まさかの映画だ。最初予告編を劇場で見た時、こんな安易な企画絶対見たくはないな、と思った。でも、クレジットを見て驚いた。監督は英勉(ごめんなさい!)とかではなく、沖田修一と示されてあるのだ。しかもあの『横道世之介』の脚本前田司郎、監督沖田修一のコンビが再び挑む作品なのだ。もちろん、それだけでこの映画は信じられる。今一番見たい映画になった。
彼らは前作同様ひとりの人間の生きざまを追う。今回はのんを主人公にした。彼女が「さかなクン」をモデルにした「男か女かは、どっちでもいい」(と最初にクレジットが出る)性を超越した存在として、「とある(ただただひたすら)さかな大好き人間」を演じる。映画は彼女が演じたミー坊の人生の岐路を描く。
ミー坊の今の描写から始まり、海に沈んだところから、一気にドラマは巻き戻り、幼い日から再び現在までの日々が描かれていく。早朝のロケに向かう彼女のテンションは高くはない。だが、カメラが回った瞬間から、一気にハイテンションで「ぎょぎょぎょ」とさかなクンことばを連発する。そこに象徴されるものがこの映画の要となる。仕事に向かう彼女の姿勢の片鱗が掠める。
のんが演じる高校生の頃のお話がすごく楽しい。ヤンキーたちとの交流が笑える。(総長の磯村勇斗とその仲間たちが素敵だ。岡山天音のライバル校の総長もいい。彼らとのコミカルな描写が素晴らしい)もちろん(子役が演じた)子供の頃のエピソードもいい。ミー坊のいつだって真剣で魚への愛にあふれる無邪気な行為がなんだか心にしみる。映画の前半はとても幸せな気分にさせられる。だが、本題はそこではない。そこから先なのだ。
映画の後半、大人になった後のドラマは少し哀しい。ミー坊は、世の中にうまく適応できないのだ。ずっと「魚さん」(と、彼女は言う)が好きで、魚のことだけ考えて生きていたい。だから魚と過ごす仕事をすればいいと思うけど、それがなんだか難しいのだ。それは冒頭の幼年期のギョギョおじさん(さかなクン本人が演じる)とのエピソードにもつながる。ギョギョおじさんは世間から変人扱いを受ける。まともな仕事もなく、親の遺産を食い尽くしているらしい。この後に訪れるふたりの別れがお話全体を象徴する。「好きを貫くこと」それだけでは生きて生きづらい。
それがこんなふうに困難なことなのか、と改めて思い知らされる。水族館のスタッフなんてまさに適任と思うけど、ダメで、次はすし屋。(魚屋のほうがいよかったのでは、とか思うけど)これもなぁ、で、魚のペットショップ店員のバイトにとりあえず落ち着くけど、ちゃんと仕事をしているとは言い難い。宇野祥平が優しい店長を演じる。ミー坊はそんな彼に甘えるしかない。「好き」が仕事になればいいけど、好きだけでは仕事にならないなんて当たり前の話かもしれない。そんな彼女(彼)の純粋な想いが徹頭徹尾貫かれ、思い知らされる。
コミカルでバカバカしい映画になりそうなのにならない。ならないどころか、すごくシリアスでシビアな映画になっている。なのにそれがこんなにコミカルで笑える。一切ふざけることはない。本気。だから時に痛ましい。ラストでイラストレーターに活路を見出し、さらにはTVタレントへの道を進むのはモデルとなったさかなクンを踏襲したのだろうが、安易な「めでたしめでたし」ではない。冒頭ののんの表情とギョギョおじさんの末路にある憂いがいろんなことを象徴する。明るいだけではなく、そんな暗さを秘めて、全体のトーンを形成する。これだけの周囲の優しさや支えがあっても、好きを貫くことがこんなにも困難で、でも、それでも貫き通すことで、結果的にみんなを勇気付ける。そして、幸せにつながる。この映画が描くドラマは、実はただの「さかなクンの半生」の記録なんかではなく、もっと大きな意味での「ひとりの人間が好きを貫くためにはどう生きるべきなのか」への試みなのだ。