Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ペトレンコのマーキング法

2018-07-17 | 
現在もミュンヘン歌劇場で掲示中の2016年欧州ツアー写真展のヴィデオの答え合わせをしておこう。正直何が何だか確認不可だったが、推測してみた。2016年のツアーのみならずキリル・ペトレンコ指揮の楽曲の多くはその楽譜に目を通しているので、覚えてはいないながらもどこかに記憶がある筈だと思った。特徴的な音形は最初のページの運命の動機風のものと次のページのヴァイオリンの逆山なり音形である。ツアーのプログラムを考えるとチャイコフスキー五番しか浮かばなかったが、そんなスケルツォだけでなくそんなページは見つからない。そこで楽譜を逆さにして詳しく見るとシステムの数が多いところと少ないところがあって、編成の大きな作品だと分かった。そして楽譜の分厚さからオペラと推測可能だった。すると作品数は限られている。シュトラウスとヴァクナー以外にありえないが、シュトラウスの書法ではない。そこまで来ると早かった、運命の動機の「神々の黄昏」の三幕だ。そこで漸く気が付いた。似たような角度で映したヴィデオが存在していたことを。しかし一体どこにあったかは皆目思い出せなかった。楽譜を捲っていると見つかった。愈々大詰めのブリュンヒルデの自己犠牲に入るところだった。なるほどあのツアーの前に制作された前年2015年暮れの私が出掛けていた時のクリップを宣伝に使っていた。あの時はブリュンヒルデを歌ったぺトラ・ラングのあまりにもの非力さで台無しだったが、管弦楽自体は素晴らしい演奏をしていた。しかし今はもっと先に行った演奏をする。それに来週はニーナ・シュテムメがそれを歌って、ペトレンコ指揮のミュンヘンでの「指輪」の最終公演となる。
Teaser Bayerisches Staatsorchester and Kirill Petrenko on tour, September 2016 #BSOtournee


ここでの赤いマーキングはホルンの5,6、7,8に点いていて、弱い奏者が落ちると大変不味いのでキュウ出しを忘れないようにという事だろうか。その直前のグルトルーネとブリュンヒルデが絡むところで、テムポに続いて「私は妻よ」と激情的にクレッシェンドで三連符へと繋がるところは赤マーキング、その小節後半に黄色マーキングとなっていて、ディムニエンドの小節へと繋がる。更にグルトルーネがAchJammerと叫ぶと、今度は動機が戻リディムニエンドする前に黄色マーキングである。どうも黄色マーキングは振り注意の意味の感じだ。

更にその前のジークフリートの最後の言葉「グリュース」から葬送行進曲に入るところがある。ホルンの合奏に黄色の紙が貼ってある。色が違うのは、これは自身への覚書で、電車の運転手と一緒でテムポのコントロール点と思う。赤い付箋は開く前から分かるので、先からテムポを準備して運んで行く箇所ではなかろうか。要するに早過ぎたり遅過ぎたりしないためのデッドポイントとなるか。

もう二ページほどあるかもしれない。もしどなたか興味があれば、ヴィデオ内でペトレンコが指揮しながら頁も捲っているので、他のページも写してみてはどうだろうか?指揮の動きだけでなくマーキングの使い方ももう少し研究できるかもしれない。

今回初めてペトレンコの表情を観ながら前から指揮を観察していて分かったことは幾つかある。先ずは、兎に角、懇切丁寧にキュウ出しをすることだ。他の指揮者はそこまで準備していなくて余裕が無いのに暗譜していると威張っているとしか思えない。同じように今回も弦が上手く響いたところで、「いいね」を出すように、この天才指揮者がそこまで楽譜から予期していた顔をするよりも我々凡人と同じく構えずに「いいね」を出せる権威主義に頼らない実力を見せつけた。上の赤のマーキングのように二三流の指揮者が稽古場で音出ししてから云々を語っていたのではお話しにならないが、そもそも議論の余地の無い和声的な芯を読み込んでいれば、音出しを止めて口で説明するよりも適格なキュウーを出すぐらいで造っていかないと無駄な時間が流れる。それが懇切丁寧な指揮であり技術的な勝利なのだろう。そして何よりもテムピが思いのままなので、指揮棒で多くのこと指導出来る。同じぐらいのことが出来てもギリシャ人のカラヤン二世ならば、上のような趣味の良い鳴りを引き出して、それを音楽にすることが出来ないのだ。要するに音楽性が無いという事でしかない。これはいくら努力しても教育を受けても身につかない。

もう一つはカウフマンが語るように、それほどの要求を課しても実演ではとても楽しそうな表情をして指揮をする。それは音楽的な内容を奏者に伝える技術であると意識するようになったと語っているように、昔は違ったようだ。その反面きっちりと楽譜に正確に問題点を記憶している。記録していないだけで、まさに視覚的に楽譜へのチェックポイントを暗譜していくという事だろう。場合によっては角を折っているかもしれない。マエスローリへの指示を見ていたが、ああいう風に乗せられると自然に歌手も意気が上がり、そのような表情をする指揮者もとても肯定的にチェックポイントを確認しながら修正を積み上げていくことが可能なのだろう。



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般
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鋭い視線を浴びせる

2018-07-16 | 
先ず断っておかないといけない。今回のプッチーニ「三部作」公演は初日シリーズとは違って木管などはエキストラが殆どで、それも昔この楽団で吹いていた奏者ばかりだった。例えばオーボエは辞めたらしい山賊兄さんで如何にも座付きらしいあまり繊細でない分厚そうなリードを吹き、クラリネットには「ティートスの寛容」でバセットホルンを吹いていた人が入っていた。要するにフェスティヴァルの陣容である。そして女性陣の弦ではなくお兄さんのコンサートマスターとアルメニア人など、あの女性だけの陣容を惜しんだ。それでも中々弾いていて感心した。

キリル・ペトレンコは、その晩も一幕の前にひっそりとピットに入って、ヴィオラと話しをしながら、右手首を振っていた。首だけでなくて手首も疲れる仕事なのだなと改めて思った。いつものように譜面台の楽譜の横にハンカチを縦に二つ折りにして置いてハンカチ王子の準備をしていた ― その後の写真を見ると山賊お兄さんの視線に睨まれていた。指揮者の背後のサイドにあるミニキューブみたいなのはヴェンチレーターのようで結構パウゼに強さを調整していた。

先ずは、一部「外套」で一番問題だったジョルジェッタを歌うヴェストブロックだが大分考慮して来ていた。ピアノで歌えないので、ジークフリートのヴィーンケのようにもう一度ボイストレーニングから遣り直す必要があるが、少なくともバカ声は大分無くなっていた。これならばヤルヴィと共演してももう少し上手く行ったはずだ。なによりもリズム的なパッセージもしっくりして来て、如何にもオランダ女らしいフガフガの口元を大分締めて歌っていた。すると母音も明確に出て来て、小さな声でも深くからの母音と一緒に音が伸びて来る。既にトレーニングを受けているのかもしれない。その証拠にヤホに負けないほど強くペトレンコを強く抱きかかえていたのにその気持ちが良く表れていたと思う。だから余計に今度はリーのバカ声を必死で押さえる指揮者の指示がしきりに出されるのだが、この韓国人には三つのフォルテと二つのピアノの間には何もないらしい。芸術的に程度が低い。どうでもよいが最後に挨拶で両手を頭の上で掲げるのはあれは韓国の儒教のそれなのだろうか、そうしたところにも如何にも朝鮮人の執念深い拘りを感じる。

そのような訳で、コッホとのデュオは見違えるように素晴らしく、押さえた声で高度な音楽的表現に至っていた。脇役で評判の良かったマーンケへの指示の細やかさも、管弦楽の鳴らし方で強調されたリズム打ちが無くなって、そのリズムの行間が更にドラマを語るようになって来ていた。しかし何といってもコッホの最高音でのベルカントの響きは、その管弦楽の筆致に揃って ― 最高音域でのその様々な工夫はプッチーニのベルカントへの一つの回答だと思う ―、まさしくベルカントの、オペラ芸術の頂点がここにあることを示す箇所だった。
IL TRITTICO: Clip (Il Tabarro)


二部「修道女アンジェリカ」のヤホのアンジェリカでの歌唱は期待通りで、残念ながら殆ど舞台を見ていなかった分余計にその声の音程など楽譜が手に取るように分かった。またペトレンコの指揮は大分更に進化していたと感じた。テムピがより遅く感じたが、実際にはホリが深くなったからだと思う。若しくは音符の一つ一つがより正確に精妙に演奏されて歌われることで印象は大分変わった。

私が経験した初演シリーズ二日目のようにヤホの声が出ていなかった時とは違って、無理して間奏を強奏することも無く、必要な点描的なサポートをしていた ー 座付き楽団の見事さよ。だからこれ見よがしのppp弱音とかの強調が無かったのは一部ともよく似ている。私などはこういう技術的な聴き方をしていたのでヤホの芸がどこまで泣かせたのかは分らなかったが、最後に錚々たるメンツの中で一人だけ圧倒的な大向こうの支持を受けていたのに効果が証明されていた。中継映像にもあったようにその時「本当?」という表情をしていたが、今度はその真意が良く分かった。

それは指揮から目を離さずに声の出方を聞いていたからだ。その要求が高いのは歌手陣が真剣に指揮を見ているのでも分かっていたが、あそこまで振り別けているとは思わなかった。だからレパートリーを十八番とするような歌手とのリハーサルが辛酸を極めるのは、卒倒してしまったらしいマルリス・ペーターセンの話でも分かっていたが、ヤホの歌がもはや初日の新派からギリシャ悲劇へと変わるかのような、音楽的に磨きに磨かれたものになっていたことと、それと同時に観客がより以上に喝采を浴びせることで、本人には分らないぐらいの完成度を確認したからだと思う。それもキリル・ペトレンコとの共演があってこそで、指揮者パパーノとのそれで満足していたならば全くこの境地には至らなかったと今度は気が付いたと思う。序ながら、初日シリーズで圧倒的な歌声で最も喝采受けたシュスターは調子が今一つだったのかそれとも芸術的配慮から押さえられていたのかそれほどまでには目立たなかった。そのせいかヤホの祝福への視線が役の悪おばさんのように鋭かった。
IL TRITTICO: Ermonela Jaho sings the final scene (Suor Angelica)


三部「ジャンニ・スキッキ」でもヴィオラが重要な働きをするところが出て来る。始まる前にヴィオラのトップと指揮者がなにやら話をしていたが、熱心なのは奏者の方で課題を持っているように見えた。実際に一部での箇所もヴィオラがもう少しアンサムブルで中核に入ると、こうした書法の場合は繋がりが良くなり、ゲヴァントハウスのような若しくはシュターツカペレのように音色が磨かれるのだろう。確かにここでハッキリするのはスキッキが出て来る前から、ヴァイオリンが高音部へと移るのにつれて中声部が支えるところが出て来る。特に若い二人の最初のデュオなどは典型的で、例えば放映された日の演奏と比較すると顕著だ ― 当日はリヌッチョの代役が袖から歌う事となって難しい状況だったのだが、またそれとは異なるだろう。今回はそこが見事に決まって、最後のデュオへと繋がった。放映の日は気の毒にお相手のロレッタを歌ったローザ・フィオーラが割を食ったが、やはりこの歌手は天下を取る人だとこの日も感じた。高音での管弦楽との輝かしいDesへの階段はここだけで称賛に価した。勿論のこと主役のマエストーリの声の至芸は指揮者も握りこぶしを回して楽しむかのように「やってくれ」の指示が出ていた。最後の大団円での風格も素晴らしく欠かせない大役だった。
IL TRITTICO: Clip (Gianni Schicchi)


しかし今回の公演は、初日シリーズ二回目で彼が胴を取ったのとは違って、本当のベルカント、声の芸術まるでギリシャ彫刻のようにそれが彫塑されることで、歌っている肉体からその歌声が飛翔して、その通りそうした声の存在こそが天恵であるのだが、まさしく天使の歌声とされるような託宣であることを実感させる芸術の極致の表現であった。それに比べれば如何にヴァークナーの世界がつまらなく ― 無神論者なら当然なのかもしれないが -、まさにそこでのベルカントの必要性を更に裏打ちすることとなっていた。そしてこれ以上のプッチーニ上演には当分出合わないことも確かだ。




参照:
写真を撮り撮られする 2018-07-15 | 文化一般
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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写真を撮り撮られする

2018-07-15 | 文化一般
写真を取られた。眠かったので赤いフラッシュから目を避けた。ミュンヘンからの帰路恐らく時速100㎞制限のところを120㎞を出していた。上手く行けば誤差男3%を含んで超過20㎞以内に収まって35ユーロで片が付く。丁度眠気が来たところで写真を取られて目が醒めた。35で収まれば眠気醒ましのアトラクションだが、時速20㎞以上追加となれば75ユーロと点数一点限定だ。速免停とは違うが、点数が消えないらしい。これは痛い。制限が時速80㎞なら駄目だが、ランダウのトンネル前でそれはなかった筈だ。固定カメラではなかったと思う。まあ様子を見るしかない。請求書だけならそれで終わりだ。宿泊代よりは安い。

しかしそれ以外はなにも噛む上手く行ったのだった。帰路も初めて完璧に最短コースを取れた。劇場からリンクに入って、左折してピナコテークモデルンの前を通ってブリエンナーシュトラーセに入る。ここで直進してしまうと中央駅前のカ-ルスプラッツに出てしまうのだ。つまり往路の最短コースへはなかなか戻れなくなる。二つのサークルを超えて、これまたダッハウアーシュトラーセに戻らなければいけないのだが、いつもニムフェンブルクを目指してしまう。レーヴェンブロイの角を右折して、室内劇場などを通過してアウトバーンの指図通りに行くと北環状へ、BMWの方に流される。それを我慢して走る続けて、数キロ行って左に西墓地を掠めて左折するとヴィントリッヒリングだ。ここまでいけば、メンツィンガーシュトラーセが二つ目の交差点で、これを右折するとアウトバーン八号線である。行きはよいよい帰りは恐いのルート取りなのだ。一番の問題は環境を考えて街中を出来るだけ通さないような道案内になっているからだろう。やっと地元民のように分かった。昔は北へ流すアクセス道路が完備していなかったので、これが最速最短だったのだ。今でも間違いなく最短である。

結局休み休みで、トイレも休憩所で無料で済ませ、ミュンヘンには16時過ぎに着いた ― 途中で三個のブロッツェンサンドを平らげた。途中にわか雨もあったが、予想以上に火が出て気温は上昇した。28度を超えていた。遅めに街に入ったので、17時に車庫入れするようにゆっくり走ったが、劇場前広場には八分ほど前に着いた。しかし幸運にも並んでいて、入車したのは17時3分だった。万時上手く運んだ。実際駐車料金は14ユーロ50しか掛からなかった。それからダルマイールに出かけて、小型トルテ三個とフィレパイとテリーヌを購入した。全部で30ユーロを超えた。今回は軽食を摂らないので仕方がない。それでもサンドイッチのために肉屋で購入したハム類と帰路のサラミで10ユーロを超えたのでどこも安くは無い。ダルマイールの価格はとても良心的な証明である。先ずは先日カフェーで試したヨーグルトのものは自宅で食す。上に乗っているベリー類が下に落ちていた。他のものはどうだろうか?

公演の詳細は先ずはメモを整理しないと駄目だが、初めてのミュンヘンのロージュについて少し触れておこう。結論からするとこのサイドのロージュでこれ以上は無い思いをさせて貰った。もう一つ下ならばさえらに良いだろうが、なかなか手に入らないと思う。舞台への視角は上が切れていて、制限が多い、だから普通のオペラ愛好家には勧められない。王のロージェやバルコンの方がいいだろう。それでも私などは99%指揮者と管弦楽を眺めていたので、どうでもよい。例えばお目当ての歌手も前に出てくれば身近で聴けて、距離が近ければ角度などあまり関係ない。寧ろ上からだと演技に影響されないで冷静に聴ける。しかし何といっても指揮者からのキュートその音の響くタイミングが、歌手と舞台裏など様々で、それに合わせて指揮するのを観ていて驚愕以外のなにものでもなかった。管弦楽が声に合わせる座付きであることだけでは埋め合わせられないものからすると、コンサート指揮者の容易さは想像可能なもので、それでも合わせられないコンサート指揮者などお話しにならないと思う。要するに再度のロージュでの経験は玄人向きのもので、如何にパフォーマンスをお客さんに届けるかという送り出し側の感覚が無いことには全く楽しめないと思う。

それでも今回の演目が「パルシファル」など鳴らす音楽でなくてよかった。あれで完全に鳴らされるとやはり指揮台での音の聞き分けが出来るぐらいでないと、中々音響の渦の中で判断が付かないだろうと思う。真上なので完全に鳴り切る。やはり距離感の問題だと思う。近づくほど直接音、離れるほど間接音が多くなるかけだが、遠いのもこれまた聞き取るのに経験や見識が必要だが、あまり近過ぎても中々その混ざった音は理解出来ないと思う。その意味では私のところでは音響的に舞台と奈落の音が会場の遠くでどのように響いていたのかは想像するしかない。だから演奏者と同じぐらい会場の湧き方に耳を傾けた。

上演とは関係ないがロージェに控室が付いているのは知らなかった。つまりガルデローベも付いていて、皆と同じように預けないでもそこに置けることも知らなかった。古い劇場はどこも同じようなものなのかもしれないが、ロージェなどそこを使う必要性も無かったので知らなかったのだ。しかし、ここのサイドだけは意味が違った。王のロージェはなにか特別な機会が合ったらとは思うが、それほど座ってみたいとは思わない。しかしここは機会があればまた使いたいと思った。少なくとも奈落の現場などの関係者にはとても価値があるだろう。舞台に関してはもう一つ下でないと駄目だろう。隣に居た夫婦はいつもは最前列だというが、ここから見ていると、舞台に興味ある人には最高かもしれないが、音楽に関してはやはり比較にならないと思う。椅子を使わない指揮者の指揮はよく見えるかもしれないが、肝心なのはその指揮と歌手だけでなく管弦楽との関係でもあるので、片手落ちとなるだろう。それから今度の舞台はプロンプターの奥の縁で切られていた。あれは例えばヤホなどが縁でバランスをするときの安全性とその効果でもあるだろうが、少なくとも三メートル以上奥で歌わしていることになる。最前列に座っていても、管弦楽団の助けを受けずに花などは舞台に投げられない距離であったことを確認した。

歌手の視線は演出にもよるだろうが、下手側には引かれていたので、そちらからは得られただろう。しかし要は一番下の背後にあるモニターへの視線で、演出に制限を受けずに、指揮者と違う方向を見ていて拍子を外さない配慮が行き届いていた。



参照:
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
ペトレンコ劇場のエポック 2017-12-22 | 音
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予想される一時間遅れ

2018-07-14 | 生活
夜の友人の演奏の放送を結局録音した。もし近々会うとしたらやはりコメントしない訳にはいかないので、BGMで聞き流すことはならなかった。一曲は近代の音楽で本人のメインレパートリーではないことは、もう一曲の新作について「説明するまでも無く安心して任せれる」というようなアナウンスで紹介されていた。その近代協奏曲の演奏は全く悪くはないのだが、最近はその方向では可成りこちらの耳が厳しくなってしまったので、どうしてもこまごまとしたところに気が付いた。若干楽器のメカニック音が気になった。やはりもう一曲の新作に楽器を合しているのだろう。新作の方はそれほどの特殊奏法は無かったが、自家薬籠中の出来だった。その意味から先日聞いたパウのフルートなどはそのどちらでもきっちり合わせて来るのだろう。

土曜日の準備がもう一つ進まない。一寸頭が混乱している。劇場訪問とは直接関係ないつまらないことだが、そのピクニックの準備とかが纏まらない。パン屋が開いていないので、持参するものは限られる。先ずは開演が19時と比較的遅く、ブランチを自宅で摂ってからと思っているが、渋滞が予想されていて一時間余分に時間が掛かりそうだ。つまり正午に出ても17時前にしか着かない。向こうで食事する時間も買い物の時間もない。11時半に出ても16時過ぎである。するとどうしてもピクニックの準備が無いと帰路が苦しい。今回は肉屋に寄って、パンとサラミ類を購入して、サンドイッチにしよう。果物も野菜類もあるので、ゆで卵等を加えれば何とかなるだろうか。パンを二つにするか、三つにするか。行きにも渋滞で手持無沙汰となると齧ってしまうかもしれない。クールボックスは持参するとして、ハーブ茶を冷やす。果物はバナナに桃とイチゴとサクランボがある。

予想されたように30度近い気温にはならずに曇りがちとなりそうなので助かる。26度が予想されていて、雷雨も翌朝まで来ないようだから帰路も何とかなりそうだ。それで衣装は大分楽になった。更にあんちょこバタフライの色の合いそうなものがあったので、今回はそれを使おう。垂らしているよりも少しは軽快で気持ちが良い。なんといってもあんちょこでないと結んでいる間に汗を掻いて困るのだ。

なによりも燃料の値段が気になる。予測していたように簡単には落下せずに、寧ろ二十四時間前よりも上がっている。それでも夕方の最後のワンチャンスを狙いたい。それで満タンにすれば、何処にも寄らずにミュンヘンを目指すだけとなる。渋滞で少し燃費は悪くなるかもしれない。燃料を入れて仕舞わないと落ち着いて「三部作」の楽譜も開けないので、先ずは地元のスタンドが最低価格に並んだところで決断した。そこから自動車クラブ割引でリッター1セント安くなる。そして遠くまで走って入れに行く暇も無い。そしてスタンドに着くとなんと更に10セント安くなっていた。10キロ圏内で最低価格だ。断トツだ。流石にネット情報時代、車が集まっていた。そこに嘗て州の議員をしていたアイメール氏が居たのでお互い挨拶をした。ショイレーべ種に関してはトップの有名醸造所のオーナーであるが、私はリースリング愛好家なので顧客ではない。

これで落ち着いた。前日にもチャンスがあったのだが活かせなかったので、同じ価格で給油出来たのが嬉しい。57リットルで79.17ユーロだった。一時からすると高いが仕方がない。これでほぼ準備は整った。夕食も涼しくなってから少し遅めに摂って、ゆっくりと睡眠を貪りたい。食事前に「三部作」を通して、食後位に楽譜とヴィデオでもタブレットに移しておけば、あとはイヤフォーンでゆっくりと昨年12月の公演を聞きながら走れる。何とか準備は間に合いそうだ。



参照:
緑の原をミストリウムへ 2018-06-29 | 音
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活
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涼しくて快適な七月

2018-07-13 | アウトドーア・環境
週末にかけて夏が戻ってくるようだ。だから少しだけ気温も上がり、湿度も上がった感じだ。それでもシャワーの上の温度計はとても快適な環境を示している。実際にバルコンで朝食を取ったりしても寒くも暑くも無く気持ちよい。ここに住むようになってからこんなに快適な七月は初めてだ。それどころかこんなに快適な夏も珍しい。今年は計画が立てられなかったので自宅待機のような夏を過ごしているが、ワイン街道に居てもこんなにヴァケーション感覚で過ごせるのは珍しい。アルペン地方に出かける必要もない。それだけでも、夏嫌いの私としてはとても幸せだ。

ルツェルンからのニュースレターで残り券の売り込みがある。ずっと気になっていたのはボストンシムフォニ―管弦楽団だった。残券も十分で65ユーロほどで買える。日程的にも可能なのだが、先週のタングルウッド音楽祭中継で失望して、コヴェントガーデンでの「ローエングリン」で完全に意欲が失せた。録音でタングルウッドの初日後半のチャイコフスキーを聞くと、これは全く価値が無いと思った。責任は指揮者にあるので、ゲヴァントハウス管弦楽団の就任演奏会のヴィデオも消却した。それと残券の数は関係ないのかもしれないが、それ程ではなくても残券の多いワンとペトレンコの協演はあまり宣伝していない。こちらの方はまだまだ出ると見込んでいるのだろう。映像の放映だけでなくラディオも中継するようだから話題性は遥かに高く、いずれ高額券も飛ぶように売れると見込んでいるに違いない。

驚いたことにペトレンコ指揮べルリナーフィルハーモニカーの初日の恐らく戻り券が再び出ている。三列目が15席、これはスポンサー筋からの戻りだろう。13席は次のクラスでこれも並びが多い。更に220フランの10席でこれは驚いた。多くが並んでいるのはスポンサー企業筋だろう。ベルリンから数えて四回目の公演で、べート―ヴェンなどはなんとかものになる可能性がある演奏会だ。玄人筋はずっとロンドンまで同行するのだろうが、ロイヤルアルバートホールは音響が良くない。

さて九月はハイティンク指揮のコンサートを購入したので、やはり80フラン出す気持ちは完全に無くなった。その他のコンサートを見ると、コンセルトヘボーやロンドン交響楽団演奏会のように比較的安く買えるものもあるのだが、意外にメスト指揮のヴィーナーフィルハーモニカーがなかなか売れている。70フランでのラトル指揮ラヴェルプログラムなどは行ってもよいが、他の仕事を組み合わせなければ勿体ない。なによりも八月末から通うようになると、心配なのはスピード違反で法外な罰金を取られそうだから嫌なのだ。兎に角スイスは金を剥ぎ取るシステムになっているのであまり通わない方が安全だ。

夜は友人の演奏会のラディオ演奏会録音中継があるようなのでしっかり番組を聴こうと思う。録音はしないでも、必要ならば本人が局からコピーを貰っているからいいだろうが、久しぶりなのでどのような音楽を奏でているのかとても関心がある。場合によっては夏の間に会う必要もあるかもしれない。

オイル価格がユーロ建て急降下している。現時点ではまだ小売り価格にそれほど表れていないが、上手く行けば金曜日にでも安く満タンに出来るかもしれない。5ユーロでも安くなれば劇場でのコーヒーなどぐらいの差額は十分に出る。今回はプログラムも既に購入しているので、当日のメムバー表さえ買えば済む。小銭もそんなにいらない。



参照:
既に遅しとならないように 2018-06-27 | 雑感
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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予想を裏切って呉れる

2018-07-12 | 文化一般
早起きして、頂上へと往復した。前日に続き涼しいことは分っていたので、この機を逃せないと思った。駐車場で17.5度だった。だから前日からジャガイモを食して翌日に備えた。早朝に目が醒めてそこそこの寝起きだったので頑張って出かけた。前回はもしかするとパン屋の冬休みの時かもしれない。兎に角、久しぶりで、ゆっくりと走った。不思議なことに今まで経験したことが無いほどに心拍数を上げずに走れた。幾ら調整しても急坂部とか同じ核心部で急上昇するのだがなぜか比較的落ち着いていた。印象からすると160超えていないと思う。もしかすると数年目にしてようやく坂道の走り方が身に付いて来たのか?運動不足で体重増加が怖くて走りに来たようなものなので ― 最近小さめのTシャツが更に胸廻りが狭く感じるようになった、筋肉強化していないのになぜだろうか ―、心肺機能が強化されたとは信じられないからだ。その証拠に以前は50分で往復した道程を70分掛けていて、上りも34分が46分掛かっている。とんでもなく鈍いのだが、嘗てはこれが出来なかったのだ、理由は分からないが走る技術の違いなのだろう。ジョギングの方法が数年かけて漸く分って来たのか。兎に角下りも、北の方を見ると朝日に幾重にも重なる山並みの頂上周辺が照らされて美しい。なによりもここのところの朝晩の冷え込みのお陰で、森の中の空気がヒヤッとして、薄い朝陽と共に何とも気持ちがいいのだ。

何処を走っているのか分らなくなるほど、完全に違うことを考え乍ら走っていた。一つは前夜のケルンのフィルハーモニーからの生中継放送だ。パウが新曲を地元の座付き管弦楽団を振るロート氏と共演して初演していたことだ。後半のフランスのトリコールを着て出て来るシーンはこちらがサッカー中継を観ていたのでしらないが、パウのフラッターの連続を聞いていて、本当にこの人は違うなと思って唖然としていた。技術でしかないのだろうが、それにしてもこんなに安定して思う様にフルートを吹く人は知らない。昔からガッゼローニとかニコレとか名人はいたが、この人のような人は知らない。そしてこの人か未だに大管弦楽団で吹いているのが信じられない。変化に富む演奏活動をしたいのかもしれないが、他の管楽器奏者との差が甚だしく、調和がとれない。最後に指揮者もフルートを吹いて合わせるというショーピースにもなっていた。管弦楽団がギュルツェニッヒとか大層な名前がついているが、音出し早々に座付きだと分かった。ゲヴァントハウスとは全然違う。指揮者が悪い訳ではないだろうが、コンサートホールで弾いていても思っていたよりも下手である。やはり所属する歌劇場の水準に反しない。

パウ氏もロート氏も楽団の司会者のインタヴューに丁寧に答えていたが、その楽屋前の実況中継が面白かった。なによりも気が付いたのはやはり劇場とは違って、コンサートホールの控室周辺は磨かれていて綺麗だという事だ。古いコンサートホールになると控室も埃(誇り)臭いが、あのような近代的な劇場は掃除もしやすいのだろう。その環境を考えただけで仕事ぶりが音楽表現が変わりそうだと感じる。少なくともライフスタイルは変わるだろう。

その埃臭い様子を二年前に制作された映画「ガンツグローセオパー」が描いている。映画自体は観る機会を活かせなかったが、こちらが興味あると思われるシーンはYouTubeで出ていたので、それ以上には期待していなかった。そもそもARTEの放送が日曜日のネット中継の後で、同時に流れていたフィラデルフィアの「トスカ」すら忘れていたので、疲れて床に就いていた若しくは興奮状態で録画したものなどを整理していた。それが再放送分のオンデマンドだけでなく、音楽業界誌のサイトにもリンクが引かれていた。急いでDLして、中身を観ると、丁度映画館で観る時にしばしば感じるのと同じで、こちらが思っていたものを少し裏切ってくれた。
GANZ GROSSE OPER Trailer German Deutsch (2017)

GANZ GROSSE OPER | Clip 7 | Deutsch HD German


未視聴カットが多数あった。この制作が「マイスタージンガー」初日公演と並行して最初の三分の一ほどはそれに纏わるドキュメンタリーにもなっているが、ゲネプロのトレイラーなどにも使われた撮影箇所以外の合唱のプローベやピアノ舞台プローベやカウフマンのヴァルターの歌をも含めて、ストリーミングで流された本番での指揮風景も、未公開映像が上手く編集されている。今まで公開されていた2分間はごく一部で、「マイスタージンガー」関連だけで18分間ほどあって観甲斐がある。MP4で期間限定オンデマンド化されているので50分の本編全体をDL可能だ。



参照:
自身もその中の一人でしかない 2017-06-07 | 生活
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
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情報量の大小を吟味

2018-07-11 | 文化一般
週末のミュンヘン行を準備しないといけない。もう一度プッチーニ作曲「三部作」の楽譜に目を通しておきたい。出来れば生配信映像録画ももう一度通して観ておきたい。しかしまだまだ日曜日の配信の余熱が残っている。先ずはオンデマンドのDLを試みたが、1KサイズのMP4は何度試しても4時間13分で切れてしまう。編集ミスのようだ。そこで次の大きさをDLすると5.45GBになった。4時間36分04秒である。ただし音声は189kの伝送速度なので全く駄目だ。予備にNASの肥やしにしておくだけだ。

技術的には、初日のラディオ放送と異なりマルティマイクロフォンシステムで録音されていて、音声の情報量はこちらの方が遥かに大きい。しかし末端でそれを受信する場合は伝送のエンコーディングによってフィルターが掛かることでそれほどの新鮮みを感じない ― つまり純粋にオーディオ的な評価がその音質と誤解される。極端に喩えれば、会場の座席でどんなに高性能なマイクロフォンと機材を隠し持って密かに録音しても捉えられるのは隠し録音する犯人の衣の触れる音や腹の鳴る音が嫌に生々しく聞こえるという事でしかない。それを情報量と呼ぶのは、昔人気のあったオーディオ評論家長岡鉄男の悪影響を受けた日本のオーディオ愛好家かもしれない。

こうした楽曲録音の場合の情報量は、そのもの音楽表現に関与する全てのものを指すので、特にこうしたライヴ録音の場合はある程度の会場の雰囲気はそのドキュメント情報の重要な一部でさえある。それをして新鮮みと称するのは間違いではなく、それが欠けることでこうしたライヴ中継の価値は半減するのも確かである。更に劇場中継の場合は視覚が大変重要であり ― だから昨今芝居ラディオ中継など聞いたためしがなく、存在するのはラディオドラマだけである。

その意味において音楽劇場からの中継も同様で、ラディオ中継の価値は限定的である。なぜならば舞台の上で起こる雑音などは否定的な意味しかないからで、制作録音の音質は得られないからだ。なるほど今回のライヴ配信はマルティマイクロフォンゆえに、指揮者が捲る楽譜の音まで捉えられているがそれも映像が情報を補強するので違和感はない。要するに映像と相まった音声の情報がここでは評価される。この議論を進めると美学的な考察は避けられない。

そうした映像ゆえに確認可能なのはテュッティーを弾く演奏者のメムバーだったりする。驚くべきことに、初日とはメムバーが大分替わっていた。例えばコンツェルトマイスターの二人は初日はヴォルフとアルバニアの人の二人で、シリーズ四日目はシュルトハウスとおばさんの二人、それだけでなく管などもトップ二人の一人が替わっている。これがなにを意味するか?通常は初日シリーズの質を上げていくためには固定するのがベストだが、敢えて入れ替えているような様子で、もはや音楽監督と楽団の信頼関係がこうした水準まで至ったのかと思う。つまり誰がそこに入っても水準を保つどころか上げれるということで、今後誰が振ってもDNAとして引き継がれるものがあるということだ。これは、九月に式典の行われる歌劇場二百年の、音楽的なエーラを先に引き継ぐことをも日頃から意識しているからだろう。こうしたところのキリル・ペトレンコの意識の高さにはいつものことながら頭が下がり、それ故に天才と評されるところだ。ベルリンでこの関係に至るにはそれ相当の時間が必要だろう。

ネットに広場で喝采を受けた後のバッハラー支配人とペトレンコがフィストバムプで祝福する写真を見た。その時は一体どのような「男たちの悪巧み」かなと思ったが、より大きなプロジェクトの中で到達した何かを祝福していたのだと思う。演出に関しては評判は芳しくなく、メディアにとってはバゼリッツの美術以上に扱うだけの素材を提供していないので、話題にしようがない。それを補うだけの成果ということになるだろうか。思い当たることは、三年以内にカウフマンのトリスタンということで2021年のフィナーレは「トリスタン」でお別れ祝祭となるだろう、その前哨戦としてやはりベルカントのカウフマンの成功が必至だったとも考えられる。なぜそこまでカウフマンに拘るかの裏事情は知らない。しかし、同じミュンヘン出身のゲルハーハ―共々、音楽監督が代わっても次の時代に引き継ぐという方針はあるのではなかろうか。

「三部作」が済むとルツェルンへ向けての準備となるので、細かなところに触れる時間があるのかどうか分からないが ― 気持ちはもうフランツ・シュミットへと向かっている -、今までの新制作シリーズと共通したところが今回もあった。それは一幕から終幕までの出来推移で、初日には三幕から仕上げていき、徐々に前へと完成度を上げていく。聴衆の印象やその効果を考えて、練習の時間配分を考えているのだろうか?それとも作曲家自体がそうした手慣れた創作を書いているのだろうか?その意味から初日には圧倒的だったアンフォルタスのシーンよりも重点は二幕へと移っていて、まだまだ一幕へと修正されていくのだろう ― 勿論歌手の出来不出来はあるのだがこの傾向はいつも同じだ。すると秋の「マイスタージンガー」は一幕が更に充実するか、あの最も厄介なポリフォニーのフィナーレが。まだ30日に最終回があって、来年三月へとまだ手慣れていくのが憎い。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評
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興奮醒めぬ中継映像

2018-07-10 | 文化一般
夢のようなストリーミング中継だった。初日を経験した者にとっては魂消るような出来だった。よくも途中二回の上演と稽古でここまで修正してくるかと思った。いつものことだが細かなところを修正して、その音楽の雄弁さが全く違ってくる。中継を食事の時間以外は楽譜を捲り続けたが、本当に細かなところの意味づけが明白になっている。録音を聞き比べた訳ではないが、記憶だけで充分に相違があった。だから常連さんは態々初日に行かないでもいいと思うのがペトレンコ指揮の新制作シリーズだ。

それにしても、初めから四日目が二回目の中継日と決まっていたので、逆算して合わせてきたにしても、その準備の適格さは驚くべきマネージメント能力で、これだけで超一流の指導者であるが、ここまでいい演奏が出来るここ一番で腕を揮う陣営を率いているのがまた凄い。流石にペトレンコも満足そうな表情を存分に振り撒いていた。恐らく中継されたものではピカイチの出来栄えだったのではなかろうか。

演出に関しては三幕を再度じっくり観る必要があるが、やはり動かし方が明白さに欠けて、退屈と批判されたのも理解した。その一方沢山の気に入った情景もあって、やはり美術的な力はあった。

この晩のヨーナス・カウフマンの歌唱は特筆すべきものだ。会場では一番の支持を受けていなかったが、私はとても評価する。初日ではステムメの方が胴を取っていたが、この日のカウフマンは声の出方が違った。驚いたのは、一幕の後でゴッチャルクのインタヴューを舞台裏で受けていて、その生き生きした受け答えだった。結局彼に続いて、パーペ、ゲルハーハ―と更にはステムメそして楽屋へとタラ・エラートらまで登場したのだが、やはり皆一種の興奮状態で、ああでなければ舞台で演じられないのだと分かった。その中でも二幕でデュオの控えている彼が出てきたときは、「歌手の邪魔をしないでほしい」と思ったぐらいだが、あれぐらいでないとあれだけの舞台は出来ないのだと認識した。やはり楽器の人とはまた違いとても開放的だ。楽器は温めておかないといけないという事か。

いつものようにオンデマンド配信が提供された。これは丸一日時間があると思って安心しているとDLする期を失う。ぎりぎりになって何とか間に合ったこともあった。映像はMP4で音響もそれほど優れていないが使えるだろうか。しかし今回は当方の高速ネット回線化初のストリーミング再生で、ライヴ映像が1Kで綺麗に流れた。コピーすると45Gほどになった。音声は余分にWAV録音したが、画像に見合っただけの音声のサウンドトラックをFlac録音とした。一幕で予備録音の音量調整が低過ぎたのでどうなるかと思ったが、それでも完全爆発するとよく鳴る。今回の演奏の特徴ともいえる大鳴りである。ヘッドスペースに余裕があるだけにこれまた豪快である。スクリーンコピーソフトの問題点は入力段がもう一つのようで折角のハイビットがもう一つ活きない。それでも画像を見ていることで補えれるものもある。そもそもの中継の音質はある程度の伝送速度が出ていたと思われ楽しめるものだ。高音もかなり伸びていて、低音も腰があって豊かだ。

舞台裏インタヴューでなかなか止まらなかったのはゲルハーハ―だ。二幕で出番が無いから時間潰しには良かったのだろうが、朗々と役柄などについて論じだすと止まらなかった。これも一種の興奮状態とみた。あれだけの演技をしてプロフェッショナルであろうと平常な方がおかしいと思う。二幕の後では三幕には歌わない演技をするステムメが出ていたが、その三幕の舞台の喜びを語っていて、歌手であっても皆役者なんだと改めて思った。ミュンヘンのような大劇場であると映像のように細かい表情などが分るのは特等席の人ぐらいだろうが ― 流石に最前列にはBMW関係の人が指揮者から上手側を占めていたようだ。

カウフマンの「嘗てはベルカントでヴァークナーを歌っていた」発言はいろいろと考えさせられる。少なくともペトレンコのように指揮しないことには難しいというのが核で、一体何時ごろからああした芋のごった煮のような管弦楽演奏になったかである。またゲルハーハ―が態々バーンスタインの言葉としての「音楽にはEもUも無くて、あるのは良い音楽と悪い音楽」を完全否定していたのはよかった。勿論聞き手が大衆に影響のある連邦共和国ナンバーワンの有名人ゴッチャルクであり、外のPVに集まっている多くの人々を意識しての発言でもある。要するにエンターテイメントと芸術は違うという当たり前の話しであるが、大衆向けに発言するところが偉い。

その意味からは、ヨーナス・カウフマンは大衆市場の人気があって、今回のような至芸とも言える素晴らしい芸術的歌唱を披露しても、それにしっかり反応するまた違う層とは本当に価値判断の出来る趣味の高い人たちなので、会場での反応も想定されるほどではないのだ ー 明らかにこの期間の劇場は平素の常連さん主体の雰囲気とはまた異なる。



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見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
アマルガムの響きの中 2018-07-03 | 音
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見所をストリーミング

2018-07-09 | 
早めに床に就いた。夜中は摂氏15度ほどまで下がる予報だったので窓を閉め切って熟睡体制にした。それでも前日の時差のためか四時前には目が醒めた。そのまま白んできたので、パン屋に行く前に峠を攻めた。誰もいない森は清々しい。坂をのぼりながら、夕刻にストリーミング中継のある「パルシファル」を頭の中で繰った。見どころを纏めたいからだ。私には、やはり悲愴交響曲などと違って、これは難しい。仕方がない。真っ当に振れる指揮者が殆ど居ないような曲だから難しくて当然だ。比較的リズム的にも単純なのは聖金曜日の音楽辺りで、そこは鐘を鳴らしておけば直に足の歩みに合わせて繰り返される。下りてきても温度計は15.5度しか指していなかった。丁度いい感じだった。パン屋に寄って、ブロツェンではなく週明けに食せるように、聖金曜日のそれのようにワインに、ブロートを買おうと思うと全く焼いてなかった。翌日からの休暇に残る危険があるからだろう。いつもそのことを忘れている。

承前)バゼリッツ氏が最初の前奏曲で全てだというのは名言だ。この曲はフルトヴェングラー指揮の戦前のSP録音復刻LPは私のデフォルトなのだが、今やっとその前奏曲版の意味が分かってきた。冒頭の所謂「晩餐」主題のG-C-Esが「痛み」動機でがモットーなのだが、その前の始まりの上昇が意識の中でどうしてもあの単純なブルックナーの七番の上昇主題に繋がってしまうのだ。この主題が出ればあとはモットーへと引き継がれていく。類似していても比較的単純な「聖杯」の動機を超えて、今度は「信仰」の動機と呼ばれる三拍子系へと移る。

前夜「ローエングリン」の中継録音放送を聞いていたので、再び「タンホイザー」の方へと意識が戻っていた。あの時の信仰は「巡礼」であった。大体これぐらいを押さえておくと、この舞台神聖劇の聴き所を外すことは無いだろう。大きな劇構成も三部のシンメトリーで比較的簡単だ。しかし、やはりリズムは難しいと思う。それでも一幕におけるグルマネンツの語りから寸止め、またはクンドリーの溜息、なんといってもアンフォルタスの痛みはこれで音楽的に抑えられる。

二幕においては第一部での乙女のアンサムブルが気になるところだが、シュテムメとカウフマンのデュオは今年最大の音楽劇場の山場を見せてくれるのではないかと期待している。そしてその音楽的な成果を待ち構えればよい。三幕でのアンフォルタスの歌唱と演技が一幕の「科白」に続いて過剰かどうか?これは演出とその音楽的な意味を吟味すればよい。その名歌唱を披露するゲルハーハ―に言わせるとこのカルト集団はまさしく吸血鬼で、血を吸い求めるとなる。これも演出を批評する点でとても参考になると思う。敢えて聴き所で付け加えておきたいのは、合唱である。この合唱団は、なぜか日本公演では批判の対象となっていたのだが、今回の公演では「タンホイザー」や「マイスタージンガー」のように活躍しないが、「バイロイトのそれには及ばないが」と最大級の評価もされている。今回の歌手陣の中で全く遜色ない存在感があったことだけは確かである。

個人的にヴァークナーの作品の中でなぜか最も「パルシファル」を一番多く実演で経験している。偶然ではないと思うが、そしてこの作品が今でも一番難しいと思う。内容的というよりも音楽的に難しい。如何にまともな上演が今まで為されていなかったかという事で、私たちは今晩のストリーミングで再初演のようなものを体験できると思う。そしてこの作品があのバイロイトの蓋付きの劇場のために創作された唯一の作品であるのがなんとも秘儀じみている。子供の時にクナッパーツブッシュ指揮のフィリップスのバイロイト実況録音に本当に打ちのめされて未だに大きな音楽体験になっている筈なのだが、それこそ、それが秘儀を通した体験だったからであろう。それを乗り越えるだけの認知力が働き覚醒が生じるかという事でもある。

コヴェントガーデンの「ローエングリン」の感想も手短に述べておこう。結論から言うと大きく期待を下回った。それでも三十四年ぶりぐらいに一通り聞いてよかった。前回聴いたのはハムブルク劇場の日本公演の1984年らしい。ヴォルデマール・ネルソン指揮でユルゲン・ローゼ演出、歌はジョーンズという人が歌っているが、グルントヘーバーが王を歌っていたようだ。今まで気が付かなかった。

兎に角このロマン歌劇は長くて、最後まで座り続ける苦行なのは今回の放送でも変わらなかった。なによりも期待したパパーノの楽団をネルソンズがそこまで振れていない。タングルウッドの初日で気が付いたように不明なダイナミックス特にピアニッシモを突然入れたりするのは皆目理解に苦しむ。楽譜の読みに関してはとても粗くて、指揮者ネゼセガンとは比較にならない。オペラ指揮者としてそれを多めに見ても、ひたひたと流すのを得意としているようだが、リズムの切れがとても悪い。これでは座付き管弦楽団でこの長たらしい曲を演奏してもこちらが苦しむだけだ。敢えてそうした指揮をしているのは分かるのだが、あまりにも鈍く、34年前の演奏の方が木管の色彩感などもあって聞かせ、コヴェントガーデンの楽団がとても貧相に響いた。流石にタイトルロ―ルのフォークトの歌は危なげないが、皆が言う様に少なくとも現在ではタンホイザー役よりもローエングリンの歌の方が向いているなんてとっても思えなかった。とても存在感が薄くなる。ツェッペンフェルトの朗々とした歌は見事なのだが、なにかこの指揮者の下ではもう一つ充分に歌わして貰えていないようで歯がゆい。もう一つ気が付いたのはネーティヴのイングリッシュスピーカーがエルザやエファーを歌うと幕が進むにつれて同じように歌がフガフガになるのに気が付いた。これは口角筋が発達していないからだろうか。

誰かが書いていたが、オペラ指揮者としても今一つのようで、座付き楽団の評価とはまた大分隔たっている。そもそも楽譜の読みが充分でなく、リズム的なメリハリが今一つとなるとコンサート指揮者としても辛い。総合的にネゼセガンとネルソンズでは明白な差があった。この指揮ならば、初代バイロイト音楽監督ではないが一寸アドヴァイスしてやろうという気になる。もし「パルシファル」を予定通り振っていたら、あの演出を含めて結構批判も出たと思う。あれほど才能がある人の筈なのだが、欠けているものが大きい。

そのようなことで余計に昨年の「タンホイザー」公演の意義や如何にミュンヘンでのヴァークナーの水準が全ての点で並外れていて記念碑的なものかを改めて認識するに至った。放映の始まる夕方まで寝過ごさないように午睡でもしようか。ネット環境が高速になってからは初めてのミュンヘンからのストリーミング中継である。送り出し側に問題が無ければ綺麗にダウンロード可能な筈だがこれは試してみなければ分からない。月曜日の昼からはMP4が落とせるので資料には困らないであろう。永久保存になりそうな高水準の上演が期待される。初日と同じぐらいに期待が高まる。今回は初日からそれほど問題は無かったのだが、それでもかなり修正してくると思う。



参照:
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
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「死ななきゃ治らない」

2018-07-08 | 歴史・時事
森の中でライヴァルの白髪の婆さんとすれ違った。「今日はジョギングじゃないの」と聞かれたから、「寝不足した」と話した。坂の上まで歩いて下りてきた森の中は摂氏17度以下で気持ち良かった。ベットに入ったのが4時過ぎで8時過ぎにはパン屋に向かったから、前夜の23時から25時までと合わせて全部で五時間も断続的に寝ていない。一番深く眠りそうな時間に起きたので厳しい。今後は合衆国からの録音はタイマー操作にしたい。

それでもタングルウッドからの中継は想定よりもいい音がしていた。先ずは地元の放送局のストリーミングの程度が高い。そして半野外のようなタングルウッドの響きも全然悪くは無かった。ボストンのホールとも比較してみたいが、これはこれで楽しみだ。

交響楽団のサウンドは流石にボストンサウンドでシックなのは明らかだったが、前回の日本公演でも批判されていたように技術的には粗があって、これならばゲヴァントハウスと比較してどうという事は無いと思った。同じような管弦楽団を両方掛け持ちする意味は分からない。ネルソンズならば他のビックファイヴも狙えたと思うが、待てなかったのだろうか。経済的な面などいろいろ考慮するとボストンの方が魅力があるのだろうが、ゲヴァントハウスの方が上手く行けば芸術的な可能性が高い。二年ほどで判断するというような意味のことを漏らしているが、ボストンではあまり期待が出来ない。

肝心のランランカムバック前に魔笛序曲が演奏された。確かに才能のある指揮者で、その技術は超一流には違いなく、奏者に遣らせるその指揮がとても楽員に喜ばれているのは分かる。そしてネゼセガンのようなおかしなスイングもしない。

ランランが登場するとそれなりの喝采が起こって、会場は湧いていたが、管弦楽団の演奏からして今一つだった。ランランのソロを真剣に聞くのは初めてだった。今までは車中でミュンヘンで演奏したものが同地の放送局から流れていたものなどを耳にした。だから復帰後の演奏がそれまでの演奏とどう違うのかはあまり分からない。但し印象として持っていた単純で非音楽的なリズム感やその指運動のようなタッチはそのままだった。先ずここで失望したのだ。もしかしたらルービンシュタインのように目張りした部屋で隠れ特訓をしているかと想像を逞しくしていたからだ。

だからレガートの弾き方も以前通りなのだと思ったが、反対にスタカートの粒立ちも悪く、その対照が曖昧で要するにアーティキュレーションがしっかりしていないようにしか聞こえない。そもそも稚拙なそれがこの満州人の特徴なのだが、もしかすると負傷で余計に悪くなったかもしれない。そして何よりも左手が充分に弾けていなかった。確か痛めたのは左手だと思ったが、彼の隠し芸の後ろ向きで弾けばよいのではなかろうか。冗談はさておき、以前とは違うとなればカムバックはしてみたけれどで今後のキャリアーは分からなくなるかもしれない。アンコールで弾いた「戦場のピアニスト」の嬰ハ短調のノクターンでも状況は変わらなかった ― これは先日スイス訪問の際に事前の予定になくサプライズで弾いていたようだ。モーツァルトでも極端なピアニッシモを入れて変化を付けようとしていたが、全て大阪弁で「阿保ちゃう」をこちらで叫ぶしかない。
Lang Lang Strong #2

Lang Lang Strong #1


ネルソンズもカデンツァへのテムポ配置などでランランと合わせるようにアッチェランドを入れたりして極力配慮しているが、音楽自体が上手く行っていない ― これはペトレンコにとっては朝飯前だが。オペラなどの経験の豊富な指揮者として全く問題が無い筈なのだが、同じようにランランとの協演をするメスト指揮のクリーヴランドでの演奏会が楽しみになる。もう一つ気になったのは低音を吹かしてサウンドつくりをしているようなのだが、あまり上手く行っていない。仕事量が多過ぎる指揮者で、ゲヴァントハウスもコヴェントガーデンもボストンも一緒くたに入り混じってしまっているのではなかろうか。あまり感心しない。

ランランのピアノを聞くとどうしても来年のバーデンバーデンが気になってくるのだ。なぜこの晩も後半に演奏されたようにチャイコフスキー第五の前に態々モーツァルトでなくてベートーヴェンを持ってきたのか、本当に無事に演奏会が終わるのかなど心配になってくる。私自身はランランの日には39ユーロしか支払っていないのでどうでもよいのだが、ブーイングしなければいけないようなピアノではやはり困るのだ。

それにしてもこうした話題性もあり集客力の化け物に群がるようなメディアの構造の中の俗物に文化勲章を出すような日本の痴呆性だけでなくて、世界中が同じような構造になっているかと思うと不愉快極まりない。文化とか芸術とか音楽とかを言葉に出すのも嫌になるほどだ。

今晩は口直しにコヴェントガーデンからのローエングリン全曲放送を聞きたいと思う。しかしこれもネルソンズの指揮なので少し不安になって来ている。真面目に楽譜を見乍ら聞くとどうしても粗が目立つ。オペラの場合は歌手とのリハーサルも長いので意思の疎通はゲストのピアニストよりも取られるのだろうが、パパーノがあれほど鳴らしている管弦楽をどの程度まで指揮しているのだろう。ネゼセガンとどっこいどっこいの指揮者だと思うが、その腕前を篤と見せて貰おうか。



参照:
今夜は半徹夜仕事か 2018-07-07 | 生活
残席から探るランラン状況 2018-06-16 | 雑感
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
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今夜は半徹夜仕事か

2018-07-07 | 生活
タングルウッドはまだお昼だ。ボストンの地方局の夜中の番組から聞き始めた。午後八時からタングルウッドのオープニングコンサートが中継される筈だからだ。なんといってもランランのカムバックがなるかどうか、隠れ練習をしていたのかどうか?この二つを確かめたい。生憎夜中なのでその前に仮眠を取るつもりだ。ランランのためにこんな事になろうとは数か月前までは想像もしなかったが、来年のバーデンバーデンでのペトレンコとの共演が本当に実現するのかどうかは本当にスキャンダルな話題である。あれだけ貶したピアニスと共演する方はまだしも、貶された方の真意が皆目分らない。本日カムバックとなれば、業界の通例からすれば来年のそれをキャンセルすることは無いと思われる。そこも確かめたい。少なくともボストン時間の午前中ではキャンセルの第一報は流れていないようだ。

木曜日には午後になって初めて当夜の「パルシファル」の余り券が出ていた。気が付いた時には売れていたのでどの席かは確認できなかった。ミュンヘン在住でなければ役に立たない。やはり定期などの外れた日のものだけは余分が多いようだ。その他の日の席は一枚も出ていない。日曜日に放映されるドラマトュルギー上のことが気になったので、プログラムを捲っていたら、まさにその担当者が音楽的な鍵を記していた。

それは所謂晩餐の主題と呼ばれる前奏曲の冒頭に奏される主題であり、その最初のフォルテの部分の動機を扱う。G-C-D-Esの五度下行短三度上行を指す。三つ目のDは、ここでも何度も触れたように、この曲の特徴である短かな桁に付く十六分音符であり、リズム的な運びであり、これを除いて「痛み」の動機として扱われる。それが「ヴァルキューレ」から「神々の黄昏」へと重要な役割を担っていた「運命の動機」との親近関係にある。この動機の使われ方でこのドラマに一本筋が通るという事になる。当然のことながら、今回の演出について批評する場合はそこに触れないことには話しにならない。

しかしこうして、今回の初日に纏わる書かれたものの一覧を見ているととんでもない量感がある。通常の初日の倍では利かずに数倍の量の報道がされている。その殆どが批評なので、恐らく当日は50人以上分のプレス券が出されたと思う。平土間ではなかったためか、ざっと見たところそれほど気が付かなかったが、プリント関係だけでなくて放送関係者も可成り入っていたようだ。しかしペトレンコの名前ではまだまだランランには勝てない。

南ドイツ新聞は有料になっているので見出しだけを見たが、「イ長調での救済」とあって、大体想像はついていたが、中央ドイツ放送がその内容を掻い摘んで紹介していた。それによると徹頭徹尾の非宗教化で抹香臭さを取り除いた快挙を褒め称えているようで、如何にもこの新聞の未だに左翼を担っているバカらしさを感じる。如何にも日本の朝日新聞と提携している思考の単純さがそこにある。ネトウヨの日本語で言うパヨクのパー加減が表れている。余談ながら九月の「マイスタージンガー」の中日は誰のために上演されるかと言うとミュンヘンの名門高等工業大学の歴代の卒業生のためのようで、その多くがこうした新聞を読んでSPD支持者だったのだろう。

ミュンヘンと言えば、ネットで宿を探して驚いた。冬場に40ユーロほどで宿泊したホテルが280ユーロになっていて、何かの間違いかと思ったが、夏場の料金は異常に高くて驚いた。我々からするとウィンタースポーツで賑わう地方なのでこの価格差が認知出来ていなかった。だから予備のために飛行場よりも更に離れたところに安い部屋を55ユーロで予約しておいたが、そのような料金ではアウグスブルク近郊でも見つからなかった。勿論さらに風光明媚な山沿いなどには到底見つからなかった。実際に泊まることになるかどうかは分からないが、やはり夏季は世界中からの観光客がこうした人気地方に押し寄せるので完全に売り手市場のようだ。



参照:
残席から探るランラン状況 2018-06-16 | 雑感
ランランは引退するか? 2017-10-19 | 雑感
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血となるワインの不思議

2018-07-06 | 文化一般
バイロイトのネット販売で遊んだ。一時間ほど試して、今度は「ローエングリン」は買えたが299ユーロと高過ぎた。指揮は分かっており、肝心の演出は放送を見てみないと分からない。その中でこの価格はもったいない。途中170ユーロというのが出たが、タッチの差で敗れた。これならば買っていた。その他で迷ったのは「パルシファル」のバルコンの一列目だ。155ユーロだから買っても良かったが、今年は既に二回も聞いていて、明らかに格落ちするような上演は座っているのも辛い。「トリスタン」も150ユーロは幾らでも入ったが、あの演出では腰が引けた。「マイスタージンガ―」は秋に耳直しが出来るので可能性はあったが、ジョルダン指揮ではブーイングするしかないので辞退した。

155ユーロを投資するなら、ペトレンコ指揮の公演で可成りいい席が買える。嘗てはバイロイトは安いと言われていたこともあったが、今は極端に高いと思う。公立でないから仕方がないのかもしれないが、芸術的な水準を考えると全く勘定に合わない。待ち時間は40分で、少し遅れるだけで何時間も待たなければいけなかった。中に居たのは券を確保していたので制限時間一杯で最初から70分後には全てが終わっていた。残り時間が短くなってもどうもぺイパルに入ってしまえば購入可能だったと思う。何時かの参考にしよう。今後これで買おうと思えばいくらでも買えることも分かった。昔のように十年に一回ではないから何時でも行ける事を確信した。ちっとも有り難くないと、その料金にも愚痴がこぼれるという事だ。

BRクラシックでのこの新制作主演交代劇に関しての初代音楽監督へのインタヴューがあった。それを取り上げて、昨年日本にも同行した、ミュンヘン国立劇場の宣伝部長が呟いていた。「ティーレマンの言いたいことは悉く分る」とその真意をその言葉を引用して注意喚起していた。本当にあの大蝦米のような連中をのさばらせていてはいけないと思う。先週もAfDの党大会に千人規模のカウンターが集結したというが、やはりこうした活動は必要だ。あんな低能の指揮者でもベルリンで支持する楽員が居たのかと思うと恐ろしい。そもそもメディアの中にも同じ類の馬鹿どもも少なくない。それ相当の票を得て、野党第一党なのである。

「三部作」一日目の券がまた出た。今度はまさに指揮者の後ろ二席とその他六枚出た。これも今後の参考になる。更に二つ目の二番目クラスも出ているので、一体どれぐらい残券があったのかと思う。

承前)さて愈々初日の新制作「パルシファル」三幕について纏めておく。最も反響の大きかったアンフォルタンスを初めて歌ったゲルハーハ―のインタヴューを聞いて、腑に落ちる話しが幾つかあった。今回の制作に係る重要な点を語っていた。

一つは、皆が諸手を挙げてゲルハーハ―を称賛していて、それが突出してしまって過剰だというのもあった。それに対する答えは楽譜にある。彼に言わせるとそもそもペトレンコ指揮でなければ承けなかった役なのだが、「タンホイザー」での経験から帰納するようにその繊細な音楽作りがあってこそでと、さもなくばこのアンフォルタンスのあまりにもの唐突の爆発や語るようにのリリックな歌唱の変化の激しさはとても表現不可だったという。つまりヘルデンテノールのように滔々と歌い続ける訳ではないが、それに対応するには管弦楽が「タンホイザー」のヴォルフラムに合わせたようでなければ不可能という。そこで、歌唱には付されていないダイナミックスを、総譜の管弦楽の音符表記のそれに合わせて歌うという必要が生じるとなる。まさにそれが遣り過ぎと評される歌唱でその演技だったとなる。演出に関してはストリーミングを経てもう一度触れたいが、少なくとも三幕の音楽も舞台も今まで我々が考えていたヴァークナーよりもヴァルディに近いもので、偶々偶然に「パルシファル」に続いて「オテロ」が新制作されると思うのは軽薄だろう。繰り返すことになるが、晩年に楽匠が行き着いた創造の域は枯れたなどとは程遠い。それはゲルハーハ―も初演指揮者レヴィの楽匠直々のアドヴァイスの記録について触れていたがまさしくペトレンコ指揮の何時もの公演のように再初演に近い成果だった ― クラウディオ・アバド指揮の「シモンボッカネグラ」辺りをイメージしてもそれほど的外れではない。

もう一つは、宗教としての芸術の問題で、キリスト教のミサにおけるのとは反対に、パンとワインが肉と血とならず、「血と肉がワインとパンとなる」ところを楽匠の無神論の姿勢と見ており、なるほどカトリック圏の少年合唱から出てきた人が語るところだ。ここから吸血鬼のキーワードとなるがこれは改めて触れよう。恐らく彼の感覚こそは、今回の新制作の本質に係るところで、「ザッハリッヒカイト」と私が指す音楽であり、もう一つ言えばどうしても「救済」されないもの、ゲルハーハ―に言わせるとまさしくその肉つまり「ヴォルフラムでは子孫も生まれない現実」乃ち「癒されない傷」となるのだろう。この「解決」が今回の音楽的な成果であって、そこにドラマが生じている。ここの響きと比べると、バーデンバーデンでのラトル指揮のそれがあまりにも耽美的で幸せ過ぎるとしか思えなくなる。

ゲルハーハ―は「グルマネンツの歌はオラトリオのエヴァンギリスト」という如く、アンフォルタスにドラマ的に絡むのがパルシファルだが ― これをして台本からそのものホモ関係だと想起するのがラディオの解説だった ―、ここでのカウフマンの歌唱も過小評価出来ない。傷と「タンホイザー」演出のヴァギナ、更に木の幹の演出への言及となる。これらは全てストリーミングで確かめるしかないが、そこまで評論で明白にされていなかったので若干演出の表現も細か過ぎたのかもしれない。

レヴィの言及をして、バイエルン放送局は残念ながらキリル・ペトレンコの証言は聞けないがとしているが、ペトレンコに関しては福音書で充分ではなかろうか。(続く



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
先の準備を整える 2018-03-16 | 生活
ロメオ演出への文化的反照 2017-09-23 | 文化一般
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毎日、一期一会

2018-07-05 | 生活
週末から続いた真夏も一休みとなりそうだ。雷雨が予想されて、気温もそれほど上がらない。それ以前も朝晩の冷え込みがあって、今年の夏は過ごしやすい。摂氏13度ほどの真夏は珍しく、エルツ地方では冷夏になって霜が下りていた。陽射しも強く乾燥度も高いので、日焼けしなければいい葡萄になると思う。なによりも過ごしやすく、少なくとも座業に専念するならば、これほど快適な夏は無い。バルコンの陽射し除けと、昼間の密閉だけで快適に過ごせる。食事も含めて、今までTシャツを脱ぎ捨てるような状況は二三度しかなかった。来週は週明けから上昇して摂氏30度後半まで暑くなるようだが、この夏のピークになるか、もう一度月末辺りにピークが来るか?少なくとも一度また冷えるようで、その冷え方が楽しみだ。

朝晩の涼しさのお陰で、気温17度と森の中を走る時にヒンヤリすることもあってなんとも至福の喜びだ。それでも暑くなる日は、陽射しでその勢いを感じる。そして朝のうちに一汗掻いておくと快適に過ごせる。その代わり午後になると座っていても眠くて堪らないのである。十代の時となにも変わらないので一体どうしたものかとも思う。そして涼しくなるとこれがまた疲れがどっと出てきて眠くなる。

英国に発注したシャツ類はもうすぐそこまで来ている。マンハイムとハイデルベルクの間のヘッデスハイムという米ベースのある近くだ。UPSの最寄りの集配所である。ケルン、フランクフルトと夜中に中継されてきているのでDHLとはやはり違い動きが鈍い。別に急がないので良いのだが、配送日が早めに分る方が良い。

同じ店のセールが始まった。私が待っているシャツがさらに安くなっていた。これは早くお手付き過ぎた。大きさが無くなっていなかったので、殆ど三割引きでは出なかったのだろう。三割七分五厘引きになっていて、84ポンドが75ポンドになっていた。送料をカヴァー出来るほどではないが、9ポンド損をした。バタフライの方は私が考えていたようなあんちょこではなくて結ばなければいけない本格的なものだった。こうなれば更にいいものも見つかったので、残り物の五割引きをじっと待ちたい。その間にタイなどのコーディネートを考えておこう。今回は新しいセールのシステムなので勝手がもう一つ分らなかったのだが、コツは掴めた。私のような通販のプロでもこういうことはある。

涼しくなったところで「パルシファル」三幕も纏めてしまいたい。その前に録音で初日の演奏を確認しようと思うのでどうしてもまとまった時間が必要になる。更に三幕はいつものことながら拍手喝采の後急いで家路に着くので、その前のようにメモが取れていない。だから記憶に頼ることになるのだが、今まではそれほど問題になったことは無い。それはやはり終幕の印象と言うのは最後で一番強く残るからだろうか。

来週月曜日からパン屋が夏休みに入る。丸々二週間だ。州によって学校の夏休みがずらしてあるが、こちらではここが真夏となる。また朝食が不規則となる。出来る限り朝一番で肉屋に行ってパンを取りに行く。森を走る代わりにどこを走るかだ。山登りコースは一回ぐらい可能かと思うが、一度は谷筋を長く走ってみたい。

ネットを見ると指揮者ペトレンコの二日目らしき写真が載っていた。若干気にかかるところがありそうな表情でまだまだ上手く行かないのかもしれない。流石にいろいろとみていると表情でなんとなく分るものがある。勿論三日目の木曜日もあって、映像の記録される日曜日までの解決法を考えているという事になるか。それよりも気になるのは若干顔などが痩せた感じで、年齢的に痩せてしまうのはあまり健康ではない。ダイエットをしている可能性はあるが、まだまだ先が長いので、上手く乗り越えて貰わなければいけない。

秋の「マイスタージンガー」の予約状況が、楽譜席以外はなくなったようで、今月の一般売り時の争奪戦が予想される。初日シリーズならば入券自体が難しいので喜んで楽譜席を受け入れる人も少なくないのだろう。というか常連さんの時間を持て余している老人は二回目だからどうでもいいという人も少なくないのだろうか。再演となると、あまり評判の良くなかった演出などに不満があった人はあまり来ない。初日シリーズやストリーミングなどで自身満足した人が中心で、そこに是非一度と思うような人が積み重ねられるのだろう。確かに14ユーロの楽譜席は音響も優れていないので、16ユーロ料金で入れるならば、上の64ユーロ若しくは64ユーロならば90ユーロと私のように上のクラスと掛けた人が多いのではなかろうか。

上のペトレンコの満足度ではないが、大抵は今回のキャストやその記念公演という特別な機会から可成り完成度の高い上演が予想されていて、その出来を評価する人ならば少々の出費を厭わない人が多いと思うのは私だけだろうか?兎に角、特別なキャンセルなどが起こらない限り可成りの出来が期待されるだけで、その価値があるのだ。ルツェルンでの二日間もとても期待しているが、こちらの方が予想値がとても高い。

ダールマイルの箱に、毎日、一期一会と書いてある。一寸違う様に読んでいたが、言葉だけを取ればそうなる。意外と面白い標語を使っているなと思った。



参照:
考慮する戦略的推進策 2018-07-04 | ワールドカップ06・10・14
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
LadyBird、天道虫の歌 2018-07-01 | 女
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考慮する戦略的推進策

2018-07-04 | ワールドカップ06・10・14
日本対ベルギーの試合を観た。今回は放送時間の都合が良かったので、ミュンヘンに出掛けていたポーランド戦以外は観ていた。最初のコロムビア戦で明らかに以前の印象とは違っていて、とても落ち着いていて、観ている方も以前のような不安げな気持ちにさせなかった。一体最後に観たのはいつかは覚えていないが、少なくともカイザースラウテルンでオーストラリアンに逆転負けした時とは全然違う。ギュンター・ニッツァ―などが当時語っていたように、まだまだゴールするために学ばなければいけないことが沢山あるがこのままやれば十年後にはとかの予言が当たった。まさしくその次元に至っていて、普通のサッカー国になっている。それどころか今回のドイツより日本の方が良かったという巷の評価だ。

戦前の予想としてオランダに居る日本人のスカウターが書いていた戦略を頭に入れて観ていたが、その通りやれるパスの精度や間のとり方などの基礎的な実力だけでなくて、刻々変化する細かなフォーメーションを柔軟に対応しつつとても攻撃的なディフェンスというのはZDFで専門家が分析していたように驚異的だと思う。ベルギーなどは全然出来ていなかった。やはりこれで日本のサッカーというのは定まったのではないかと思う。今後はどうなるか知らないが、後継者がどんどん出て来れば何れもう一つ上のベスト8を目指せるのだろう。それに引き換え東アジアの王者であった韓国の進展はあまり感じなかった。またここでもいずれはシナが出て来ると思う。というか今回の総合的な感想は、アフリカも技術的に高度なものを身に着けて来て、アジア、アフリカと欧州・南米の差が益々縮まって来ているという事だ。

同じように管弦楽団などでも大きな市場があって、ドイツの十倍以上の数の高等音楽学校卒業者を輩出していれば、やはりそれなりの水準に至ってもおかしくは無い。何時か日本に滞在する時は、放送ではある程度分かっているのだが、是非それも聴いてみたいものだ。

先日購入して持ち帰ったトルテを片付けた。二つで9ユーロを超えていたので安くは無いのだが、その出来からすると高くは無い。ミュンヘンに行くようになって、ダルマイールでいろいろと試してみるが、価格の割に落ちるというものは今までほとんどない。ロンドンなどであると全てが割高と感じるが、ミュンヘンは大分違う。これでお土産リストに更に品目が増えた。

次のミュンヘン訪問は土曜日であるが、その夜の「三部作」が再び四席出ていた。以前は出ていなかったかと記憶する後ろの方の最高金額席だった。舞台に関心がある人にとっては最前列よりも一望可能なためいいのかもしれない。個人的には平土間の席の買い方は複雑だなと思う。

入手したNAS用のHDDを設置した。先ずは古いものにデフラグを掛けると12時間ほど掛かった。19%のフラグメーションかだったのだが、なんといってもデータ量が多過ぎる。四億四千データーを超えていた。結構数が増えるのはアウデシティーの音楽データーで一曲に可成りの区分けがされているためにデーター処理の時間が掛かる。そして、最後にデータを圧縮しようと思ったらこれまた半日ほど掛かりそうだ。

一つだけ想定外のことがあった。Win8で新しいHDDの容量は読めたが、ルーター経由では読めない。ルーター自体は読んでいるようなので、何か方法はありそうだが、さもなければ750MBの容量となって、既に倍以上のデータが記録されていることになって赤の警告になっている。残りの容量は1.3TBと表示されているの実用上は問題が無いのだが、論理矛盾が表示されている。なんとかならないか。

今週は自宅で録画録音したいものが幾つかある。週末の「パルシファル」は当然だが、土曜日の「ローエングリーン」も試したい。それ以外にはネゼセガン指揮マエストリとのフィラデルフィアでの「トスカ」もあるが、なんといっても注目は金曜日のランランのカムバックコンサートだ。ボストンでのこれがなされれば来年までの予定は流れるであろう。今のところまだキャンセルは入っていない。



参照:
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
アマルガムの響きの中 2018-07-03 | 音
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アマルガムの響きの中

2018-07-03 | 
新しい外付けハードディスクを購入した。先ずはノートブックのデーター類を現行の2TBのディスクにコピーする。今度はその殆ど一杯になっているディスクを清掃して、新しい3TBにコピーすることになる。つまり新たに1TB以上の容量が出来ることになる。ノートブックを調べると写真類だけで40GB以上、音楽が300GBほどあった。それ以外のヴィデオは殆ど整理可能だ。ドキュメント類は4GB越えと桁が違う。Dディレクトリー833GBから新たにどれほど空けられるだろうか。現在空き容量100GBぐらいなので、400GBほど空けたい。

承前)ミュンヘンの「パルシファル」は日曜日の二回目の公演を終えた。三回目は木曜日でその夜の券が出ていたが、やはり買わなくてよかった。初日には舞台は三分の一は見えなかったが日曜日にヴィデオで観れる。なによりも木曜日までに初日のそれが充分に消化できない。繰り返し経験しても混乱するだけだ。なるほど290ユーロのバルコン席の視界は半額42ユーロの席とはやはり違っていたことも分かった。

やはり音楽的にはこのオールスターキャストの公演は今までの経験した中で最も新機軸に富んだものだった。だから新聞評などもかなりその評価が散っている。ドイツ語の老舗ノイエズルヒャー新聞もニューヨークタイムスからもその焦点を絞るのに苦慮しているのが読み取れる。演出や美術に関して書き込んでも歌手陣について書いても指揮者と管弦楽団や合唱団について書いてもまだ足りない。

二幕が始まる時には、お決まりのようにバイロイトの見えない奈落に倣って一幕では拍手を受けないように最初から指揮者が入っていたのだが、いつものように出て来るとかなり強い拍手が沸き起こった。その指揮もこの幕は見せ所沢山で、歌手と管弦楽団へのパルス的なキューだけでなく、困難な重唱のアンサムブルを捌いていたが、その鮮やかさに寧ろ奈落に隠されていてその音だけを聞いていたバイロイトでの指揮を思いこさせる。それはその視覚的な指揮自体が楽曲の書法を語っていて、音楽を見せる指揮になっている。その部分が今度は全体の楽曲構造の中でどのような意味合いを持つかまでを認識しないと楽曲への理解は深まらない。指揮者の職人的な見事さに感心しているようでは本質的なものを見落としかねないところである。

それでも最近は不調とされたヴォルフガング・コッホの存在感を楽しめたのが何よりで、ヨーナス・カウフマンのベルカントと共にとても面白い配役で、まさしくキリル・ペトレンコの新機軸に相当する歌唱であった。この二人の歌唱を過小評価するのは間違いだと思う。ベルカントのヴァークナーと言うのはペトレンコの解釈に相当するからである。序ながらインタヴューでカウフマンは「トリスタンは二年以内」と言明していたので、これでペトレンコ指揮の最後の新制作は分かった。

そのカウフマンの発声とその歌唱に関しては批判の対象ともなっている。しかしシュテムメの見事なクンドリーがカウフマン曰く「クンドリーと称されるべき」神聖劇の歌であり、それとパルシファルのそれとの関係は決して誤りではない。この劇の構造は三幕で明らかになるのだが、先ずはそこを明白にしておく。カウフマンの歌唱に関しては「マイスタージンガー」にてそれほど必然性は無かったのだが、ここでは間違いなく掛け替えの無い役作りとなっている。その点はストリーミングで確認したい。

公演前にロビーで行われた公開放送にコッホ氏が出て来ていた。途中から聞いたのだが、このオペルンフェスト期間中最も活躍する歌手と紹介されていて、「有り難い指摘」と感謝していた。つまり、クリングゾール、ミケーレ、ヴォータンそしてオランダ人と八面六臂の活躍なのだ。今回は声もしっかりしており、恐らくバイロイトの三年目以上の歌となるのではなかろうか。そもそもバイロイトニ年目でもあまり感心しなかったのだが、こうしてカウフマンと並ぶとその歌唱の価値が新たに評価される。個人的にはこれで秋の「マイスタージンガー」の要であるザックスは期待出来ると思った。

音楽的にはコッホから始まって、難しいアンサムブルとなって、やはりシュテムメのクンドリーが引き締めた。特にハ長調からの口づけ、パルシファルの悟達へと三幕へと繋がるドラマが起こる。ここでのデュオが今回の公演の核心でもあることは間違いないのだが、恐らく公演を重ねてストリーミングの時には更に出来上がるのではなかろうか。管弦楽がイングリッシュホルンだけでなくアルトクラリネットまでがとても重要な音を出していて、歌手に寄り添う形となっているのだが、ここは逆に蓋付きの劇場のためにどのように考えて創作したのだろうかという微妙さが際立つ。それでいながら弦との掛け合いにおいて決して原色な音響とはならないように書かれているところなのだ。勿論「救済」されるまでという事であり、この幕の前半から後半へと、丁度そこがターニングポイントとなるのは周知の通りである。

再びコッホ演じるクリングゾールが登場してパルシファルの聖剣にその世界は崩れ去るのだが、倒れたところに上から現存する作家として四番目に高価と言われるバゼリッツの描いた緞帳が下りてくる。それを待ち構えていたコッホが体を捩じって幕の内側へと寝返りを打って入るところで少し苦笑が漏れる。如何にも目指したような昔の劇場風景という感じでなかなか得難い初日の光景だった。もう少し全体的に手作り感を強調しても面白かったかとも思う。演奏もそうした職人的な風情を強く感じさせていて、なにか座付き管弦楽団の歴史的演奏実践のような手作りを感じをさせて、室内楽云々と評しているようではまだまだペトレンコ指揮の新機軸にはついていけていない表現だろう ― ニューヨークタイムスが「ざらざらした弦の響き」と評するのはMETに比べるまでも無く当然だろう。私もこうして漸く続く三幕へと繋がる流れを掌握して来たように感じる。(続く

先日の実況ノイズの問題を再び洗った。対照実験して分かったのは同じ現象で再生されるのはBRクラシックだけで、他のARDストリーミングや海外局では起こらない。BRのそれの音質自体が可成り高速転送な印象は受けるのだが、昨年の12月時点では起こっていなかったので、何か規格が変わったのかサーヴァーが変わったのかは分らない。ただしそれはARDのまとめサイトでも中継を挟んでも同じなので、ラディオ放送でも同じ可能性もある。明らかに量子化歪のような音なので転送する前にエンコード時点で雑音が出ているのかもしれない。アップサムプリリングされていても雑音があるとなるとやはり問題だ。何時までも変わらないようならば問い合わせ苦情する必要もあるかもしれない。こちら側の機器やネット環境とは関係なさそうなことが分かったので先ずは気が休まった。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
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