長かった。
ほんとに今年は長かったです。
2017年後半は父がだいぶ弱ってきていて、母は老々介護で草臥れていて。
土日からめた3泊4日とかじゃなく、ゆっくり実家にいてあげたくて1月末に5年間勤めた会社を辞めた数日後の2月5日、熊本へ向かいました。
父が入院していた病院に直行し、荷物を置きに一旦家に帰って再び病院へ。
「またあした来るけんね」と手を振って別れたその夜、まるで私が帰るのを待ってくれていたかのように、父は旅立ってゆきました。
最初はほんの5日程いて、また改めて帰省するつもりだったんだけど、急遽帰りの便は諦めてしばらくとどまることに。
マイルで予約してた分だったので不幸中の幸いでした。
葬儀を終えた後もひとり残って母と事務手続きに勤しみ、折角だからと念願だったペーパードライバー講習を受け、一旦東京に戻って就活し、再び3月10日頃に熊本に帰ってきて、再びペーパードライバー講習を受け、母と二人で人吉に旅行したり、四十九日の法要を済ませると遂に私がハンドルを握って母と天草へ!
「お母さんは生ビールば飲むたい」
ずっとそう言ってあげたかったその言葉を、上天草のスパタラソで言えた喜び!
さすがに仕事しないわけにもいかないので、4月1日、後ろ髪ひかれましたが、熊本を後にしました。
そしてそれまでの2ヶ月間、かなりマメにエントリーし、5社ほど職場見学という名の面接に行ったのに、まあ決まらない派遣先。
正社員じゃ決まりっこないとはなから諦めて派遣で探していたというのに。
さすがに堪忍袋の尾が切れて、もういい!自力で探したるわい!と向かったハローワークで見つけた会社に、そのぼぼ10日後から正社員として働き出すことになるとは、人生わけわからんです。
で、働き出したのはいいんだけど、辛いこと辛いこと。
人間関係はむしろかなり良好なんだけど、前任者の後任として入った人が5日かそこらで辞めた後釜として入社したので、実質的な引き継ぎはなく。
そして結構でかい組織なのでいちいち分からないことだらけ。
そんな一番辛かった頃に飛び込んできたのが西城秀樹さんの訃報。
同い年の旦那もモップで真似してた小学生の頃はドイツ人テノール(当時既にアラフォー)に恋してて80年代に入って初めてロックに目覚めた私にはまだヒデキは早すぎて。
十代の時にロン毛で歌ってる「炎」とかめちゃくちゃカッコよかったなぁ。
ほんの3ヶ月ほどで気持ちは落ち着いちゃったけど、当時、ヒデキのおかげでどれだけストレスが軽減されたことか。
そして、ようやく仕事にも慣れてきた夏から秋にかけてBSで放送された「シェルブールの雨傘」と、それに続いて流れた「ロシュフォールの恋人たち」で運命の曲がり角がやってきた。
父が亡くなったのを機に自分でも驚くほどに楽器への興味が消え「やっぱり身体動かさなきゃ」と某スポーツセンターでクラシックバレエを再開していたんですが、ロシュフォールに出ていたジーン・ケリーが琴線に触れたのでした。
忘れてた。
そして思い出した。
二十代前半、ジーン・ケリーの大ファンだった時期があったことを。
で、YouTubeで「雨に唄えば」をどんなだったか確認するぐらいの気持ちで見てみたら、ほんとに開いた口がふさがらないぐらい凄くて、もう一気に再びジーン・ケリー熱が再燃してしまいました。
若かった私はタップダンスはダンサーが踊るものだと信じてて、そしていつものように熱が静まってからは、タップダンスっていうと「タケシが踊ってたっけ」という記憶だけになっていたんだけど、もういい年になってしまったことが逆に私の背中を押したのでした。
タップダンス、踊りたい!
2018年になった時に、まさか年末には自分がギターをすっかり辞めていて、代わりにタップダンスを習いはじめているだなんて、私の人災面白すぎるよ。
(´ー`)
ほんとに今年は長かったです。
2017年後半は父がだいぶ弱ってきていて、母は老々介護で草臥れていて。
土日からめた3泊4日とかじゃなく、ゆっくり実家にいてあげたくて1月末に5年間勤めた会社を辞めた数日後の2月5日、熊本へ向かいました。
父が入院していた病院に直行し、荷物を置きに一旦家に帰って再び病院へ。
「またあした来るけんね」と手を振って別れたその夜、まるで私が帰るのを待ってくれていたかのように、父は旅立ってゆきました。
最初はほんの5日程いて、また改めて帰省するつもりだったんだけど、急遽帰りの便は諦めてしばらくとどまることに。
マイルで予約してた分だったので不幸中の幸いでした。
葬儀を終えた後もひとり残って母と事務手続きに勤しみ、折角だからと念願だったペーパードライバー講習を受け、一旦東京に戻って就活し、再び3月10日頃に熊本に帰ってきて、再びペーパードライバー講習を受け、母と二人で人吉に旅行したり、四十九日の法要を済ませると遂に私がハンドルを握って母と天草へ!
「お母さんは生ビールば飲むたい」
ずっとそう言ってあげたかったその言葉を、上天草のスパタラソで言えた喜び!
さすがに仕事しないわけにもいかないので、4月1日、後ろ髪ひかれましたが、熊本を後にしました。
そしてそれまでの2ヶ月間、かなりマメにエントリーし、5社ほど職場見学という名の面接に行ったのに、まあ決まらない派遣先。
正社員じゃ決まりっこないとはなから諦めて派遣で探していたというのに。
さすがに堪忍袋の尾が切れて、もういい!自力で探したるわい!と向かったハローワークで見つけた会社に、そのぼぼ10日後から正社員として働き出すことになるとは、人生わけわからんです。
で、働き出したのはいいんだけど、辛いこと辛いこと。
人間関係はむしろかなり良好なんだけど、前任者の後任として入った人が5日かそこらで辞めた後釜として入社したので、実質的な引き継ぎはなく。
そして結構でかい組織なのでいちいち分からないことだらけ。
そんな一番辛かった頃に飛び込んできたのが西城秀樹さんの訃報。
同い年の旦那もモップで真似してた小学生の頃はドイツ人テノール(当時既にアラフォー)に恋してて80年代に入って初めてロックに目覚めた私にはまだヒデキは早すぎて。
十代の時にロン毛で歌ってる「炎」とかめちゃくちゃカッコよかったなぁ。
ほんの3ヶ月ほどで気持ちは落ち着いちゃったけど、当時、ヒデキのおかげでどれだけストレスが軽減されたことか。
そして、ようやく仕事にも慣れてきた夏から秋にかけてBSで放送された「シェルブールの雨傘」と、それに続いて流れた「ロシュフォールの恋人たち」で運命の曲がり角がやってきた。
父が亡くなったのを機に自分でも驚くほどに楽器への興味が消え「やっぱり身体動かさなきゃ」と某スポーツセンターでクラシックバレエを再開していたんですが、ロシュフォールに出ていたジーン・ケリーが琴線に触れたのでした。
忘れてた。
そして思い出した。
二十代前半、ジーン・ケリーの大ファンだった時期があったことを。
で、YouTubeで「雨に唄えば」をどんなだったか確認するぐらいの気持ちで見てみたら、ほんとに開いた口がふさがらないぐらい凄くて、もう一気に再びジーン・ケリー熱が再燃してしまいました。
若かった私はタップダンスはダンサーが踊るものだと信じてて、そしていつものように熱が静まってからは、タップダンスっていうと「タケシが踊ってたっけ」という記憶だけになっていたんだけど、もういい年になってしまったことが逆に私の背中を押したのでした。
タップダンス、踊りたい!
2018年になった時に、まさか年末には自分がギターをすっかり辞めていて、代わりにタップダンスを習いはじめているだなんて、私の人災面白すぎるよ。
(´ー`)