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映画・演劇のレビュー

『星影のワルツ』

2008-12-31 19:44:22 | 映画
これが08年最後に見た映画だ。究極のプライベートフイルムである。写真家の若木信吾監督第1回作品。祖父の写真を20年間にわたって撮り続けた彼が、04年に亡くなった祖父との思い出を1本の映画としてまとめあげた劇映画。

 敢えてドキュメンタリーという手法を選ばず劇映画にしたのはなぜか。きっと、亡くなられた祖父を過去のものとして描くのではなく、彼が生きた時間として見せたかったのだろう。にもかかわらず、映画は祖父の姿をお話として語ろうとはせずに、心象風景をドキュメンタリータッチで見せる。説明的な描写は一切ない。主人公である祖父を演じる喜味こいしを、ただ自由に映画のなかに存在させ、彼にカメラを向けただけのように見えるナチュラルな演技を引き出す。芝居っぽい芝居はさせない。

 それは彼だけではなく監督本人をモデルにした孫である写真家の青年に対しても同じである。編集は杜撰にすら見えるようなそっけなさで、時間のつながりさえよくわからない。ただ撮影したフイルムをそのままつないだだけ、のように見える。カメラも、時にはただまわしっぱなしにしたりもする。どうしてこんななげやりにすら見える見せ方を選んだのか、よくわからない。しかし、このそっけなさは見てて嫌ではない。

 障害を持った2人の友人の描写は、全体のバランスを著しく欠くくらいに時間を割いている。祖父との思い出を描く映画なのに、別の映画が割り込んだように見える。ここは完全にドキュメンタリーになっていたりもする。(彼らにインタビューするシ-ンもある)

 映画の終盤、祖父の兄が自殺したことを描く部分のさりげなさ。そっけないまでもの描写にも驚く。その衝撃を受け止める祖父の動揺を描く部分も同じだ。劇的な展開をことごとく拒絶する。延々と見せるラストの家族4人(両親と祖父、自分)で、祖父の兄が死んだ海を見に行くシーン(このシーンもドキュメンタリー・タッチ。というか、ただ彼らが歩くシーンを撮っただけ)も、そこにエモーショナルなものを関与させない。この徹底した描写がある種の法則性を持っているかというと、そうは見えない。

 映画が終わった後、生きていた頃の現実の祖父にカメラを向けたモノクロ・フィルムが流れるが、この映像の断片のコラージュは、それまでの劇映画としてのこの映画のタッチと全く同じ肌触りである。

 若木監督は生きていた頃の祖父の思い出を語るのではなく、祖父の姿そのものをカメラに収めたかったのかもしれない。この映画は第三者にとっては全く意味をなさない極私的な映画なのか。ならば、なぜそれを劇映画に仕立てたのか。個人的な思いを突き詰めることで、それがすべての人に届く普遍的なものとなると信じたのか。完成した映画からはその答えは出ない。

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