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映画・演劇のレビュー

オフィースコットーネ『山の声』

2019-05-31 21:13:34 | 演劇

 

久々に見る『山の声』が以前ほどの輝きを感じさせないのはなぜだろうか。後半、アイホールの広い舞台いっぱいに、怒濤のような雪を降らせて驚かせるにもかかわらず、である。

主人公であるふたり(というか、これは2人芝居だけど)の芝居がルーティンワークに見えてしまったのは、僕だけか? 今まで何度となくこの作品を見ているから、新鮮な気持ちで舞台と向き合えなかったのかもしれないが、この芝居を初めて見る妻も同じようなことを言っていたから、必ずしも僕だけがのれなかったわけではないだろう。

 

この作品は狭い空間でこそ、いかせられる芝居だ。だから、前回のウイングフィールドはとてもこの作品にマッチしていた。しかし、今回、アイホールに舞台を移したとき、作品の密度が薄まってしまったことは否めない。しかし、問題はそこだけではない。今回、オフィースコットーネのプロデュースで東京、大阪(伊丹だけど)の2都市公演となり、埋もれていた作品の再発見の場となったとき、気合いが入りすぎて、空回りした、という感想はわかりやすくていいだろう。しかし、必ずしもそうじゃない、という気も強くする。今回、久々に演出、大竹野正典というクレジットが入った。彼の死後、基本的に演出は「くじら企画」という表記になっているのを、もう一度もとに戻した。もちろん、死者である大竹野が戻ってきてこの作品の演出に携わったわけではない。これは作り手側の姿勢の問題である。敢えてこの表記を選んだことの覚悟が、この芝居からは伝わってこなかった。少なくともこの僕には。それがなんだか悔しい。

 

初めて、この作品における演出家の不在が作品の完成度をさげているのではないか、という疑念が生じた。もちろん、大竹野による演出を踏襲することは間違いではない。しかし、今、この作品を再演していくとき、独自の演出家の視点と仕掛けが必要だと思う。それがオリジナルスタッフ、キャストでの再演であろうとも。いや、それだからこそ、必要なのだ。もし、これを瀬戸山さんが演出していたなら、どんな作品になっただろうか。僕はそんな『山の声』を見てみたい。

 


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