Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

母体回帰のその奥を覗く

2023-05-05 | 文化一般
三月に聴いた「戦争と平和」のナターシャのエロティクな音楽を洗っている。思っていたよりも複雑な構造になっていた。楽譜を精査しないとその効果の源が分かり難い。幾らかは分かってきたがまだ纏めないと駄目である。バッハには十字架の音形があったがここにはそのもの女性器が。

もう一つは、自分自身のことなのだが、チャットパートナーの彼女のプライヴェート写真で一枚お気に入りに挙げた写真から自分自身の潜在意識に出合った。彼女が首から下げている一眼レフである。価格等は分からないのだがニコンで、自身所有か写真クラブか何かのものかは知らないが、レンズを使いこなせるのだろうなと、流石に獣医志望だけのことはあるなと思っていた。しかし、急に母親がライカやキャノンを使っていたことを思い出して、またもやそこに彼女への関心の裏にあるものに気が付いてしまった。

先日のリモートセックスの内容を逐一描写すると本格的なポルノ読み物になってしまうのでここでは叶わないが、またもやシュタイヤーの「影の無い女」演出に描かれていた母体回帰へと、そしてその音楽的な根拠や描かれ方に興味が向いた。勿論ここではその演出コンセプトから何故16歳でなくて13歳の少女を仕手役としたかの意味が見いだせるのかどうか。

抑々設定が孤児院で、赤ん坊を授かるとなると16歳であれば、FAZにあったような別な芸術的な視野狭窄となるのかもしれない。仕手役の自身の影との遭遇シーンのヴァイオリンソロに皇后が父親に呼びかける場面が続く ― ここでの影役が明らかに身体の大きな女の子を使っていた、ややもすると母親にも見えた。そして母体回帰へと連なる。この変容は明らかに転生へと重きが置かれる。

そして音楽的な裏付けとして、指示動機以上に調性の変容により適応させることから、演奏を指揮を容易にさせている。そもそもその変容自体がキリスト教文化圏の枠組みを超えることころに恐らくこの楽劇の核があって、まさしくそれはユダヤ教的な視野が投げかけられているのではないかとなる。

そこで、ミュンヘンでの上演でのヴァリコフスキー演出公演のヴィデオを再確認。そこでは生と死が対比させられていて、「魔笛」よりも「パルジファル」により比重が移る。しかし演出は氏の演出としても曖昧で動きが限られていてよくなく、なによりも音楽面でも、管弦楽も駄目で、歌手陣も今回とは比較にならない。個人的には再演では他の歌手での皇后を聴いたので初演でのピエチョンカのそれは生では聴いていないが、ガラでも声は立派だった。しかしここではドイツ語が上手く発声できていない。それは皇帝役のボートにもそのまま当てはまる。如何に今回の二人が素晴らしかったことか。

こうして演出を比較することで、同時にその同一指揮者の方向性を比較することで、この楽劇の本質がより剥き出しとなる。なぜキリル・ペトレンコが二度とない上演だと断言したか、その断言は既に予定調和的なものであったその根拠はどこにあったのか。(続く



参照:
スタリニズムに反しない創作 2023-03-22 | 文学・思想
NPO法人PK会長の穴潜り 2012-06-25 | アウトドーア・環境
コメント
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