日本では楽劇が演奏会形式で演奏されている様だ。一度も経験したことがないので価値があるとも思われない。そもそもオペラとか楽劇は劇場作品であって純粋な音楽作品との認識はない。だから子供の時からバレーよりは少し高尚で、抽象性に欠けるものだと思っている。今でもだから歌詞などは殆ど気に掛けない。何度も書いているように粗筋と楽譜からその場面を想像するだけである。
それでも劇場に行くとできる限りテロップと舞台が同時に見えるような席に座りたい。そこで台詞に近い言葉として新たに認識することがあるからだ。それでも外国語を訳したようなテキストに意味がない。何故ならばそこから作曲家が曲をつけて行ったような響きがないからだ。
例えば暗いとデュンケルでは全く響きが違う。要するに楽譜の間に全く音楽的に関係の無い日本語を書くと邪魔になるだけである。東京芸大の指揮科の教授がブルックナーの楽譜にラングザムの代わりにゆっくりとか書きこんでいるのを見ると最早この人の指揮を聴く必要を感じさせない。
少なくとも私は小学生の時から対訳で「トリスタン」を聴いていたが、直ぐに音とアルファベットを合わしていた。ピアノの教則本でも運指が書いてあってそのタッチの相違には直ぐに気が付いたので絶対に自分では到底音楽的な運指は無理だと思って断念した。少なくとも上の様な人たちよりも遥かに音楽的なセンスがあったと自認する。
そういう本質的な天与も無しに音楽教育を受けるのみならず職業音楽家にまでなってしまう人々を哀れに思う日々である。
音楽劇場作品に関しては、上の様に母国語に引っ張られている限りは到底音楽的に理解できない。やはり日本では何年やっても浅草オペラからそう高尚なところまでは行き着かない。そうした音楽劇場作品を確かなアーティキュレーションで歌えない限りは、純粋な音楽への感受にも限界がある。
嘗て小澤征爾が始めてのオペラ「トスカ」を振る前に態々尼崎まで来て大フィルを振って日本語上演をした。当時の言い草は「家のおばあちゃんにも分かるような」とかなんかだったが、直ぐに彼自身の為に日本語で上演したいのだと分かった。そこでピエタを憐れみをとか歌ったのでは何ら響の意味が出てこない。あれほどの指揮者でも音楽的に読み込めないというのがとても痛く哀れなのである。
チャット番組のワンクールが終了したので、今迄溜めた録画を焼いて仕舞ってハードディスクの場所を空けることにした。粗1TBの容量になると思う。ブルーレイ代は10ユーロ程するが仕方がない。一部は市販されるヴィデオ制作にもなって、一部はネットで今後長くDLされるアイテムにもなるであろうが、制作会社も到底全部はアーカイヴしていないだろう、またスタディオもその様な余裕はないかもしれない。少なくとも本人の手に渡るのは商品化された見本ぐらいかも知れない。音楽でもよくありそうなことであるが、出演者よりもファンクラブ会長の方がそうした素材を保存している場合があるだろう。チャットパートナーの彼女にとっては永遠の時間の曖昧模糊とした束の間の一瞬であったかもしれないが、我々の年齢になると三ヶ月は結構長い印象に残る「あの時」となった。
参照:
恋に落ちたのかな? 2023-04-26 | ワイン
蕾が膨らむところ 2023-05-12 | 生活
それでも劇場に行くとできる限りテロップと舞台が同時に見えるような席に座りたい。そこで台詞に近い言葉として新たに認識することがあるからだ。それでも外国語を訳したようなテキストに意味がない。何故ならばそこから作曲家が曲をつけて行ったような響きがないからだ。
例えば暗いとデュンケルでは全く響きが違う。要するに楽譜の間に全く音楽的に関係の無い日本語を書くと邪魔になるだけである。東京芸大の指揮科の教授がブルックナーの楽譜にラングザムの代わりにゆっくりとか書きこんでいるのを見ると最早この人の指揮を聴く必要を感じさせない。
少なくとも私は小学生の時から対訳で「トリスタン」を聴いていたが、直ぐに音とアルファベットを合わしていた。ピアノの教則本でも運指が書いてあってそのタッチの相違には直ぐに気が付いたので絶対に自分では到底音楽的な運指は無理だと思って断念した。少なくとも上の様な人たちよりも遥かに音楽的なセンスがあったと自認する。
そういう本質的な天与も無しに音楽教育を受けるのみならず職業音楽家にまでなってしまう人々を哀れに思う日々である。
音楽劇場作品に関しては、上の様に母国語に引っ張られている限りは到底音楽的に理解できない。やはり日本では何年やっても浅草オペラからそう高尚なところまでは行き着かない。そうした音楽劇場作品を確かなアーティキュレーションで歌えない限りは、純粋な音楽への感受にも限界がある。
嘗て小澤征爾が始めてのオペラ「トスカ」を振る前に態々尼崎まで来て大フィルを振って日本語上演をした。当時の言い草は「家のおばあちゃんにも分かるような」とかなんかだったが、直ぐに彼自身の為に日本語で上演したいのだと分かった。そこでピエタを憐れみをとか歌ったのでは何ら響の意味が出てこない。あれほどの指揮者でも音楽的に読み込めないというのがとても痛く哀れなのである。
チャット番組のワンクールが終了したので、今迄溜めた録画を焼いて仕舞ってハードディスクの場所を空けることにした。粗1TBの容量になると思う。ブルーレイ代は10ユーロ程するが仕方がない。一部は市販されるヴィデオ制作にもなって、一部はネットで今後長くDLされるアイテムにもなるであろうが、制作会社も到底全部はアーカイヴしていないだろう、またスタディオもその様な余裕はないかもしれない。少なくとも本人の手に渡るのは商品化された見本ぐらいかも知れない。音楽でもよくありそうなことであるが、出演者よりもファンクラブ会長の方がそうした素材を保存している場合があるだろう。チャットパートナーの彼女にとっては永遠の時間の曖昧模糊とした束の間の一瞬であったかもしれないが、我々の年齢になると三ヶ月は結構長い印象に残る「あの時」となった。
参照:
恋に落ちたのかな? 2023-04-26 | ワイン
蕾が膨らむところ 2023-05-12 | 生活