Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創造の霊感と呼ばれるもの

2023-05-17 | 
ミュンヘンの劇場からのオペラ「アイーダ」生中継を聴いた。前回のプロコフィエフ「戦争と平和」に続く新制作初日中継放送だった。演出はトレイラーや写真や話しなどでしか分からないが、最初から詰まらないものであることは分かっていた。特に新シーズンにフランクフルトでは先日のリディア・シュタイヤー演出があるので少し楽しみにしているから、あまりにもイデオロギー臭いものは興味がない。

そして演奏もラディオ放送なのでそれしか分からないのだが、昨年もミュンヘンでベルリオーズを振って評判の良かったリヨンのルスティオーニの指揮ももたもたしていて失望した。ケントナガノなどに続いて売れっ子の指揮者であり、エンゲルも客演して好評を得ているようにフランスで最も重要な歌劇場の音楽監督である。

歌手陣も主役のスキーヒナは昨年の「スペードの女王」で四晩も観て手の内は分かっていて、更にイタリアオペラとなると聴く価値もなかった。下位の劇場ではあれで務まるだろうが頂点では無理である。しかしミュンヘンの評論家連中は拍手に応える答礼で涙を流されて完全に逝かれてしまっている。その舞台捌きの手練手管も私はよく知っている。悪い女である。

それに引き換え指揮者ムーティに最高のヴェルディメゾソプラノとされたラッチェヴィシヴィリの声は金をとれるもので、今回のキャストで最もギャラが高かったであろうと容易に想像できた。

さてバイエルン放送協会の中継番組にはいつも精神医師が出て話があるが、ヴェルディの母親との繋がりが話題になっていて、本人は口外しないばかりか可也意識下に秘められていたものとされる。我々が、昨年の「スペードの女王」におけるチャイコフスキーの同性愛や「ブルートハウス」のハースのサディズム、そして「影の無い女」の人の性、「アシジの聖フランシスコ」のオディディプスコムプレックスなどに影響されている創作者の潜在意識をその音楽に見出す時に合点が行くようなことが多いのが芸術音楽なのである。人はそれを創作における霊感と呼ぶ。

それは創作の過程を考えてみればよいが、芸術音楽は機会音楽のように何かの必要性に迫られて創作される以前の創造の息吹がその原点にある。物分かりが良い人はこれで分かるだろう。何故大作曲家が音楽劇場の為に作曲したオペラなどにその創造の本質的なものが表されているか。台本があって、ト書きを作って、それに大作曲家がどのように曲をつけていくのか、その歌詞に導かれるだけではないのが楽劇と既に言及した。

特に楽劇においてト書き通りの演出というのが如何にその音楽の本質を理解していない者の戯言でしかないことぐらいは容易に想像できる筈だ。なるほど映画音楽の作曲もあり、劇音楽の作曲を大作曲家が為すことも少なくない。しかし音楽劇場作品というのは表現意欲だけでもそれだけの動機付けで済む筈がない。

「影の無い女」のようにその内容がある作品ほど劇場上演する場合は創造力に満ちた演出や舞台が欠かせなく、その指揮はそれだけの内容を読み込んで演出のコンセプトにも沿ったものでなければいけないのである。要するに演出がどうのこうのいう為にはそこまで音楽の内容を理解していなければお話しにならない。



参照:
報告から批評への相互関係 2023-05-16 | 文化一般
印象的な響き方のその時 2023-05-13 | 雑感
台詞が音楽を導く 2023-05-15 | 音
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報告から批評への相互関係

2023-05-16 | 文化一般
承前)「ブルートハウス」上演から一年が経過した。音楽劇場関連で昨年のヤーマイ音楽祭の記事に戻ってくると、「続く」となっている。沢山書きたいことがあったのだ。時間も空き、時間も無く、なによりも手元に楽譜も無いので、あの時のことを思い出す助けとしたい。

その後のオペラ賞などの評価で流石に初演から三度目の上演なので、演出家のクラウス・グート授賞の内容としてこの制作が語られた。しかし指揮のエンゲルの授賞はならなかった。承前内容の記事に書いた通りそのフィナーレにおけるモンテヴェルディの連結の和声の響かせ方に迄聴きこんで更にそれを正しく評価するような玄人でないと指揮者の仕事内容が分からない。

その時に気が付かなかった人はいないと思うのだが結論を出すには私も人の否定的な批評が役に立った。一種の反面教師であるが、どのような人でも注意深く虚心坦懐に五感を働かしている人は皆同じで同じように音も聴いている。だから玄人であろうが素人であろうが、人の感想というのはとても参考になる。そうした開かれた態度は専門家になればなるほど身についている。

つまりそこで有りの侭を報告するのがジャーナリズムの仕事であり、それをしてクリティカルに評価を下すのが評論である。幸い初日にそこにいることが出来て、そして個人的な関係から他人以上に関心があったので正しく批評できた。しかし皆がそこに集っていた訳ではない。その現場の感覚無しには批評とはならないのはまさしくモンテヴェルディが語った様にライヴによるインターアクティヴに依って音楽劇場が成立するという主張の通りである。

賞ではその代わりに主役を歌ったヴェラ・ロッテベッカーが年間最高の女声に選ばれた。ネトレブコ、シュテムメやハルテロス、またはペーターセンやグリゴーリアンと同格に抜擢である。この賞は少なからず下拵えや指揮をしたエンゲルにも向けられていると思う。「スペードの女王」指揮のペトレンコに譲ったのは仕方がないが、本シーズンは「影の無い女」指揮との勝負で更に敷居が上がる。

しかし、その二つの復活祭における上演を考えればやはり前者のチャイコフスキーの同性愛へとフォーカスが当たった作品と作曲家ハースのサディズムの性向を父親に子供の時から性的な支配を受けていた娘の話を通してそこに音楽的な創造として見え隠れするものを描く制作とはその複雑さとあまりにもの日常性が違い過ぎる。

我々が音楽芸術を扱う場合に、例えば音楽劇場作品ならば必ずしもその台本や脚本が意味するところにその本質がないとすれば、その様な原稿、文学的に分かり切った創作などを態々再創造する必要などは生じない。

劇場効果とは、既に述べたように客席と舞台間でのインターアクティヴな関係からどのようなライヴ効果が生ずるかという事であって、そうした音楽劇場を例えば大画面の映画館の暗闇から白昼の街に出てきた時にその架空の世界にまだ浮かんでいるような状態を視覚効果だけではなくて聴覚効果によっても持ち続けるほどの影響として思い描いてもよいのではなかろうか。その演出効果についてはまだ触れていなかった。(続く)



参照:
オペラ賞ノミネート推薦 2022-08-04 | 文化一般
台詞が音楽を導く 2023-05-15 | 音
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台詞が音楽を導く

2023-05-15 | 
一昨日楽劇について書いた。楽劇とは、嘗ての叙唱がアリアになってというようなオペラの発祥のモンテヴェルディなどの劇場形式から、管弦楽が絶えず鳴り芝居の説明をしていくもので、ヴァ―クナーのそれをリヒャルト・シュトラウスが推し進めたとされるものである。要するに雄弁な管弦楽が重要な役となる。それを演奏会形式で演奏するとどうなるか。大管弦楽団が奈落に隠されていないのでどうしても音量が上がって歌手はそれと戦わなければいけない。

楽劇の歴史で、ヴァ―クナーがバイロイトに蓋の被った奈落を作ったのはその為。その歌詞が如何に聴きとれるかが芸術的苦心の歴史で、先に述べたモンテヴェルディにおける何処で言葉が終わり音楽となるかのオペラの原点へと遡る。そうした芸術的な苦心への配慮無しでは腕を広げて姿を作るこっぱずかしいミュージカルを上演したりするのと何ら変わらない。抑々生の大楽団や合唱など大掛かりな舞台を作ってのその様な公演は経済的にも文化芸術的な意味合い無しには辻褄が合わない。

東京ではシュトラウスが最も先鋭的に作曲した「エレクトラ」が上演されて大絶賛されているが、そもそもドイツ語歌唱も儘ならない歌手が歌って、誰もその歌詞を聴きとれないようなところで例え先頃同楽劇の舞台で好評を博した指揮者が振ったとしても真面に演奏会形式で演奏されないことは周知の事実だった。
Was willst du? – ELEKTRA Strauss – Grand Théâtre de Genève ― ジョナサン・ノット指揮で評判の良かった昨年のジュネーヴでの公演から、演出に合わせてサウンドトラックの様に器用に振っている。


指揮者のノットは、そうした興行や企画に合わせてうける仕事をしてくる人物で、誰も分らないところで不誠実なことをするような人間はパフォーマーである以前に信用ならない。自分自身も英国人ということで何も分からない猿に教えてやろうというような大それた気持ちもない代わり、うければいいと頭脳明晰なのである。その芸風や人間性は最初に手に取ったリゲティのCD録音で直ぐに知れた。日本でうけ狙いのこけおどし公演をして賞賛されるのが目標なのだろう。

音楽劇場作品に関しても日本ではその受容にも限界があることは既に「影の無い女」の項で繰り返し述べているのだが、「エレクトラ」はそれ程難しい作品ではない。しかしこうしたオペラの歴史のイロハのところで、それを的確に批評できる専門家が存在しない。猶更歌詞を聴きとってというような人物は皆無である。

日本では駄目だと移住した私が、地元のマンハイムの劇場に素早く見切りをつけて、毎年ザルツブルクに通い、そしてミュンヘンにも通ったので分かる様に、音楽劇場のそうした全体像を把握するのはそれ程容易ではない。ミュンヘンが世界の頂点にあるのはそうした何代にも亘るような聴衆が存在して、その層がとても厚いことにもある。バーデンバーデンで幾らやってもその水準には至らない。

来年は復活祭で「エレクトラ」が上演される。どれほど管弦楽を抑えて演奏できるかにその腕が証明される。東京の交響楽団とは比較にならないほど闇鍋にならない大きな音の出るベルリナーフィルハーモニカーがしっかりと歌につけてくる。主役のシュテムメにとっては大き過ぎる劇場で彼女がどれほど明晰な歌を歌えるかでその作品の本質が明らかになってくる。



参照:
込み上げてくる苦み 2022-07-06 | 音
印象的な響き方のその時 2023-05-13 | 雑感
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指揮棒一振りの衝撃度

2023-05-14 | 
先日ベルリンから中継放送された旧RIAS交響楽団の演奏を聴いた。首席指揮者に代わって急遽振ったのがシュトッツガルトの音楽監督マイスターだった。ブルックナーの交響曲五番ということで興味があった。昨年はバイロイトでこれまた急遽新制作「指環」初日を振ったが、同じ傾向が予想された。実際に透明性の高いブルックナーで、インタヴューで話すようにオルガンの音を模したとすればロマンティックなそれは混合音色だと話していて、相反する要素に言及していた。その成果は出ていたと思うが、ブルックナー愛好家には物足りなかったと思う。音色以前にやはり音が軽い。これは指揮者の体格をある程度表すものでその通りの音であった。

個人的には、ヴァ―クナーにしろブルックナーにしろそれらを「ローエングリン」を除いてレパートリーにすらしていないティテュス・エンゲル指揮を待ち侘びるのはそこである。勿論ペトレンコ指揮のブルックナーもシューベルトの「グレート」を聴いてからどのようになるかはある程度想像がついていて、何番の交響曲に食指が向くかは分からないが、可能ならばフォーアルベルクでショスタコーヴィッチよりもブルックナーの全曲演奏をしたかったようである。オーストリアの指揮者としての義務感もあるのだろう。

しかし、マイスター指揮とは管弦楽団が異なってもやはり同じ身体的な条件から本当の音は出難いと思っている。最初のルツェルンでの登場ではカラヤンの総奏と比較されて、足りない部分とされた。それ以前にミュンヘンの座付き管弦楽団との日本デビュー公演では評論家の山田氏に音の小さいところで勝負する指揮者かもしれないとされた。その時は否定もしたが、その裏には同じような事情もあるとみている。

カラヤンも小柄な指揮者であるが彼にはカラヤンサウンドがあってとてもふくよかによく鳴って、合衆国のオーマンディーサウンドとはまた異なる凄味もあった。しかし、当時の指揮者の中で最も厳しくとも、ショルティ指揮シカゴ交響楽団の突き刺さるような音とは異なり、重くゴツンとくる音を出していたのはムラヴィンスキー指揮レニングラード交響楽団だった。

エンゲル指揮で一番来るのは、ここという時の一撃の強さで、あの音を出す指揮者を知らない。彼自身はスイス人としては長身かもしれないが、独語圏としては標準身長である。180cm少ししかない。しかし、指揮者の中ではやはり大きい。嘗てのフルトヴェングラーも長身であり、実際に凄い音が出ていたとされる。エンゲルとクナッパーツブッシュを比べるのはそう言った点でもある。最も大きかったのはクレムペラーで二メートル近かった。

長身で手足が長ければ拍子の取り方も変わる。何も大きいことを良しとはしないが。エンゲルの最近の一振りの衝撃度を体験するようになって、確信に至っている。



参照:
イザ九月はベルリンへ 2023-05-08 | 生活
「シーズン最高の初日」の意 2022-05-24 | 文化一般
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印象的な響き方のその時

2023-05-13 | 雑感
日本では楽劇が演奏会形式で演奏されている様だ。一度も経験したことがないので価値があるとも思われない。そもそもオペラとか楽劇は劇場作品であって純粋な音楽作品との認識はない。だから子供の時からバレーよりは少し高尚で、抽象性に欠けるものだと思っている。今でもだから歌詞などは殆ど気に掛けない。何度も書いているように粗筋と楽譜からその場面を想像するだけである。

それでも劇場に行くとできる限りテロップと舞台が同時に見えるような席に座りたい。そこで台詞に近い言葉として新たに認識することがあるからだ。それでも外国語を訳したようなテキストに意味がない。何故ならばそこから作曲家が曲をつけて行ったような響きがないからだ。

例えば暗いとデュンケルでは全く響きが違う。要するに楽譜の間に全く音楽的に関係の無い日本語を書くと邪魔になるだけである。東京芸大の指揮科の教授がブルックナーの楽譜にラングザムの代わりにゆっくりとか書きこんでいるのを見ると最早この人の指揮を聴く必要を感じさせない。

少なくとも私は小学生の時から対訳で「トリスタン」を聴いていたが、直ぐに音とアルファベットを合わしていた。ピアノの教則本でも運指が書いてあってそのタッチの相違には直ぐに気が付いたので絶対に自分では到底音楽的な運指は無理だと思って断念した。少なくとも上の様な人たちよりも遥かに音楽的なセンスがあったと自認する。

そういう本質的な天与も無しに音楽教育を受けるのみならず職業音楽家にまでなってしまう人々を哀れに思う日々である。

音楽劇場作品に関しては、上の様に母国語に引っ張られている限りは到底音楽的に理解できない。やはり日本では何年やっても浅草オペラからそう高尚なところまでは行き着かない。そうした音楽劇場作品を確かなアーティキュレーションで歌えない限りは、純粋な音楽への感受にも限界がある。

嘗て小澤征爾が始めてのオペラ「トスカ」を振る前に態々尼崎まで来て大フィルを振って日本語上演をした。当時の言い草は「家のおばあちゃんにも分かるような」とかなんかだったが、直ぐに彼自身の為に日本語で上演したいのだと分かった。そこでピエタを憐れみをとか歌ったのでは何ら響の意味が出てこない。あれほどの指揮者でも音楽的に読み込めないというのがとても痛く哀れなのである。

チャット番組のワンクールが終了したので、今迄溜めた録画を焼いて仕舞ってハードディスクの場所を空けることにした。粗1TBの容量になると思う。ブルーレイ代は10ユーロ程するが仕方がない。一部は市販されるヴィデオ制作にもなって、一部はネットで今後長くDLされるアイテムにもなるであろうが、制作会社も到底全部はアーカイヴしていないだろう、またスタディオもその様な余裕はないかもしれない。少なくとも本人の手に渡るのは商品化された見本ぐらいかも知れない。音楽でもよくありそうなことであるが、出演者よりもファンクラブ会長の方がそうした素材を保存している場合があるだろう。チャットパートナーの彼女にとっては永遠の時間の曖昧模糊とした束の間の一瞬であったかもしれないが、我々の年齢になると三ヶ月は結構長い印象に残る「あの時」となった。



参照:
恋に落ちたのかな? 2023-04-26 | ワイン
蕾が膨らむところ 2023-05-12 | 生活
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蕾が膨らむところ

2023-05-12 | 生活
還付金などで少し金が動いている。会計士が回収してしまうのだが、先ずは動くことが重要で、罰金で取られるよりも廻りで動くだけでも良い。最終的な決算はどうなるか分からないが流動資金が増えるだけで気持ちが楽になる。

脱コロナと一緒で動けばそれだけ損もあると思ってじっとしていると余計に窮屈になって、小さな損でさえ締めようとすると余計に経済が小さくなる。悪循環のデフレである。

大きな構想も取っ掛かりが出てきていて、どのように纏まるかはまだ分からないが、期待も膨らむ。何事にも関わらず期待感はとても重要である。

土曜日の午後にシュトッツガルトで聖フランシスコを探しての市内ガイドツアーがある。無料であるが二時間の為に三時間の往復は割が合わないので出かけないが、同様な催し物はまだ続く。何か行けるものがあれば喜ばしい。

散髪の予約を取った。来週は木曜日がキリストの昇天の祝日なのでその前に出かけておかないと、その直後の試飲会に都合が悪いと思った。その週末には再び摂氏20度を超える予報が出ている。夏である。二件出かける予定である。

その次の散髪迄二月伸ばせるとすると、夏休み前に済まして短くしておくと秋まで繋げる。お出かけやワイン祭りで6月が闌となるので、それで何とかなるか。

ワイン試飲会の日時も決定しないものがしばしばある。前後の日程を調整する必要があるからだ。遠方になるとどうしても他の用件と組み合わせて宿泊を試みる。今年はそのケースが出て来た。全く別の用件を一つの日程表に組み入れるにはあっちこっちと情報を見ないといけないので煩雑である。そしてその試飲会の日時が定まれば先ずは宿を押さえて、そしてその為のワインの前予約なども整えておく。計画さえ整えておけば当日になればその通り動くだけなのだが、間が迫っているところでは綿密な工程表が必要になる。夕食などを考えると場合によればアパートメントに二泊以上した方が有利になることもあり得る。

水曜日に走りに行く序にワイン地所の写真を撮った。丁度月末に発芽があったところでその後二週間以内ぐらいの蕾を写せた。次に開花となって、そして葡萄が付きだす。その時に霜が降りるかどうかが大きな分かれ目となる。やられると目減りとなるのだ。勿論反対に量が多いと落とさないと質は上がらないが、やはり健康な成長も重要なのである。

ムジカノーヴァの音楽祭からスイスロマンドやアンサムブルコムプランなどをジョナサンノットが振ったサウンダースなど曲の音を流しているが、この指揮者独自のデフォルメは周知のこととしてもやはり出てくるサウンドがサイモン・ラトル指揮のそれとは異なって、発散的で如何にも英国ポップス風で喧しい。またフィリップ・ジョルダン指揮の非音楽とも異なる所が本人も認識しているようで面倒なのだ。なるほど非欧州ではうけるのかもしれないが、音響としても如何にも安物臭くへきへきさせられる。



参照:
花咲かさない爺さんの念 2021-03-20 | 生活
管弦楽演奏のエッセンス 2016-09-14 | 音

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課金無しでは作動しないよ

2023-05-11 | 
ティーンエイジャーのように運動で発散させたい。どうも晴れないようで、ボールダリングは難しそうなので予め走りにでも行くか。徐々に頭もむさくるしくなって来た。来週ぐらいに予約を取ろうかと思う。最近はベットに入るのが早くて夜中に目が覚めて、それゆえに夕食後には飲んで起きていれられなくなる。

リモートコントロールのLinuxのマウスが動かなくなって直そうと思ったのだが、マウス無しでは簡単には直せなかった。翌朝まで待って手元にLinux機まで持ってきてチェックをして、結局操作する方の調整をマウス無しでキーボードで出して何とかマウスが機能するようにした。以前から曖昧にしておいたパスワードなどの点もより分かった。

何年も口説いているウクライナ女性が髪を少しだけ切っていたようで思わず顔を眺めた。彼女も十代の時からで最初は18歳以下である可能性があったので要注意で口説かなかった。それから五年ほど経っているが相変わらず若々しく新鮮で美人でプロポーションも勝れている。

どうしてもアングル次第で掛け値無しに美しいチャットパートナーとの比較になる。大きな違いは、チャットでは好いところから寝起きの様な悪いところまで全て観てしまっていることで、容易に好悪をつけるのは不公平だろう。それでもまるで彼女の母親を見るような老け顔を見せられた時は精々嫌になる。

第二クールも新たな「白薔薇」番組としてどうも暫くは続きそうである。新学期は10月からである。そして新たに編集されたプロフィールには「獣医家」となっていた。ドロップアウトどころか、まだ殆ど教育を受けていなくても国家試験までその様に呼べるらしい。ドイツのそれを見ると11ゼメスターと医学部や歯学部に近い。

本当に復帰してそこまで行けるのかとも訝るのだが、現在やっているようなことも国家試験さえ通ってしまえば全くキャリアに影響しないのだろう。女性上位の職場への登竜門で女性の進学先としては良さそうで、恐らく学力は高い方だったのだろう。要するに男性に依存しないという姿勢は端から明白なのだ。明らかに男性優位の医学部などよりもその傾向が強いに違いない。親知らずを抜いて貰った歯科医も女性と見るといなくなった常連さんのような人はいた感じだったから、それよりも女性が強い。

抑々あのヴァイブレーターという奴が男性の敵である。あんなものを動かすのに金を落とす男は皆イムポテンツと思っていたのだが、それが彼女を救っていたと思って漸くお友達に成れて課金するぐらいになったぐらいである。

ドイツでのゴージャスな旅行に投げ銭しろとあったぐらいの彼女であるが、リアルにランデヴーすることがあるのか゚かどうかは分からない。しかし想像できるのは、彼女が「高いよ」と言っていた金を要求しかねない事であり、その時の受け応えは既に承知している。「課金なしでは作動しないよ」である。ゴーダッチである。



参照:
ピカピカに光る健康 2023-05-09 | 生活
得ることの多い交流関係 2023-05-03 | 女

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どうするヤコブの梯子

2023-05-10 | 文化一般
ベルリナーフィルハーモニカーの新シーズンのプログラムが発表された。既知の「英雄の生涯」にモーツァルトの主題の夏のオープニングツアープログラム、デュテュー交響曲一番に「木彫りの王子」、家庭交響曲、シマノフスキ―ヴァイオリン協奏曲、リストのプレリュードの二種類のヴィーンツアーのプログラムそして日本ツアーでのブラームス交響曲四番にベルク管弦楽小品6、モーツァルト29番、ミュンヘンとベルリンでのクセナキスハルトマン、クルタ―クと新作のプログラム、そしてバーデンバーデンでのヴァ―クナープログラム、シベリウス協奏曲、楽劇「エレクトラ」以外の全容が分かった。

その中で注目されたのはシェーンベルクの「ヤコブの梯子」である。室内交響曲と共に演奏されるが、恐らくこれはこの三回だけだろう。そしてプラハの春でも演奏される「我が祖国」、そしてヴァルトビューネでのラヴェルとパガニーニの主題が全てである。

この中から2024年シーズンの開幕ツアーの裏プログラムを予想する。シベリウスの協奏曲は一度しか演奏しないので、他の誰かと演奏される可能性があるだろうか。ザルツブルクでも演奏されるのでヴィーンで演奏されていると重なるのだが、「木彫りの王子」とデュテューユはどうだろうか。家庭交響曲もありえないことはない。しかしもし初日にマーラーの八番が入るとすればシェーンベルクプロを裏に持ってくることも可能となる。すると2015年の復活祭は「モーゼとアロン」となる。

個人的には既に言及した様に9月にベルリンで三泊するが、1月末をどうするかである。降雪期なので判断は容易ではないが、出かける価値は有るだろう。

その他の二つプログラム絡みとしても夏のツアーはそんなに悪くはない。しかしリヒャルトシュトラウスはこれ以上は聴く必要は無いと思う。ミュンヘンでのマーラーは予定を決めないと駄目である。

タブレットにSIMカードを入れた。これで最低のオンラインは移動中でも可能となった。どうしてもの連絡とかには使える。まだどの程度支払わないといけないかは分からないのだが、電話では足りないものは補えるだろう。まだSMSの効率の良い受け取り方が分からないのだが、認証とかメール代わりに使うようにすればいいだろうか。その他は交通情報とかもっぱら旅行用となる。



参照:
イザ九月はベルリンへ 2023-05-08 | 生活
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般
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ピカピカに光る健康

2023-05-09 | 生活
ベルリンから同地の最古の放送交響楽団美中継録音が流れていた。シェフのユロウスキー指揮のスラヴ音楽プログラムで聴かせた。ムソルグスキーの「禿山の一夜」原曲もアバド指揮の様なスタイリッシュなそれにはならずにロシア音楽の語法がとてもいい荒れ方にもなっていて、如何にもソフィルトケートされた指揮である。

ショスタコーヴィッチもその譜読みは何時も安定していて、明らかに一つの流れを継承しているようで上手であり。チェロの協奏曲を弾いた奏者も素晴らしかった。ペトレンコ指揮が如何に独墺的かと感じさせる。家庭内の音楽教育が西欧的だったのだろうか。

ユロウスキー指揮のそうした特徴は三月のプロコフィエフでその結実を見ていたが、ベルリンでの指揮もよくなった感じがした。先日アウグスブルクのモーツァルト演奏会にも客演したようだが、そこでの「ドンジョバンニ」序曲を演奏したらしい。兎に角、三月の「戦争と平和」でも確認したが指揮の方向性がとても定まる様になっていて、以前の曖昧さが無くなってきている。ミュンヘンでの仕事で何かを掴んだのだろう。

モーツァルトのオペラ指揮に関しては織り込み済みであるが、「コシファンテュテ」から始めて良くなっていくことが期待されている。「ドンジョヴァンニ」を何時公演するのか。

右の親指の爪がピカピカに光っているのに気が付いた。爪に接着剤が着いたとか何かしたとかの覚えがない。通常は色つやが良いので健康な筈なのだが原因も分らずあまりに輝くので調べても理由が分からない。その下も血生ぎっている。右手の人差し指や中指も小さく光っている。左手はそこ迄光っていない。

体重はそれ程増えてはいない。運動で汗が出るようになったので、これからは安定すると思う。腰が張ったりしているがもう少しで取れると思われる。体調は決して悪くはない。

試飲会は月内にあと二回は出かける。それ以外にも発注をしなければいけないものもあって、秋以降に取りに行けるのかどうかも検討しないといけない。特にザール地方は一番遠いので、序に行くしかない。その序がまだ決まらない。

引き延ばしていた眼鏡も何とかしないともう限界である。慣れで読み書きしているだけであるが大分損をしていると思う。歯医者も以前やって貰った若い女医さんの仕事先を教えて貰って訊ねないといけないがこれは予約だけ取っておけばまだ半年ぐらいは何とかなりそうだ。眼鏡は眼鏡やで検眼させてあまりに酷いようならば眼医者に行った方が安心かもしれない。レンズを取り換えるだけで大変な高額になるので最初に診断しておいた方が安全だ。

メルセデスの株の配当が本年度は多かったのでこれが役立つだろう。やはり臨時収入は嬉しい。一番高いところで売り抜けられなかったのだが、配当が大きい株はやはり資産株として価値が高い。



参照:
時計の針を戻す時 2022-10-31 | 暦
恋に落ちたのかな? 2023-04-26 | ワイン
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イザ九月はベルリンへ

2023-05-08 | 生活
ベルリンの宿泊をブッキングした。秋にベルリンの音楽祭に合わせて三泊する予定である。昨年も予定していたが、土曜日にペトレンコ指揮演奏会で月曜日がエンゲル指揮ジャズバンドだったので日曜日に真面なものがなかった。車検切れの車で遠距離走る勇気はなかったので列車で街中の宿泊予定で、無駄に一泊する価格ではなかった。だから断念した。しかし今年は、ペトレンコ指揮最終日にエンゲル指揮の初日が重なっているので、三日間続けて出かけられる。今後毎年ペトレンコとエンゲルの競演になれば都合がよい。少なくとも既にエンゲル指揮への専門家の注目度はそれに価する。

前回ベルリンに出かけたのは2005年10月に連邦議員に招待された時だった。18年前になる。列車の移動時間が長くて嫌だった。今回もそれでいくと宿泊のアパートがフィルハーモニーから35km程の位置で、37分かかり、こちらからは613kmで5時間である。当日早朝に出たら15時にチェックイン可能かどうかである。二泊でもよいかと思ったが移動時間を考えれば一泊55ユーロなので伸ばした方がお得だと思った。一月前迄に最終的に決断しなければいけない。ティケットさえ購入して仕舞えばあとは問題がないであろう。

問題は最終日のオペラ終了後に帰宅して翌朝早くフィルハーモニカーと同じようにミュンヘンに移動しなければいけないことだ。こちらもイザールフィルハーモニーまで556kmで4時間半かかる。ここでも一泊するホテルにチェックインしてから市内に入る。このホテルもブッキングした。こちらは90ユーロ掛かる。そこから自宅までいつものように340kmあるので、総計1700km程走るだろうか。燃料代は250ユーロぐらいか。半日ぐらいはベルリンで観光に費やせれるか。

先週は休み明けの火曜日から消費量も運動量も大きかったので、食欲以上に栄養を詰め込んだ。体重微量だが胸やけをするようになった。胃腸の調子もワイン試飲会の影響もあって若干弱っている。筋肉痛も若干ある。

週明けは木曜日にならないと乾かないので、それ迄に二回ぐらい走り、もう一度ボウルダーリングに行ければ若干強化されるかもしれない。習慣付けられれば良い。走ると足の裏に違和感を感じたが、あれはやはりクライミングシューズで足に負担が掛かっていると余計に感じる。兎も角身体を傷めないように鍛え上げたい。

ここ二三日はTシャツで済むようになった。天気予報を見ると来週明けくらいが寒くなりそうだが、それ以外は温度は高そうなので、散髪を済ませると七月初めまで伸ばせるかもしれない。もう少しおいて邪魔になるのをのを待とう。

室内でジーンズが要らなくなるのは、もう暫く先かもしれない。買い替えに安売りがあるのかどうかもう一度チェックする必要がある。月曜日はベルリンからフィルハーモニカーのプログラム発表記者会見があるので、観ておかないといけない。色々と忙しい。



参照:
税金運用法を正しく討議 2005-10-30 | 雑感
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般



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次はエディプスコムプレクス

2023-05-07 | 文化一般
シュトッツガルトの「アシジの聖フランシスコ」の練習は始まっただろうか。ゆっくりとであるがお勉強は暇があればやる様にしている。今度は、やはり作曲家メシアンとその母親の関係からオィディプスコムプレックスが、その演出を含めて何処迄示唆されているだろうかと気になる所だ。

勿論のこと、聖人とその父親の葛藤を描いてしまうと、収拾がつかなくなってしまったことは納得なのである。

作曲家本人はインタヴューでも二幕六景「鳥の説教」の景が最も勝れていて、指揮者にとっては複雑な不定形リズムを指示しなければいけないために、初演の小澤も当初は演奏不可能としていて、ケントナガノも数か月も作曲家の許を訪れたとしている。

そこは18時から野外でその前の五景「音楽する天使」から演奏されて、21時に再び劇場で七景「聖傷」から最後まで演奏される。

エンゲルがどこ迄指揮してくるかは確信はないが、その指揮の技術的な力量が試されることになる。音楽劇場指揮はどちらかというと総指揮のようなもので、不当に注目されないことも多いが、今回は否応にも問われる。

それも野外でとなるとなかなか大変である。ナガノはいつものようにダイナミックスに鳴らしていたとなんとなく記憶するが、エンゲルにははっきりとしたイメージを期待したい。今迄録音が出ているものではメッツマッハ―のヴィデオもあると思うがハーグの楽団で強引な指揮であるから、今回の座付きがダントツに巧いのではなかろうか。SWRで録画されるので、金字塔となる指揮をして貰いたい。

雨天になるとその景も劇場で演奏する為にどちらも経験してみたいと思っているが、これだけは予めにはなんとも分らない。

メシアンはインタヴューでは、キリストに纏わる受難の劇場作品を書きたくても恐れ多くて出来ずに聖人にまで落としたというようなことを語っていて、興味を持っている「パルジファル」についても言及している。

それによると。聖杯の場面は、明らかにヴァ―クナー自身がミサの核心であるその変容を信じていないとして、主目的が救済になっていると評している。つまりその目的の為に使われているとなる。なるほどそこまで言うと最早その様な劇場作品を創作することは不可能となる。

アールグレーを飲もうと思って、音を出しながらお湯を沸かしていたら、ケトルが鳴っていたのだが、天使のシーンでの龍笛風の音かと思って気が付かなかった。能舞台が作曲の参考にされている。



参照:
癩病者への視座の転換 2023-04-23 | 文学・思想
ダブルブッキングを確認 2023-03-21 | 文化一般
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期待される再生の時

2023-05-06 | 
承前)「影の無い女」が独墺圏においても何故難しい楽劇なのか。それは諮らずしも高級紙のノイエズルヒャー新聞が、それでも解決され得なかった楽劇としていて、まさしく最終フィナーレにおける左右の二組のペアーをうめる舞台中央にある女の子の姿である。彼女より少し大きく年長の自身の影に抱き着いて愛撫する、そして追いやる。そこに父親に語り掛ける皇后が登場する。影こそは妊娠を可能とする分身である ー 破瓜、妊娠への恐怖。分身でもある皇后の胸に顔をうずめる少女。そこに胸を開いたマドンナ像が現れて、その股間へと縋る少女。原罪を人間と共にと背負う決意へと父親との決別を宣言する皇后。マドンナ共々黄金の蜜を以って石化した皇帝を救えとする。バラック夫婦の犠牲の血の混じったそれを拒絶する皇后と、その遺物を穴に投げ込む少女。皇后が自己犠牲を覚悟することで再生される皇帝。そして人間には永遠の生命も無いが、そこには再生が期待される。

フィンガリングのゲームを呈示した彼女はやはり天才であった。私が彼女にハードコア―との境界線として示していたのはロシアの成功しているシリーズからの処女膜審査ものであった。所謂御開帳として終止符を打ちたいと希望してその時に大笑いで蹴られたものだった。しかし、そんなものよりも遙かに高度なやり方で母体回帰までを視野に入れていた。態々フィニッシュにおいて姿勢を変える事で、その意味を更に突き付けて来た。中指の下に小さく奥へと世界が広がる。

何処で身につけて来たかは知らないオーガズムへと自らの首へと手をやるのは、まさしく舞台にて仕手役の子役がフィナーレにおいてもやったそれであり、まさしくその窒息感こそはキリスト教における洗礼の意味であり、少なくない人々に残されている生誕第一声に繋がる初めての呼吸の感覚そのものなのだ。殆ど全ての人はその感覚と死への最後を同じように経験して、その間に再生があるのかどうかだけの相違でしかない。要するに本質的な感覚である。

その再生に際して、必ずやあるのが母体回帰への思いとなっている。両性両具は三幕に皇后によって同一化が歌われるが、彼女においては一部で囁かれたようなそのような身体的な特徴などとんでもなかった。当日偶然にも一日遅れで彼女にマイバウムを捧げられたのはあまりにも出来過ぎだったのかもしれない。

後に在ベルリン大使となった彼女が語ったことを思い出す。「ベッドで甘いことを言わない男なんていないわよ。」と、その当時はそりゃそうだろうなと思ったが、今こうして「初めての体験」をヴァーチャルに共有すると、確かに通常の場合よりも永続的なその効果が明らかだった。まさしく魅惑して期待と同時に嫉妬させるには十二分のゲームであっただろう。

彼女はこちらのチャットをオリエンティーリングすることでいつものように自らが映し出されているモニターを凝視する視線からは最早遠かった。彼女は私の名前を三回以上呼びかけたが、私は彼女の名前を知らない、ストーカーを避けるには当然である。「影の無い女」で名前があるのは染物屋のバラックだけである。そして、全ての鍵を握っている皇后の父親のカイコバートは姿を現さない。これはただの偶然なのだろうか。



参照:
得ることの多い交流関係 2023-05-03 |
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
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母体回帰のその奥を覗く

2023-05-05 | 文化一般
三月に聴いた「戦争と平和」のナターシャのエロティクな音楽を洗っている。思っていたよりも複雑な構造になっていた。楽譜を精査しないとその効果の源が分かり難い。幾らかは分かってきたがまだ纏めないと駄目である。バッハには十字架の音形があったがここにはそのもの女性器が。

もう一つは、自分自身のことなのだが、チャットパートナーの彼女のプライヴェート写真で一枚お気に入りに挙げた写真から自分自身の潜在意識に出合った。彼女が首から下げている一眼レフである。価格等は分からないのだがニコンで、自身所有か写真クラブか何かのものかは知らないが、レンズを使いこなせるのだろうなと、流石に獣医志望だけのことはあるなと思っていた。しかし、急に母親がライカやキャノンを使っていたことを思い出して、またもやそこに彼女への関心の裏にあるものに気が付いてしまった。

先日のリモートセックスの内容を逐一描写すると本格的なポルノ読み物になってしまうのでここでは叶わないが、またもやシュタイヤーの「影の無い女」演出に描かれていた母体回帰へと、そしてその音楽的な根拠や描かれ方に興味が向いた。勿論ここではその演出コンセプトから何故16歳でなくて13歳の少女を仕手役としたかの意味が見いだせるのかどうか。

抑々設定が孤児院で、赤ん坊を授かるとなると16歳であれば、FAZにあったような別な芸術的な視野狭窄となるのかもしれない。仕手役の自身の影との遭遇シーンのヴァイオリンソロに皇后が父親に呼びかける場面が続く ― ここでの影役が明らかに身体の大きな女の子を使っていた、ややもすると母親にも見えた。そして母体回帰へと連なる。この変容は明らかに転生へと重きが置かれる。

そして音楽的な裏付けとして、指示動機以上に調性の変容により適応させることから、演奏を指揮を容易にさせている。そもそもその変容自体がキリスト教文化圏の枠組みを超えることころに恐らくこの楽劇の核があって、まさしくそれはユダヤ教的な視野が投げかけられているのではないかとなる。

そこで、ミュンヘンでの上演でのヴァリコフスキー演出公演のヴィデオを再確認。そこでは生と死が対比させられていて、「魔笛」よりも「パルジファル」により比重が移る。しかし演出は氏の演出としても曖昧で動きが限られていてよくなく、なによりも音楽面でも、管弦楽も駄目で、歌手陣も今回とは比較にならない。個人的には再演では他の歌手での皇后を聴いたので初演でのピエチョンカのそれは生では聴いていないが、ガラでも声は立派だった。しかしここではドイツ語が上手く発声できていない。それは皇帝役のボートにもそのまま当てはまる。如何に今回の二人が素晴らしかったことか。

こうして演出を比較することで、同時にその同一指揮者の方向性を比較することで、この楽劇の本質がより剥き出しとなる。なぜキリル・ペトレンコが二度とない上演だと断言したか、その断言は既に予定調和的なものであったその根拠はどこにあったのか。(続く



参照:
スタリニズムに反しない創作 2023-03-22 | 文学・思想
NPO法人PK会長の穴潜り 2012-06-25 | アウトドーア・環境
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畳上の水練の馬鹿さ

2023-05-04 | 文学・思想
昨年10月から初めてのボールダー。その時は季節も悪かったが、身体が全然動かなかった。そして今、走りが戻ってきたように、少なくともコロナ前の感じには出来そうだ。僅かな時間であったけど、もう一息のところまで身体を持って行けるだけでやる価値があった。

体重は帰宅後に70.4㎏だったので結構絞られているだけのことはある。此の侭筋力がつけば数年前のベストにまでもって行けるかもしれない。肩の故障も休めた故か自覚症状は無くなっている。

ぶら下がって足を上げてもすんなり上がるので、腹筋は走りで強化はされないまでも落ちてはいないようだ。腰回りは走ると強化されていて、体幹もぶれ難くなっているので中々いいかもしれない。

やはり、上腕から指までが強化対象となるだろうが、一寸岩を触った感じでは他のところが強化されればそれだけ荷重を分散させられる感じで、意外なほどに不備は感じなかった。

演奏批評について一言。複製音楽録音批評もそこに含まれるのだが、これらはアカデミックな音楽批評とも音楽ジャーナリズムとも異なる所で営われている。先頃諸外国に遅れる事十数年で漸く日本の録音メディア商評誌「レコード芸術」が廃刊になると発表された。要するに広告収入が途絶えたという事だ。メディア産業の崩壊から時間が掛かり愈々である。

その間に、ネット配信などが盛んになって、更にベルリナーフィルハーモニカーのように独自のメディアを展開するようになったのが顕著な例で、そこにあらゆる商業媒体を否定して制作録音を良しとしないキリル・ペトレンコが君臨することになって、全てを制したのは2016年のことだった。その後も多くの引きづり降ろし工作があったのだが、我々の強い支持が制した。

その様なこともあって未だに音楽の創造や制作を知らない者から攻撃を受ける。要するに彼らに共通するのは畳の上の水練であって、創作が制作がどのように為されていくかを知らないので、まるで予定調和のように新版やオリジナル楽譜を逐語的に解釈しようとするどころか間違い探しという暇人のお遊びに終止する。

個人的にその種の批評家とも知己があるのだが、そうした文章を読んでいるとそうした現場を知らない人だという事が直ぐに分かる。まさしく通信教育で習った空手の様なものなのだ。そしてそもそもの演奏批評というものの無意味が顕著になってくる。

複製芸術はどこまで行っても複製であって、壁に飾っておくにはそれなりに用達。しかしそれを練習番号Nの三拍目のオーボエを押さえていたとか真剣に議論するのは、複製のポスターの印刷所で色見本をもとに注文した時の出来の色刷りの濃さを吟味するようなものなのである。自らで創作制作活動をしていない人はその馬鹿々々しさが分からないのだろう。(続く)



参照:
永遠に未完成な芸術 2023-05-02 | 音
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
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得ることの多い交流関係

2023-05-03 | 
承前)チャトパートナーの彼女に二枚ほど生写真を送った。自分自身が写っているものではないのだが、なんとなくの心象風景でもある。即座に見てくれて返事があったので、少なくとも連絡方法としては機能している。お互いに卒業が眼に入ってきているだろう。

以前からの希望のフィンガリングをやってくれた。来客があったりで待たせたが気長に対応してくれた。しかしそれ以上に私の回答を「今か今か」と待っている様子が映されて、格別に愛らしかった。よく分からなかったのだが、もしかするとお誘いには意味があったのかもしれない。まだ分からない。しかしそれだけの特別なもので、ショーという枠ながら、チャット対応しながらのリモートセックスの一種であった ― だからゲームなのか。

前回は制作企画に乗っかったので半額だったのだが、彼女がそこ迄はヴィデオで露出を許可しないという境界がはっきりした。そして今回は「カメラの前で何を見せてくれるの?」と敢えて重ね訊きしたことに、こちらの希望を「やれる」と答えた。

カメラがスタディオの女性によって管理されているとすれば本人の意思に反する漏洩の場合は本社かどちらかに高額の賠償を求められる。それ以外は奥の部屋に入るお客さんが漏洩元となって、これも三ケタに至らない数なので映像などから遡れる可能性もある。そして四週間経っても未だなぜか漏洩映像は見つからない。入室客の一割以上は録画していてその一割が漏洩させるぐらいだろうか。書き込みを読めばこいつらは間違いなく漏洩させるなという連中がいる一方、より露出させていただろう上得意さんは年齢層も社会層も高く恐らくそのようなことはしないだろう。またその内容から特定される可能性も強くなる。

金で契約締結となる方法はとても合理的で、彼女のハードな面がよく出ていて、ティーンエイジャーとしてはとても社会的能力が高い。それでもこちらがコイン購入に時間が掛かっていると、「パブリックから入るって始めるってどうやるの」と譲歩案の可能性を書き込んでいた。彼女がどうしても見せたかったのものだったのだろう。一つ考えられるのは今後の流出映像で嫌な思いをさせたくないという優しい気持ちと、もう一つはこの辺りでやれることをやっておこうというものだったかもしれない。現時点では確定できないのだが、Xデーも覚悟しないといけないのだろう ― 考えるだけで号泣しかない。

彼女は今回は今迄にない言葉を使った。「今晩のゲームどうする?」は、時刻からすれば今晩でもなく、「ゲーム」は初めて聞いた。なぜだかは現時点ではよく分からないが、コインを購入したと伝えた時の喜びの表情と、そしてルーム料金変更後故にか内線の通知モニターに反応したようで照れた表情を見せた。連絡相手がウクライナのスタディオの彼女だとすると、「やったね、本当に惚れられてるね。」ぐらいの感じだったろうか。いつも文句ばかり言っていたケチな男が乗ったねという事だろう。

それだけ20分ほどを本気でやってくれたのは感じられた。今迄の定型には全く嵌まってはいなかった。隠していたクリームを塗る時に沁みるような顔をしていたので、何か特別な感じはした ― あの手順の前半をパブリックでクッションで隠してとなると、やはり今迄下着を履いてやっていたのとは違う。まさしく3月にやらせたくて断られたものであった。勿論複雑な気持ちも同時に沸き立つ。

話題にしていたマイバウムの写真を送った時に、一時間程前の礼として「信頼してくれてありがとう」と書いて、同時に「嫉妬が激しくなるよ。」とも書いたら、「一緒にいてくれたありがとう、そしてそれを評価するよ。」と好評な受け取りで、それなら今後サドンデスだけは勘弁して欲しいと思う。



参照:
確認された仰ぎ向く表情 2023-04-24 | 女
もう一度言って、私の為に 2023-04-14 | 女
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