北杜夫のユーモア小説を愛読していたのは、中学生の頃だ。遠藤周作の「狸里庵(こんな
字だったっけ)先生もの」とか、も。『どくとるマンボウ航海記』とか、夢中で読んだ、気がする。最初に読んだのは『船乗りクプクプの冒険』だ。(たぶん)もう40年くらい前の話なので、あまり覚えていないけど。でも、夢中で読んだ、ということだけは忘れてない。なのに、何を読んだのか、定かではない。なんだかなぁ、である。
今回、この作品が映画化される、と知り、驚く。こんな昔の小説を今さらなぜ、という疑問だ。ロングセラーとして今も読まれ続けているのだろうが、それにしても、という感じ。
監督が山下敦弘なので、もうそれだけで必見だし、松田龍平主演で、この題材だ。きっととんでもなくゆる~い映画になるのは確実で、作り手の狙いもそこに尽きる。予告編も期待させる。『もらとりあむタマ子』のようなパターンになるだろうと、誰もが予想したはずだ。
なのに、なんだか、弾まない。あまりに緩すぎて、映画としての態をなさない。台本(春山ユキオって誰だ?)にメリハリがないだけではなく、(もちろん、そこを狙ったはず)しまりのないダラダラが、映画をつまらなくしてしまう。あまりに狙いに嵌りすぎて、映画は本来の可能性を締めだす結果になったのだろうか。
今どきの映画ではない。こういう作りにゆるい映画はあまりない。昔のプログラムピクチャーになら、こういうご都合主義の安易な作り方の作品は多々あった。最初からおまけとして作られるような映画だ。そこでは、1本の作品としての矜持なんかない。穴埋め的な作品でやっつけ仕事で作られる。この映画の安直さはそんな6、70年代の添え物映画(2本立の併映作品)に似ている。そこからキラリと光る作品が生まれた。上映時間が80分ほどだった『もらとりあむタマ子』なんて、その手の作品の傑作であろう。
なのに、これは残念だけど、そうじゃない。狙い通りに行き過ぎて、狙いをハズした、って感じだ。確信犯的ゆるさが違和感に繋がる。だいたいこれは東映系全国公開作品なんかにすべき企画ではなかろう。ひっそりと、ミニシアターで、公開すべきものだ。どうしてこれがこんなふうに上映されたのか。問題はそこではないけど、そこからもう問題ではないか、と思う。
すべて、予定通りのおもしろさ。そこにがっかりさせられる。予定調和の作品なのだ。意外性は皆無である。もともと、これはないわぁ、という感想を抱かせるところに意義のある作品なのだ。おじさんの存在にリアリティがないのが、一番の問題点だろう。こんなバカな人は現実にはいない。でも、実際にいた。(モデルは北杜夫、本人だし)現実でありえたことが、映画にするとありえない、と思える。そこが問題だ。映画としてのリアルを保ちながら、こんなおじさんがいたならなぁ、と思わせることこそが、大事だったはず。
後半のハワイにシーンがまるでおもしろくはないのは致命的だ。もともとこれは日常生活のスケッチとして成立するはずの映画で、非日常のハワイはお呼びでない。しかも、70年代ならともかく、今の時代にハワイなんて、ないわぁ、と思う。海外旅行が日常になった現在、ハワイを夢の島として描くなんて時代錯誤も甚だしい。そういう図式はもう成り立たないのに、そんな図式の上で映画を作る。いろんなところで、計算が狂ってしまったとしか、思えない映画で、残念でならない。
字だったっけ)先生もの」とか、も。『どくとるマンボウ航海記』とか、夢中で読んだ、気がする。最初に読んだのは『船乗りクプクプの冒険』だ。(たぶん)もう40年くらい前の話なので、あまり覚えていないけど。でも、夢中で読んだ、ということだけは忘れてない。なのに、何を読んだのか、定かではない。なんだかなぁ、である。
今回、この作品が映画化される、と知り、驚く。こんな昔の小説を今さらなぜ、という疑問だ。ロングセラーとして今も読まれ続けているのだろうが、それにしても、という感じ。
監督が山下敦弘なので、もうそれだけで必見だし、松田龍平主演で、この題材だ。きっととんでもなくゆる~い映画になるのは確実で、作り手の狙いもそこに尽きる。予告編も期待させる。『もらとりあむタマ子』のようなパターンになるだろうと、誰もが予想したはずだ。
なのに、なんだか、弾まない。あまりに緩すぎて、映画としての態をなさない。台本(春山ユキオって誰だ?)にメリハリがないだけではなく、(もちろん、そこを狙ったはず)しまりのないダラダラが、映画をつまらなくしてしまう。あまりに狙いに嵌りすぎて、映画は本来の可能性を締めだす結果になったのだろうか。
今どきの映画ではない。こういう作りにゆるい映画はあまりない。昔のプログラムピクチャーになら、こういうご都合主義の安易な作り方の作品は多々あった。最初からおまけとして作られるような映画だ。そこでは、1本の作品としての矜持なんかない。穴埋め的な作品でやっつけ仕事で作られる。この映画の安直さはそんな6、70年代の添え物映画(2本立の併映作品)に似ている。そこからキラリと光る作品が生まれた。上映時間が80分ほどだった『もらとりあむタマ子』なんて、その手の作品の傑作であろう。
なのに、これは残念だけど、そうじゃない。狙い通りに行き過ぎて、狙いをハズした、って感じだ。確信犯的ゆるさが違和感に繋がる。だいたいこれは東映系全国公開作品なんかにすべき企画ではなかろう。ひっそりと、ミニシアターで、公開すべきものだ。どうしてこれがこんなふうに上映されたのか。問題はそこではないけど、そこからもう問題ではないか、と思う。
すべて、予定通りのおもしろさ。そこにがっかりさせられる。予定調和の作品なのだ。意外性は皆無である。もともと、これはないわぁ、という感想を抱かせるところに意義のある作品なのだ。おじさんの存在にリアリティがないのが、一番の問題点だろう。こんなバカな人は現実にはいない。でも、実際にいた。(モデルは北杜夫、本人だし)現実でありえたことが、映画にするとありえない、と思える。そこが問題だ。映画としてのリアルを保ちながら、こんなおじさんがいたならなぁ、と思わせることこそが、大事だったはず。
後半のハワイにシーンがまるでおもしろくはないのは致命的だ。もともとこれは日常生活のスケッチとして成立するはずの映画で、非日常のハワイはお呼びでない。しかも、70年代ならともかく、今の時代にハワイなんて、ないわぁ、と思う。海外旅行が日常になった現在、ハワイを夢の島として描くなんて時代錯誤も甚だしい。そういう図式はもう成り立たないのに、そんな図式の上で映画を作る。いろんなところで、計算が狂ってしまったとしか、思えない映画で、残念でならない。