ワインに不凍液を混入させたような社会背景である。だから審美眼を磨かなければいけないのだ。それは聴衆の社会的義務である。



参照:
高額であり得ぬ下手さ加減 2016-03-25 | 文化一般
老支那人と小日本人 2014-01-08 | 歴史・時事
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はんなりした初夢心地

2018-01-03 | 
比較的ゆったりした元旦を過ごせた。なによりもである。晦日の残りを合わせるだけだから、例年時間が足りなくなる午前中にも飲食を十分準備出来た。そして例年ならば居間で一年に一度のTV火入を行うのだが、今年は陽射しはまだしも籠り部屋でPCからキャスティングにしてインティームに過ごすことにした。これで次にTV受信機をオンにする時に壊れていないかどうかわからなくなった。それを購入した時は今ほどストリーミング映像に関しては期待していなかった。今回もZDF中継のそれは前半こそ飛んだところがあったが後半は完璧だった。もはやTVは不要だ。同時にこうした国を挙げての全世界中継などのTVを通じたイヴェントの価値は限界に来たと感じた。

ノイヤースコンツェルトなどを見聞きしながらこのようなことも考えていた。ムーティ―の指揮などを横目に見ていると、やはり彼を後継者に選んだオーマンディーの眼は流石だなと思うしかないのだが、これだけのエンターティナーになるとヴィーナーヴァルツァーなどを遣っているのすらも無駄と思うに違いない。彼には、そんな場が無くても、十分に広い聴衆に語り掛けることができる技能を持ち合わせているから当然であろう。

仕事始めだ。それでもパン屋も肉屋も開いていないので、朝風呂に入った。初湯である。もう少し初夢を見させて貰おう。ジルフェスタ―コンツェルトで来年から誰が振るとかとあったので、つい来年はキリル・ペトレンコと思ったのだが、2018年にはまだ正式に就任しない。2018年8月にオープニングを指揮して、ザルツブルク・ルツェルンへと回る思わぬ展開から誤解してしまっていた。2018/2019 年シーズンは若手が繋ぐということだったが、要所要所は押さえるということなのだろう。だからバーデンバーデンも2019年4月に誰が指揮するのかは知らない。要請されていて断りのあったムーティ指揮の「オテロ」は2019年だったのだろうか?まさか囁かれている2019年11月の日本公演と ― つまりミュンヘンではその時に重要なプロジェクトが佳境に入っているということだろう ― 同じメータ指揮でヴェルディのオペラということになると一寸悲惨である。悪くはないだろうが、幾ら出す価値があるかは疑問である。「トリスタン」の共同制作とかいい加減なことを言ってぬか喜びしたくないものである。2019年8月のオープニングから、ザルツブルク、ルツェルン、ブカレストは、キリル・ぺトレンコの就任お披露目ツアーとなる。

そろそろ楽劇「指輪」の勉強を始めなければいけない。2014年に続いてこうも早く体験することになるとは思ってもいなかった。今回もキリル・ペトレンコ指揮で問題の多かった「ヴァルキューレ」ともう一つ通えば十分だと思っていたのだが、比較的価値のある券を入手して、「蓋の無い」上演では「黄昏」しか聞いていないので、次回のバーデンバーデンでの上演への参考とするために「ラインの黄金」も「ジークフリード」も外せなくなってきた。更にニーナ・シュテムメのブリュンヒルデはフォスターのそれとは比較にならないだろうから、これもと思うと、四回通わなければいけない。スキーと組み合わせることも考えよう。先ずは「ラインの黄金」から始める。バイロイトでは全く問題の無かった公演だが、逆にあまりに流れが良過ぎたような印象がある。



参照:
菊牛蒡とタロイモの年始 2016-01-03 | 料理
氷葡萄酒の名匠のお屠蘇 2015-01-03 | ワイン
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